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ヴィガノ大司教:自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」が修正される懸念があることについての考察

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新しいミサと古いミサの間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。

私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。

ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。

教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。

ヴィガノ大司教「スンモールム・ポンティフィクムが変更される懸念についての考察」

2021年6月10日

【編集者注】この最新の文章で、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、予想されている「スンモールム・ポンティフィクム」への攻撃について、私が最良の解説だと思うものを与えてくださっています。大司教様は、ディープ・ステートとディープ・チャーチを同じものだとするというテーマに立ち戻り、この攻撃とパンデミックで行われたことの類似性を示しています。そして、そのすべての背後にいる「操る者のかしら」(master manipulator)、教皇フランシスコを指摘しています。

最も興味深いのは、大司教様が、革新主義者が正しくてベネディクト十六世が間違っていた、と指摘しておられることです。つまり、カトリックの儀式と新しい儀式の二つの形式のミサは共存できません。両者は相反しているのです。「ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる者は、間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。また『連続性の解釈法』の産物でもあります。」

主な攻撃対象は「エクレジア・デイ」共同体であって、彼らは古い儀式の限定的な使用を保持し続けるために教理を妥協するように迫られるだろう、という大司教様の予測に、私は同意します。このような致命的な妥協を受け入れない剛毅の徳が、その司祭たちに与えられますように。―ブライアン・マッコール(カトリック・ファミリー・ニュース編集長)


自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の修正の懸念についての考察

5月30日にベネチアで開催されたモンシニョール・アントニオ・リヴィ追悼に捧げられた哲学シンポジウムの機会に、私は邪悪な者【悪魔】の欺瞞の仕業の中で歴史上常に繰り返される要素を特定しようと試みました(こちら)。

私の考察(こちら)では、パンデミックの不正に焦点を当て、違法な強制措置や天賦の自由の制限を正当化するために与えられた理由が、実際には「言い訳」(prophasis)、つまり口実であり、本当は悪い意向や犯罪計画を隠すための表向きの理由であることを示しました。アンソニー・ファウチの電子メール(こちら)が公開されたこと、また、主流のナラティブ(物語)関する今まで以上の多くの反対意見の声を検閲することは不可能であることから、私の分析は裏付けられ、私たちは「グレート・リセット」の支持者たちの露骨な敗北を期待することができます。

その講演の中で、ご記憶のことでしょうが、私は、第二バチカン公会議もある意味では教会にとっての「グレート・リセット」だったこと、また、社会に革命を起こすために計画・設計された他の歴史的出来事と同様のものであることを述べました。

この場合も、典礼改革や、エキュメニズムや、聖なる司牧者たち【司教】たちの権威を議会化させることなどを正当化するための言い訳は、善意に基づいたものではなく、欺瞞と嘘に基づいたものでした。それは、使徒継承のミサ、救いの手段としての教会の唯一性、教導権の不変性、聖職位階の権威など、疑いのない善であるものを、より高い善のために放棄していると私たちに信じさせるためという方法でした。

しかし、私たちが知っているように、この崇高な善は到来しなかった(また到来しえなかった)だけでなく、実際に公会議の真の意向は、その破壊的で転覆的な価値のすべてにおいて明らかにされました。教会は空になり、神学校は放棄され、修道院は捨て去られ、権威は邪悪な牧者らのせいで信用を失って専制政治に変質し、善き牧者たちを無力にさせました。また、このリセット、つまり壊滅的な革命の目的は、信徒や聖職者を服従させるための高貴な意向の外見を羽織っていたにもかかわらず、最初から邪悪で悪意に満ちていたことも分かっています。

2007年、ベネディクト十六世は、50年間不当に否定されてきた正当性を復活させ、由緒あるトリエント典礼に完全な市民権を与えました。彼は自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、次のように宣言しました。

「それゆえ福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえを行うことは許される。(中略)いずれのミサ典礼書に従ってこのような典礼を行うにせよ、司祭はそのために使徒座ないし自らの裁治権者から許可を得る必要はない(こちら。日本語版はこちら)」。

実際には、この自発教令とそれに関連する実施文書の文面は決して完全には適用されず、今日、使徒の典礼でミサを捧げている「忠実なグループ」(cœtus fidelium)は、司教に許可を求めに行かなければならない状態が続いており、本質的には今でも、ヨハネ・パウロ二世の以前の自発教令「エクレジア・デイ」(Ecclesia Dei)での特別許可の命令に従うことに甘んじているのです。

聖伝の典礼が持つべき正当な名誉は、公会議後の改革による典礼と同等のレベルに置かれることで抑えられ、前者が「特別な形式」、後者が「通常の形式」と定義されています。それはあたかも、小羊の花嫁【である教会】が二つの声を持ち、一つは完全にカトリックの声であって、もう一つはあいまいでエキュメニカルな声であり、ある時は天主の御稜威に、またある時は信徒の集まりに向かって語り掛けることができるかのようです。しかし、トリエント・ミサの自由化が多くの善をもたらしたことも疑いの余地はなく、何百万人もの人々の霊性を養い、改革された典礼の不毛さの中で改心のきっかけも霊的成長のきっかけも見つけられなかった多くの霊魂を信仰に近づけました。

昨年、聖座は、革新主義者の典型的な行動として、ベネディクト十六世の自発教令の実施状況に関する情報提供を求めるアンケートを世界中の教区に送りました(こちら)。

この質問の書き方は、またしても第二の目的をさらけ出しており、ローマに送られた回答は、この自発教令を完全に破棄しないまでも、制限を押し付けるための見かけ上の正統性の根拠となるはずでした。確かに、「スンモールム・ポンティフィクム」の著者がまだ教皇座に座っていたならば、このアンケートによって、教皇は司教たちに、古い儀式でミサを行う許可を求める必要のある司祭はいないし、そうすることで司祭が任務から外されることもないことを思い出させることができたでしょう。

しかし、裁治権者に相談しようと望んだ人々の本当の意向は、霊魂の救い(salus animarum)にあるのではなく、聖なる教会の不変の信仰を断固たる明快さで表現している儀式に反する神学的な憎しみにあるように思えますし、この理由から、公会議の教会論、その典礼、そしてそれが前提としまたそれが伝えている教理とは異質のものです。トリエントの典礼よりも強力に、いわゆる第二バチカン公会議の教導職に反対するものは他にはありません。聖伝の典礼のすべての祈り、典礼学者に言わせるならば、すべてのペリコペ(pericope)【当日の聖書朗読部分】は、革新主義者たちの繊細な耳への侮辱となり、すべての儀式は彼らの目への侮辱なのです。

その儀式の神聖な源流から水を飲みたいと思うカトリック教徒がいることを単に「寛容する」としても、彼らにとってそれは敗北のように聞こえ、それが懐古趣味の高齢者やエキセントリックな美意識を持つ人々という小さなグループに限られている場合にのみ、耐えられるものです。

しかし、そのような言葉の普通の意味での「特別な形式」が、意識的にそれを選択した何千もの家族、若者、普通の人々の規範となるならば、それはつまずきの石となり、執拗に反対、制限、廃止されなければなりません。なぜなら、改革された典礼に対抗するものや、公会議の儀式の不潔さに代わるものはあってはならないからです。それはちょうど、主流派のナラティブ(物語)に対して反対の声や主張する反論ができないのと同じであり、実験的なワクチンの副作用に直面しても、ワクチンの無用さを証明することになるがゆえに、有効な治療法が採用されないのと同じです。

また、次のことも驚くことはできません。天主から来たのではない人々は、カトリックの牧者たちによって -- 権威を乱用する不忠実な牧者らではなく -- カトリック教会が治められていた時代のことを少しでも思い出すようなものすべてに不寛容なのです。信仰が完全な形で -- 世を喜ばせるために混ぜ物を入れられることなく -- 諸国に伝えられていた時代があったこと、真理に飢え渇いていた人々が、形ではこの世のものながら実体は天主的であった典礼によって養われ新たにされていた時代があったことを寛容することができないのです。

そして、昨日まで聖にして善だったことのすべてが非難され、軽蔑の対象となったのならば、その痕跡を残したままにしておくことは寛容することができず、耐え難い侮辱となるのです。なぜなら、トリエント・ミサは、モンティーニ【パウロ六世】の典礼が近づくことさえできない霊魂の琴線に触れるからです。

明らかなことですが、カトリックのミサを廃止するためにバチカンの裏で操っている人々は、何十年にもわたって行ってきた作業がこの自発教令によって損なわれているとみなしており、この自発教令を、今日、彼らが服従させている多くの霊魂たちの所有に対する脅威であり、教会という組織に対する彼らの専制的な支配力を弱めているものとみなしているのです。

私のように、信仰と霊性のかけがえのない宝を再発見した、あるいは公会議後の激しい迫害にもかかわらず天主の恩寵によって決して放棄しなかった同じ司祭たちや司教たちは、その中に自分たちの司祭職の魂と超自然的な命の栄養を見いだしたことで、それを放棄する気にはならないのです。そして、トリエント・ミサが教会にもたらしている良い点にもかかわらず、根拠のない理由でそれを禁止したり、その挙行を制限したりしようとする人々がいることは、つまずきを与えるものであると同時に不愉快なことです。

しかし、もしも私たちが改革を行う人々の立場に立って絵見るならば、これが彼らの歪曲された教会観に完全に一致していると理解します。彼らにとって教会とは、"霊魂の救いという目的のために、天主によって制定された完全な社会"ではないからです。彼らによれば、教会とは "単なる人間の社会でしかなく、そこでは権威は腐敗して自らが好むエリートに従属しており、また、漠然とした霊性へと大衆のニーズを導き、主が教会に意図された目的を否定し、良き牧者が何もしないように、彼らだけが従う官僚的な「かせ」によって強いる社会なのです。

この「袋小路」(impasse)、この法的な行き詰まりは、その権威において信徒らがキリストの声だと認めるという事をつかって、権威の濫用を信徒らに押し付けることができるという意味です。たとえその与えられた命令や、命令を決定する動機や、権威を行使する人々の、内在的な邪悪さがあまりにも明らかであることを目前にしても【信徒らは、命令が明らかな邪悪であることを信じず、邪悪な命令を受け入れるの】です。

一方、世俗の領域でも、パンデミックの間、多くの人々は、不条理で有害な規則に従いました。なぜなら、市民の健康と幸福を念頭に置くべき医師やウイルス学者、政治家から押し付けられたものだからであり、多くの人々は、犯罪的な計画の証拠に直面しても、彼らが何百万人もの人々の死や病気を直接意図することができるとは信じたくなかったからです。

これは、社会心理学者が「認知的不協和」(cognitive dissonance)と呼ぶものです。つまり、個人をして、巨大な詐欺の被害者であることを認識するよりも、したがって男らしく対応しなければならないとするよりも、不合理(irrationality)という快適な隙間に避難するように仕向けるものなのです。

ですから、古い典礼に結びついたカトリック共同体が増加し、ほとんど自発教令【スンモールム・ポンティフィクム】の文脈だけでのみ召命が開花し、それに従う人々の間では秘跡を頻繁に受け、キリスト教的生活をまじめに送ろうと一貫性が高まっているという現実を目前にして、それにもかかわらず、いったい何故、【聖伝のミサを捧げる】不可侵の権利を意地悪く踏みにじり、使徒継承のミサを妨げようとする願望があるのか、ということを自問するのはやめましょう。

むしろ、悪名高い異端者や道徳のない姦淫者らが誤謬をまき散らし嘆かわしい生き方を送っていることについて、少数派の信徒や聖職者たちが自分たちを守ってくれる保護者もいないのに、異議を述べているのに、彼らは、その異議を妨げる権力を持っているにもかかわらず、なぜ黙認し続けるのだろうかと、自問しましょう。

この点で、この【聖伝のミサに対する】嫌悪は、権威を簒奪し邪悪に濫用して、自発教令【スンモールム】に終止符を打つことによって、まさに明らかにされるしかないことを、私たちはよく理解します。プロテスタントの似非改革の時であっても、民衆に深く根付いていたいくつかの典礼の習慣には寛容がありましたが、それは短命でした。なぜなら、童貞マリアへの信心、ラテン語の讃美歌、奉挙のときに鳴らされる鐘 --- これらはもはや存在しませんが ---、ルターの信奉者たちが拒否していた信仰を表現していたため、必然的に消滅しなければならなかったからです。

また、ノブス・オルド(新しいミサ)とヴェトゥス・オルド(古いミサ)の間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。

さらによく考えてみると、ノブス(新しいミサ)の支持者が期待したヴェトゥス(古いミサ)の敗北は、少なくとも彼らの原則と首尾一貫しており、それはヴェトゥスによるノブスの敗北も同様に期待されるべきものであるのとちょうど同じです。ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる人々は間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。典礼の表現の多元性は、また『連続性の解釈法』の産物でもあります。

この自発教令に対する作戦には、革新主義者の「手口」(modus operandi)が再び現れています。まず、聖伝の典礼に対する最も狂信的な反対者の一部が、古いミサを「分裂的」と呼んで、「スンモールム・ポンティフィクム」の廃止を、挑発として、求めます。

次に、教理省が、教区長たちにアンケート(こちら)に答えるように求めますが、その回答は実質的に事前に用意されています(アンケートへの回答内容は司教省にも知らされるので、司教の出世は聖座に報告する内容に沿って進められます)。そして、イタリア司教団のメンバーとの非公開の会合で、ベルゴリオ(教皇フランシスコ)は平然とした態度で、「善良に見えるが硬直している」(こちら)神学生や、聖伝の典礼の普及について懸念していると述べ、公会議の典礼改革は不可逆的であることを常に繰り返しているのです。

さらに、教皇は、ヴェトゥス・オルド(古いミサ)の仇敵を典礼秘跡省長官に任命し、今後の制限適用の際の味方とします。最後に、パロリン枢機卿とウエレット枢機卿が、この自発教令の規模縮小を率先して望んでいることを私たちは知るのです(こちら)。

明らかですが、このことは、「保守的な」高位聖職者たちが、通常と特別の二つの形式を共存させる現在のシステムを擁護するために急ぐようにさせます。フランシスコには、「スンモールム・ポンティフィクム」を完全に廃止するのではなく、制限する「だけの」方向に進むことで、自分が二つの相反する流れの賢明な仲裁者であることを示す機会が与えられるのです。しかし、私たちが知っているように、この自発教令を完全に廃止することは、彼の作戦の始まりとは全く異なり、まさに彼が目的としていることなのです。

最終的な結果がどうなるかにかかわらず、この予測可能な劇の「機械仕掛けの神」(deus ex machina)は、いつものようにベルゴリオです。ベルゴリオは、保守派への寛大な配慮のジェスチャーを自分の手柄にし、制限適用の責任を新しい長官であるアーサー・ローチ大司教とその支持者たちに負わせようとさえしています。

このようにして、信徒の抗議の合唱と、それに対する長官あるいは他の高位聖職者たちの異常な反応があった場合、ベルゴリオは再び進歩主義者と伝統主義者の衝突を楽しむことになります。なぜなら、二つの形式のローマ典礼の共存は教会の分裂を引き起こすから、したがって「モンティーニの平和」(pax montiniana)に戻る、すなわち全時代のミサ(聖伝のミサ)の全面的な禁止に戻るのがより賢明であると肯定するための優れた論拠を持つことになるからです。

私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。自発教令の問題は、決して廃止されたことのない、また廃止される可能性のない儀式の正当性を再確認するものであるため、少しも交渉の余地はありません。

さらに、このような新奇なものを発表することが霊魂に与える確実な損害と、その新奇なものから悪魔とそのしもべにもたらされる確実な利益に加えて、ベルゴリオが、まだ存命中のベネディクト十六世に対して示した下品な無礼があります。ベルゴリオは、ローマ教皇が教会に対して行使する権威は代理者としてのものであり、自分が持つ権能は神秘体の唯一のかしらである主イエズス・キリストからもたらされていることを知るべきです。

使徒の権威と聖なる鍵の力を、主によって制定された目的とは反対の目的のために濫用することは、天主の御稜威に対する前代未聞の侮辱であり、教会の不名誉であり、自分がその代理者であるお方に答えなければならない罪です。そして、キリストの代理者としての称号を拒否する者は誰であれ、そうすることによって、自分の権威の正当性も失われることを知っています。

教会の最高権威が、宗教的な音色のキャンセル・カルチャーという不穏な作戦の中で、先祖たちから受け継いできた遺産を取り消してしまう(キャンセルする)ことは受け入れられません。

また、ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。

教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。公会議に従うという名目で、司祭や信徒に典礼革命を強引に押し付け、キリスト教生活の霊魂そのものをはぎ取り、フリーメーソンのブニーニがクランマーの「共通祈祷書」からコピーした儀式に置き換えたことは、すでに痛ましいことでした。

ベネディクト十六世が自発教令で部分的に癒やしたこの濫用は、古代の典礼の自由化に大きく賛同する要素が存在する今、決して繰り返されることはあり得ません。この危機に瀕した天主の民を本当に助けたいのであれば、50年間でカルヴァン主義がやった以上の損害を与えた「改革された典礼」こそが廃止されるべきでした。

聖座が自発教令に加えようとしていると懸念されている制限が、教区司祭に影響を与えるのか、それともメンバーが古い儀式のみを捧げる団体にも影響を与えるのか、私たちには分かりません。しかし、これまでにも申し上げてきたように、私が危惧しているのは、まさに後者に対して、革新主義者たちの破壊的な行動が解き放たれるのではないかということです。革新主義者たちは、トリエント典礼の「儀式的な」面は許容できるかもしれませんが、それが意味する教理的・教会論的な構造へ固執することを絶対に受け入れません。この構造は、革新主義者が例外なく押し付けようとしている公会議の逸脱とは大きく異なります。

だからこそ、これらの【聖伝を守っている】団体は、例えば、教区司祭がすでに行わなければならないように、少なくとも時折、ノブス・オルドの挙行を義務付けるなど、何らかの形で公会議の典礼に服従することを求められるのではないかと危惧しているのです。このようにして、自発教令を利用する人は誰であれ、改革された典礼を「暗黙のうちに」(implicit)受け入れることだけでなく、新しい典礼とその教理的な「心・精神」(mens)を公的に受け入れざるを得なくなるのです。また、二つの形式の典礼を捧げる人は誰であれ、何よりもその一貫性において「事実上」(ipso facto)自らに不信感を抱き、自分の典礼の選択を単なる美学的なもの(ほとんど振り付けのようなものと言えるでしょう)としてごまかすことになります。

実際、モンティーニのミサとそれに形を与えている「心・精神」(mens)に対する批判的な判断を彼から奪うことになります。なぜなら、彼は自分がそのミサを捧げざるを得なくなるだろうと分かるからです。これは、権力を濫用する権威が自らに反対する人々を委縮させる悪意に満ちたずる賢い作戦であり、その方法は、一方では古代の典礼を認めることによって、他方ではそれ【古代の典礼を認めること】を単なる美学的問題にすぎないとし、狡猾な両典礼主義と、さらに狡猾といえる二つの相反する対照的な教理的アプローチへの固執を義務付けることによってです。

しかし、ある時には、教理、儀式、生活の間に完全な一貫性を見いだすことができる由緒ある聖なる典礼を捧げるように求められ、次の瞬間には、異端者に好意的な新しい典礼を、つまり、古い典礼が誇らしく宣言していることを卑屈に黙っている、改ざんされた新しい典礼を捧げるなどということを、どうして司祭に要求することができるのでしょうか。

ですから祈りましょう。私たちが由緒ある古い儀式を行って完全な礼拝を捧ている天主の御稜威が、聖なる牧者たちを照らすことで、改革者らがその目的を断念し、聖なる教会の善のために、そして至聖なる三位一体の栄光のために、トリエント・ミサを本当に推進するようにしてくださいますように。

ミサの保護聖人である聖大グレゴリオ、聖ピオ五世、聖ピオ十世を「筆頭に」(in primis)何世紀にもわたって私たちに受け継がれてきた形式で聖なる犠牲を捧げてきた諸聖人に、私たちがそれを忠実に守ることができるように願いましょう。彼らの天主の玉座の前での取り次ぎが、全時代のミサの保存をこい願い、そのおかげで、私たちが聖化され、徳において強められ、邪悪なる者【悪魔】の攻撃に抵抗できますように。そして、もし教会人の罪が、ダニエルが預言したような非常に厳しい罰を私たちに与えることになるならば、私たちは、牧者たちの回心のためにこの試練を捧げるよう、カタコンベに降りる準備をしましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年6月9日
聖霊降臨後第二週の水曜日


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