Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

聖ピオ十世司祭会総長からの手紙 自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表を受けて

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表をうけての聖ピオ十世司祭会総長から手紙が発表されました。日本語の訳をご紹介いたします。

Letter from the Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X, in the light of the publication of the motu proprio “Traditionis Custodes”

聖ピオ十世司祭会総長からの手紙

自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表を受けて

「このミサ、つまり私たちのミサは、私たちにとって、本当に福音にある高価な真珠のように、持ち物を全部捨てる覚悟があるもの、持ち物を全部売る覚悟があるものでなければなりません。」

親愛なる聖ピオ十世司祭会の会員および友人の皆さん、

自発教令「トラディチオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)とそれに添えられた書簡は、いわゆる聖伝主義の運動に激変をもたらしました。私たちは、極めて論理的に、次のことを指摘することができます。つまり、曖昧さと幻想と努力しても不可能ということに満ちた「継続性の解釈学」の時代は根本的に終わったこと、その時代は袖の一振りで脇に追いやられたということです。このような明確な措置は、聖ピオ十世会に直接影響を与えるものではありません。しかし、私たちが今の状況を深く考察するきっかけとしなければなりません。そうするためには、一歩離れて、古くて新しい問いを自らに問いかける必要があります。トリエント・ミサが50年たっても、いまだに不和のリンゴ【争いの種。ギリシャ神話から】であるのはなぜなのか、と。

まず第一に、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、天主の御国とサタンの国との戦いという、これまでに存在した戦いのうちで最も激しい戦いを、時を超えて継続するものであることを忘れてはなりません。この戦いは、カルワリオにおいて、私たちの主の勝利によって最高潮に達しました。主がご托身されたのは、この戦いのためであり、この勝利のためでした。私たちの主の勝利は十字架とそのいと尊き御血を通してであったため、その延長戦も衝突と対立が特徴となることは理解できます。すべてのカトリック信者は、この戦いに呼ばれています。私たちの主が「地上に剣を持って」(マテオ10章34節)きたと言われたとき、主はこのことを私たちに思い出させてくださいました。主の贖罪の犠牲による罪への決定的な勝利を完全に表現しているミサが、それ自体で逆らいのしるしである、ということは、驚くべきことではありません。

しかし、ミサが、教会自体の内部で逆らいのしるしとなってしまったのはなぜなのでしょうか? その答えは単純で、また、ますます明らかになっています。50年たって、その答えを裏付けるさまざまな要素が、事情を熟知しているカトリック信者の間で明らかになりました。つまり、トリエント・ミサは、第二バチカン公会議から生まれた教会論とは絶対に相容れないキリスト教的生活の概念、ひいてはカトリック教会の概念を、表現し伝えているからです。この問題は、単に典礼的なもの、美的なもの、純粋に技術的なものではありません。この問題は、教義的なもの、道徳的なもの、霊的なもの、教会学的なもの、典礼的なものすべてなのです。一言で言えば、教会生活のすべての面に例外なく影響を及ぼす問題です。それは信仰の問題なのです。

一方には、「全時代のミサ」があります。このミサは、この世に逆らい、勝利を確信している教会の紋章旗です。なぜなら、その戦いは、罪を滅ぼし、サタンの国を滅ぼすために、私たちの主がなさった戦いの継続に他ならないからです。主は、ミサによって、またミサを通して、カトリックの霊魂たちを主の陣営に引き入れられ、主の十字架と勝利の両方を彼らに分けてくださるのです。これらのことから、犠牲の精神と揺るぎない超自然的な希望という二つの要素を特徴とする、基本的に戦闘的であるキリスト教的生活の概念が導かれます。

他方には、パウロ六世のミサがあります。このミサは、この世と調和しながら生きることを望み、この世の要求に耳を傾けるという教会の承認を受けた表現です。このミサは、最終的には、もはやこの世と戦う必要のない教会を表しています。なぜなら、このミサには、もはやこの世を非難するものは何もないからです。ここにあるのは、もはやこの世に教えるべきことがない教会です。なぜなら、この世の権力に耳を傾けているからです。ここにあるのは、もはや私たちの主の犠牲を必要としない教会です。なぜなら、罪という概念を失ったがゆえに、もはや贖うべきものがないからです。ここにあるのは、もはや私たちの主イエズス・キリストの普遍的な王権を回復する使命を持たない教会です。なぜなら、この教会は、より自由で、より平等主義的で、より環境に配慮した、より良い世界を、純粋に人間的な手段によってこのすべてを、この地上に創造するのに貢献することを望んでいるからです。教会の聖職者たちが自らに与えたこの人間中心主義的な使命は、典礼に適合しなければならず、必然的に、同じように人間中心主義的で、聖なるものという概念を空虚にした典礼となるのです。

過去50年間のこの戦いは、7月16日に非常に重要な出来事として現れたのですが、単なる二つの典礼の戦いではありません。これは、カトリック教会およびキリスト教的生活についての二つの異なる対立した概念、つまり、お互いに絶対に譲れない概念、そして相容れない概念の間の戦いなのです。聖アウグスティノの言葉を借りれば、二つのミサは二つの国を打ち立てたと言えるでしょう。つまり、「全時代のミサ」はキリスト教の国を打ち立てたのであり、「新しいミサ」は人間中心主義的で世俗の国を打ち立てようとしているのです。

全能の天主がこのようなことをお許しになったのですから、それは、さらに大きな善のためであるのは確実です。第一に、トリエント・ミサを知るという身分不相応な幸運を得て、それから利益を得ることができる私たち自身のためです! 私たちは宝を持っていますが常に感謝しているという訳ではなく、おそらくその宝を保存しているのは大部分、単なる習慣からかもしれません。貴重なものが攻撃されたり、軽蔑されたりすると、その真の価値がよく分かり始めます。7月16日の公式文書の厳しさによって引き起こされたこの「衝撃」が、私たちのトリエント・ミサへの愛着を新たにし、深め、再発見するのに役立ちますように! このミサ、つまり私たちのミサは、本当に、私たちにとって、福音にある高価な真珠のように、持ち物を全部捨てる覚悟があるもの、持ち物を全部売る覚悟があるものでなければなりません。このミサのために自らの血を流す覚悟のない者は、このミサを捧げるに値しません! このミサを守るためにすべてを捨てる覚悟のない者は、このミサにあずかるに値しません!

今、カトリック教会を揺るがしているこれらの出来事に対する私たちの最初の反応は、こうあるべきです。カトリックの司祭として、またカトリックの信徒としての私たちの反応は、深くなければならず、弱々しく時には絶望的な論評ではなく、もっと広範囲に及ぶものでなければなりません。

私たちの主がトリエント・ミサに対するこのような新たな攻撃をお許しになったからには、主は別の目的をお考えになっていることは確実です。ここ数年、多くの司祭や信徒がこの聖伝のミサを発見し、このミサを通して霊的・道徳的な新しい地平に出会って、そのことが彼らの霊魂の聖化への扉を開いたということを疑う人はいません。

今回のミサに対する措置は、これらの霊魂たちに、彼らが発見したもののすべての結果を引き出させることになるでしょう。つまり、彼らは今、選ばなければなりません。彼らの使うことのできる識別の要素を全て用いて、情報を熟知したすべてのカトリック信者の良心にとって必要なことを選択しなければなりません。

多くの霊魂たちは、自らの信仰に影響を及ぼす重要な選択に自らが直面していることに気づくことでしょう。なぜなら、もう一度言いますが、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、教義的・道徳的な教えの全ての最高の表現であるからです。それゆえ、それは、カトリックの信仰をその全体において選択するかいなかということ、それを通して、十字架と犠牲と普遍的な王権を持つ私たちの主イエズス・キリストとを選択するかどうかなのです。それは、主のいと尊き御血を選択し、十字架につけられたお方に倣い、完全で厳格で首尾一貫した忠実さによって、最後まで主に従うか否かということなのです。

聖ピオ十世会には、現在、狼狽し、混乱しているすべての霊魂を助ける義務があります。第一に、私たちには、トリエント・ミサは決して地上から消えることはないという確証を彼らに提供する義務があります。これは、絶対に必要な希望のしるしです。さらに、司祭であれ、信徒であれ、私たち一人一人は、彼らに温かい助けの手を差し伸べなければなりません。なぜなら、自らが享受している富を分かつことを望まない者は、本当は、それを所有するに値しないからです。このようにしてのみ、私たちは本当に霊魂たちを愛し、教会への愛を示すことになるのです。なぜなら、私たちが主の十字架のために、そして主がその犠牲を通して公に表明された巨大な愛のために、勝ち取るすべての霊魂は、主の教会のために、そして主の教会を活気づける愛徳のために、真に勝ち取る霊魂となるからであり、この愛徳は、特に今の時代、私たちのものでなければなりません。

これらの意向を私たちがお委ねするのは、御悲しみの聖母に対してです。私たちは、聖母にこそ祈りをお捧げします。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの犠牲(いけにえ)と主の十字架上の勝利という神秘を、聖母ほど深く理解しておられるお方はいないからです。主の苦しみと凱旋にこれほど密接に関わってきたマリア以上の人は存在しません。聖母の御手にこそ、私たちの主はカトリック教会全体を委ねられたのです。したがって、カトリック教会で最も貴重なもの、すなわち、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)という私たちの主イエズス・キリストの証しが委ねられているのは、聖母なのです。

2021年7月22日、聖マリア・マグダレナの祝日に、メンツィンゲンにて。
総長ダヴィデ・パリャラーニ神父

OGPイメージ

Lettre de l’abbé Pagliarani au sujet du motu proprio “Traditionis custodes”

Lettre du Supérieur général de la Fraternité sacerdotale Saint-Pie X, ...

FSSPX.Actualités / FSSPX.News

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles