2021年の御聖体の祝日の短い説教
ドモルネ神父
はじめに
今日は、御聖体をお祝いしています。御聖体とは、パンとぶどう酒の外観の下にある、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂と、御神性です。今から、全実体変化という神秘について、少しお話しします。
1.御聖体の神秘
聖ヨハネの福音書には、私たちの主イエズスが、御聖体を告知される場面があります。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である…人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し…私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る…私を食べる者も、私によって生きる」(ヨハネ6章51-58節)。そして、最後の晩餐で、私たちの主イエズスはその約束を果たされました。「主はパンを取り、祝し、裂き、それを弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝し、彼らに与えて言われた、『みなこの杯から飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す契約の私の血である』」(マテオ26章26節)。
これらの言葉はそれ自体で非常に明確です。さらに、私たちの主イエズスが、私たちは主の肉を食べ、主の血を飲まなければならないと強調されたことから、主のみ言葉が象徴的な意味しか持たないという考えは確実に排除されます。主は、間違いを犯すことも、私たちをだますこともおできになりません。主はこう言われました。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、イエズスが、これはご自分の御体であり、これはご自分の御血であると言われるとき、それはまことに主の御体と御血でしかありえません。
しかし一方、最後の晩餐のときの使徒たちにとっては、またミサにあずかる私たちにとっても同様に、聖別されたパンとぶどう酒を見ても、それは人間の肉や血には見えず、単なるパンとぶどう酒に見えます。聖別されたパンやぶどう酒を味わうと、人間の肉や血ではなく、パンやぶどう酒の味がします。では、次の二つの要素をどのように調和させればよいのでしょうか。一方では、私たちの主は「これは私の体であり、私の血である」という真理を語られます。他方では、私たちはパンとぶどう酒としてしか感じないという事実があります。その答えは、「全実体変化」(Transubstantiation)という言葉で表わされます。
2.実体および偶有という考え
私たちが物や人について考えるとき、私たちは、同じままでいるものと変わるものという二つの要素を区別します。例えば、人間について考えてみましょう。胎児の時と大人になってからのその人を比べてみてください。その人は同じ人間ですが、同じにはまったく見えません。体格、髪の色、体重、容貌は変化しています。私たちは、同じままで変わらず、その人を同じ人間とさせるものを「実体」と呼びます。変化したものを「偶有」と呼びます。偶有とは、色、形、柔らかさや硬さ、粗さや滑らかさ、味、大きさなどのことです。
実体と偶有は常に結びついています。私たちは、その一方を変えずに他方を変えることはできません。例えば、私が木を木炭に変えれば、木の元の姿を変えざるを得ません。水を蒸気に変えれば、水の元の姿を変えざるを得ません。イチゴジャムを作れば、イチゴの元の姿を変えざるを得ません。人間には、ある物の偶有をまったく変えることなしに、その物を別のものに変える力はありません。
3.全実体変化という神秘
「全実体変化」というのは、偶有が一切変化することなく、実体が変化することを意味します。例えば、木の元の姿(色、大きさ、形、硬さなど)を保ったまま、木炭にしたようなものです。また例えば、水を、水の元の姿を保ったまま、蒸気にしたようなものです。あるいは、イチゴの元の姿を保ったまま、イチゴジャムを作ったようなものです。そのようなことは、人間の力では不可能です。しかし、天主の御力では可能でしょうか。はい、可能です。それはなぜでしょうか。なぜなら、天主はすべてのものを創造されたからです。天主は実体と偶有を創造され、そのふたつを結びつけられました。したがって、天主はそのふたつを分離させることもおできになるのです。天主がお望みならば、物の元の姿を変えることなく、その実体を変えることがおできになるのです。この天主の行為を、私たちは「全実体変化」と呼ぶのです。
私たちの主イエズスが、小麦のパンを手に取って「これは私の体である」と言われ、またぶどう酒【の杯】を手に取って「これは私の血である」と言われたとき、主はこのような全実体変化を行われました。私たちの主イエズスは、その天主の御力によって、パンの偶有を変えることなく、そのパンの実体をご自分の御体に変えられました。私たちの主イエズスは、ぶどう酒の偶有を変えることなく、そのぶどう酒の実体をご自分の御血に変えられました。ですから、パンとぶどう酒の外観の下に、イエズス・キリストのまことの御体と御血が存在するのです。このような変化がいかにして行われるのか私たちには理解できないため、私たちはこれを御聖体の神秘と呼びます。すべてのミサにおいて、聖変化のとき、私たちの主イエズスは、司祭を通してこの神秘的な変化を更新されるのです。
結論
今日、御聖体の祝日をお祝いするにあたって、御聖体への私たちの信仰を更新することにしましょう。御聖体は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主が御聖体に現存しておられるのは、私たちが、天主の御稜威にふさわしい供え物として、御聖体を聖三位一体にお捧げできるようにするためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの地上での旅の間、私たちと共におられるためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの霊的な食べ物となられるためです。
御聖体は、私たちにわたされた、無限の価値をもつ賜物です。世界中のすべての黄金や富を合わせても、ただ一つの聖別されたホスチアと比べれば、まったく価値のないものです。御聖体における私たちの信仰、イエズスへの敬意と愛が増すよう、聖母が取りなしてくださいますように。