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「聖伝によるカトリックの司祭職」と「第二バチカン公会議の新しい司祭職」というのは180度方向が違っています。概念が違っています。全く別物です。

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2021年4月18日(主日)御復活後第二主日(良き牧者の主日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は良き牧者の主日と言われていて、私たちの主イエズス・キリストが真に良き牧者である、という事を黙想しました。ですから一緒に、良き牧者に倣う司祭たちの司祭職について黙想する事を提案します。

つい最近、バチカンの聖ペトロ大聖堂では、「司祭が一人で立てるミサは禁止される」という、署名もプロトコルナンバーもない、不思議な文章が出されました。一体これはどういう事なのでしょうか?

実はこれは、「新しい司祭職」、「新しいミサ」という教えが徹底的に適用される、という事の結果、新しい観念の結果です。

「聖伝によるカトリックの司祭職」と、「第二バチカン公会議の新しい司祭職」というのは、180度方向が違っています。司祭職の概念が違っています。全く別物なのです。それについて少し黙想致しましょう。

カトリック教会の教えによれば、そして公会議の不可謬の教えによれば、変わらない真理によれば、カトリック司祭の最も大切な権能というのは、「聖変化を起こす事」にあります。これは天使にも与えられていない特別の能力であって、司祭はキリストのペルソナにおいて、キリストの代理者として、“alter Christus” 第二のキリスト、別のキリストとして、キリストの代わりに、キリストに口と手を貸して、そしてパンをイエズス・キリストの真の体に変えます。

それは、聖変化の時に、「これは、“私の”体である」と司祭が発声する事によって、聖変化が起こる、という事から明らかです。もはやミサをしているのは、単なる個人ではないのです。個人的な人間ではなくて、イエズス・キリストが行なっております。

ミサでは、司祭はイエズス・キリストで、捧げられるいけにえもイエズス・キリストです。なぜかというと、ホスチアが、パンではなくて、真のキリストの体になるからです。そしてそれが捧げられるからです。御体の聖変化と御血の聖変化によって、あたかも御体から御血が分離したかのように、そして屠られたかのように、秘跡的にいけにえが屠られます。

こうする事によって、ミサ聖祭によっては、十字架のいけにえが、「無流血」の形で、血を流さない形で再現されます。私たちの目の前にもう一度現れます。唯一のいけにえですけれども、それがもう一度、私たちの前に現れるのです。そしてそれが再現されます。

それは、私たちが日々の罪を償い、赦しの為です。そしてこのミサ聖祭というのは、無限の悪を持つ、悪性を持つ、邪悪さを持つ「罪」という反乱の償いとして、イエズス・キリストが、天主の血を流して捧げられた、その無限の功徳を持っています。ですからミサというのには、「無限の価値」があります。

そしてたとえ無限の価値であっても、ミサが多く捧げられれば捧げられるほど、その適用がますます全世界に広がります。ですから教会は昔から、十字架でイエズス様が一人でミサを捧げたように、司祭が一人でいけにえを捧げてきました。脇祭壇がたくさんあるカテドラルとか教会がどこにもたくさんありました。

ところで、新しい司祭職、第二バチカン公会議の司祭職というのは、これと全く別なのです。これは第二バチカン公会議の公文書を読むとそう分かります。

それを読む限り、教会というのは「秘跡」であって、人類の一致の印であって、そして道具である、と言われています。【教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」『教会憲章』1】

そして司祭というものの最も基本は、洗礼を受けた全ての平信徒であること。全ての平信徒が司祭職を行使する。【「主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり」『司祭の役務と生活に関する教令』2】

その司祭職は何かというと、それはこの世を聖別する事である。この世を聖別するとは何かというと、この世を一つにまとめるという事なのです。この目的の為に、教会は今この地上にあると第二バチカン公会議ではされています。
【教会は「神との親密な交わりと全人類一致の…道具」『教会憲章』1】
【「人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。」『現代世界憲章』3】

では、(第二バチカン公会議による)職務的な司祭とは何でしょうか?職務的な司祭というのは、この平信徒の、重要な神の民という、その司祭職がよくできるように助けてあげるという事で、そしてミサでは座長や、つまりそれのMC(Master of Ceremony 司会)をやって司会をやって、神の民がミサを捧げる事ができるようにしてあげる、という事です。
【「1591 教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。 」『カトリック教会のカテキズム』】

叙階された司祭は、御聖体のためというよりも、むしろ神の民への奉仕のためにあります。ミサ聖祭は、司祭職の第一の直接の目的ではなくなりました。ミサは、目的のための手段、の奉仕のための単なる手段に過ぎません。第二バチカン公会議にとって、叙階された司祭の役務の目的および完成は、御聖体の聖変化ではなく、民の「聖変化」です。
【「司祭は…、諸国民が聖霊において聖化された快い供え物となるように、福音の聖なる任務に従事する。事実、福音の使徒的告知によって神の民が招き集められ、この民に属するすべての人が聖霊によって聖化されたとき、「神に喜ばれる生きた聖なる供え物」(ローマ12:1)として自分をささげる者となる。…司祭の役務はこのことを目ざし、このことにおいて完成する。事実、司祭の役務の実践は福音を告げ知らせることをもって始まり、キリストの供え物から力と威力をくみとり、「あがなわれた都の全体、すなわち、聖者らの集会または社会が、普遍的な供え物として、われわれを偉大な頭の体とするよう、受難においてわれわれのために自分をささげた大司祭によって、神にささげられること」を目ざしている。」『司祭の役務と生活に関する教令』2】

ですから、今までは2000年間教会は、司祭が、イエズス・キリストの名によって、イエズス・キリストのペルソナにおいて、ミサを捧げていた。十字架のいけにえの再現をしていた。一人でやっていたのが、それが兄弟たちの聖なる集まりにおいて、世を聖化する為に集まっていて、そして司祭はそれの座長をやるに過ぎなくなるのです。
【「典礼はキリストをのべ伝えるために、教会の中にいる者の力を驚くべき方法で強め、こうして外にいる者に対しては、教会を諸民族の前に掲げられたしるしとして示す。そのしるしのもとに散在する神の子らが一つに集められ、一つの群、ひとりの牧者となる。」『典礼憲章』2】

そこで強調点が、「御聖体」から「この世」に、「イエズス・キリスト」から「人間」に、移されているのです。

ですから司祭が向いている祭壇の方向が変わるのも、これで納得できますし、司祭が一人でミサを捧げるという事も、第二バチカン公会議による新しい司祭職の概念によるば、全く意味をなさないのです。
なぜかというと、人の集まりがないのにかかわらず、なぜ座長が要るのか?なぜ司会が要るのか?司会は不要じゃないか、会衆がいないのに集いをする事ができない。だからミサはする事ができないからです。

新しいミサは天主に対する犠牲というよりも人間の集会だからです。人間を天主へと結びつけると言うよりも、むしろ人間と人間とを結びつけるものだからです。
【「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3】
【「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」『現代世界憲章』 12)】

司祭は神の民の集会の座長に過ぎないとするなら、神の民が不在の時にはミサをする理由がないからです。ですから司祭が一人でミサを捧げることは疑問視されますし、むしろ、司祭不在の「集会祭儀」が促進されなければならなくなります。

だから「一人で捧げるミサ」というのは、第二バチカン公会議の新しい司祭職の概念によれば、考えられない事になるのです。ですからそれを推し進める限り、しない事になりました。
【「聖体祭儀の集会は、司祭を長とする信者共同体の中心である。」『司祭の役務と生活に関する教令』5】
【新しいミサは「キリストの行為であり、位階によって秩序付けられている神の民の行為」(ローマ・ミサ典書総則1番)】
【「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ:18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。…」ローマ・ミサ典書総則7番】

これを見るとますます、「新しい司祭職、新しいミサ」と、「聖伝による2000年間の、イエズス様が求めていたミサのいけにえと司祭職」が、ますます別のものである、という事がますます明確になっていきます。

天主様に感謝しなければならない事は、それでも色々なチャレンジがある中、聖ピオ十世会は、昔ながらの聖伝の司祭職を養成をしています。

昔ながらの教皇様たちが、歴代の教皇様たちが「しなさい」と言った通り、公会議が「そうだ」と決めた、不可謬に教えた教えの通りに、全世界で六つの神学校で、変わらない真理を教え続けて、その通りにやっています。司祭を養成しております。

どうぞ愛する兄妹の皆さん、この聖伝に従う、昔ながらのカトリック司祭がたくさん養成されて、そして多くの聖なる司祭たちが私たちに与えられるようにお祈り下さい。そして特に日本からも、多くの召命が出るようにお祈り下さい。マリア様に、聖ヨゼフに、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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