イェルカロ(チベット)のカトリック・ミッションのジロドー神父はどうやって守られたか
ドモルネ神父による話 2021年5月9日
今日の説教では、聖心の聖母についてお話ししました。それについて、もう少しお話しします。
1864年から1895年の間に、聖心の聖母のお取り次ぎによって受けた特別の御恵みへの感謝のしるしとして、全世界から50万を超える感謝の手紙が、聖心の聖母連盟に届きました。
大きな困難に面している現代、私たちが聖母マリアにますます信頼する心を奮い立たせることができるよう、その手紙のうちの一つをご紹介したいと思います。
それは、中国の雲南省に面するチベットのイェルカロ(Yerkalo, Tsakalo, tsha kha lho, 鹽井)にあるカトリック・ミッションの長上であったジロドー(Giraudeau)神父からの報告です。
イェルカロのカトリック・ミッションは、1865年、パリ外国宣教会の2人の宣教師によって創立されました。するとすぐに、このカトリック・ミッションはチベット仏教の僧侶たちからの強い反対に遭いました。1880年には、チベット仏教の僧侶たちは、チベットから全てのカトリック教徒を追放、ないし殺害する計画を立てました。ラサの王であったダライ・ラマや、ラサの主要な僧院によって承認された命令が国じゅうに送られましたが、それは全国民に対して、キリスト教徒に対する作戦に協力するよう命じるものでした。チベット内に設立された五つのカトリック・ミッションを攻撃するため、僧侶たちは秘密裏に軍隊を徴集しました。
この計画は中国の役人の知るところとなり、攻撃の準備のことはカトリック教徒たちにも伝えられました。事態を恐れたカトリック教徒たちは逃亡を試みました。幼い子どもたちを背負って、雨や雪の中を、歩いてイェルカロのミッションまで逃げてきた人たちもいました。しかし、イェルカロのミッションには防御の手段がありませんでした。そこで、ジロドー神父は、女たち、子供たち、そして一部の男たちを、遠い雲南省の村に送ることにしました。
宣教師たちにはどこからも助けがなく、僧侶たちの攻撃から逃げるすべがありませんでした。この絶望的な状況下、宣教師たちと信者たちは、天に、とりわけミッションの守護の聖人であった聖心の聖母と、聖ヨゼフとに助けと求めました。カトリック信者は、全てのことは天主の御支配のもとにあり、天主のお許しなしには何事も起こりえないことを知っています。ですから、良いカトリック信者は、物事が実際に起こるまで、決して希望を捨てないのです。
状況は更に悪化してきました。僧侶たちの軍団がイェルカロに向かって進んでいたのです。僧侶たちは人々に、キリスト教徒に食べ物を売ったり、キリスト教徒をかくまったりすることを、すでに禁じていました。ついにある日、僧侶たちの軍団がイェルカロを攻撃するために近づいてきていることが、ジロドー神父に知らされました。
ところが、しばらくあとで実際に現れたのは、その軍団ではありませんでした。そこに現れたのは別のカトリック・ミッションから来た宣教師で、ラサに駐在する中華帝国の特使が、カトリック教徒たちへの攻撃をすぐ停止するようにと僧侶たちに命じたことを、ジロドー神父に伝えにきたのです。誰も全く予期せぬことでしたが、権勢を誇った僧侶たちが、すでに全ての計画を準備し、またその計画を実行する手段を持っていたにもかかわらず、特使の命令に従ったのです。
このように突然、そして忠実にその命令に従ったことは、信じがたい出来事でした。カトリック・ミッションを救ったのは、まさに本当の奇跡だったのです。そしてその奇跡は、聖心の聖母と聖ヨゼフによって与えられたものでした。
ご参考までに、最後に、このイェルカロのカトリック・ミッションの歴史について少しお話ししておきます。1949年、イェルカロのミッションの長上であったスイス人のモーリス・トルネ(Maurice Tornay)神父は、僧侶たちに殺害されて殉教しています。
そしてこのミッションは、1966年に中国の共産党政権によって閉鎖され、その閉鎖は1980年代の末まで続きました。
2003年には、横浜司教区が、地震の被害を受けた教会の改修の援助として、イェルカロ・カトリック教会に3つの鐘を寄贈しています。
https://www.irfa.paris/fr/annales/ga-c-na-c-rosita-c-des-chra-c-tiens-de-yerkalo