罪の告白についての短い説教
ドモルネ神父
はじめに
今日は、罪の概念と、不完全性の概念についてお話しします。そして、悔悛の秘跡を有効に受けるためには、何を告白しなければならないのかを、思い起していただきたいと思います。
1.罪の概念
罪とは、私たちが天主の法を破る思い、言葉、行い、怠りのことです。天主の法は、天主の十戒と教会の六つの掟に表されています。あらゆる罪は、次の三つの要素から成り立っています。すなわち、天主の法を破ること、天主の法に反すると知りながらそれを行うこと、そして自発的にそれを行うことです。
罪には、大罪と小罪の2種類があります。大罪と小罪の違いは何でしょうか。罪は、三つの条件がそろうと大罪になります。一つ目の条件は、重大な問題で天主の法を破ることです。例えば、誤った宗教に参加する、冒涜の言葉を口にする、主日のミサを欠席する、泥酔する、妊娠中絶をする、避妊をする、不潔な罪を犯す、1万円以上の金銭を盗む、などです。二つ目の条件は、その行為が天主の法に反することを十分に認識しながら行うことです。三つ目の条件は、その行為を完全に同意して行うことです。例えば、灰の水曜日で、断食をしなければならないことを知っていても、それをしないと大罪を犯したことになります。
もし私たちが軽い問題で天主の法を破ったら、それは小罪です。例えば、少額のお金を盗んだり、冗談で嘘をついたり、少し食べ過ぎたり、誰かに対して短気になったり、仕事を少し怠ったりすることです。もし私たちが部分的に同意しただけで天主の法を破ったなら、それは小罪です。例えば、不潔な思いを抱いて、それをすぐに拒否しないことです。もし私たちが何らかの不注意で天主の法を破ったら、それは小罪です。例えば、誤って誰かを傷つけてしまうことです。
私たちは、自発的に天主の法を破っていなければ、罪を犯していません。例えば、次のようなことです。私は誰かに対して憎しみを抱きますが、この感情には全く同意していません。そのような場合、私は何の罪も犯していません。知りつつ天主の法を破らない限り、私たちは何の罪も犯しません。例えば、金曜日であることをすっかり忘れて、肉を食べることです。私は罪を犯していません。
2.不完全性の概念
さて、「罪」と「不完全性」を区別してみましょう。罪とは、天主の法を破ることです。不完全性とは、私たちが何かを、可能な限り良い方法では、しないことです。例えば、時々、私は朝のお祈りをしないことがあります。それは罪でしょうか。いいえ、それは不完全性です。天主や教会の掟には「なんじ、毎朝、祈りをすべし」というものはありません。毎朝、朝の祈りをしないことは、天主の法を破ることにはなりません。しかし、祈りをするのは、より良いことです。
別の例を挙げましょう。私は四季の斎日に断食をしませんでした。それは罪でしょうか。いいえ、それは不完全性です。現在、カトリック教徒は四季の斎日に断食しなければならない、という教会の掟はありません。四季の斎日に断食をしないことは、天主の法を破ることにはなりません。しかし、そのような断食をするのは、より良いことです。
3.なにを告白するか
悔悛の秘跡を受けようとするとき、何を告白しなければならないのでしょうか。悔悛の秘跡は、罪の赦しのためのものです。ですから、この秘跡を受けるためには、自分が今までに犯したことが確実である罪を告白しなければなりません。前回の告白以降に犯した大罪をすべて告白しなければなりません。前回の告白以降に犯した小罪をすべて告白することができます。また、すでに告白し、すでに赦されている大罪や小罪を再び告白することもできます。実際、私たちは、この罪やあの罪について申し訳ないと何度も天主に申し上げることができます。そして、天主は私たちを赦すと何度も言うことがおできになります。いずれにしても、悔悛の秘跡を受けるためには、自分が犯したことが確実である罪を告白しなければなりません。
もし私たちが、不完全性や、罪ではない行為だけを告白した場合、司祭は私たちに秘跡を与えることはできません。それはなぜでしょうか。司祭は天主の赦しを、何にでも適用できるわけではないからです。例えば、私がこんな告白をしたとします。「私は何回かロザリオを唱えませんでした。不潔な思いを抱いていましたが、すぐに拒否しました。これらが私の犯した罪の全部です」。私が今言ったことは罪ではないので、司祭は私に赦しを与えることができません。ロザリオを唱えなかったことは不完全性です。私は不潔な思いに同意していないので、罪を犯したわけではありません。
結論
告白に行くときには、赦されるべき罪があることを確認しなければなりません。では、どうすればいいのでしょうか。告白の最後に、特定の徳に反して、過去に犯した罪を挙げればよいのです。つまり、告白の最後にこう言うのです。「これらの罪、忘れたかもしれないすべての罪、私の人生のすべての罪、特に(愛徳、信仰、貞潔、従順、正義、その他なんらか[の徳]…)の徳に反する罪について、赦しと償いと清めを請い求めます」。公教会祈祷文では、こうなっています。「かくおぼえたる罪とおぼえざる罪と洗礼以来犯したる罪、とりわけ(なんらかの徳)の罪とをことごとく痛悔し、これが赦しと償いとの御恵みを請い求め奉る。」。このようにすれば、確かに、赦されるべき罪がありますから、司祭は赦しを与えることができるのです。