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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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ルフェーブル大司教 1976年8月22日 私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

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ルフェーブル大司教の説教 1976年8月22日 エコンの神学校にて

愛する兄弟たちよ、

今日、教会が祝っている聖マリアの汚れなき御心の祝日は、比較的に新しい祝日です。そして、この祝日こそ、現代に相応しく適応させるために、近年に教会がすることが出来、教会がしてきたことの証です。なぜなら、これは、私たちが今必要としている真理、私たちが黙想する際に霊魂に適応させようと望む真理、を思い出させてくれる祝日だからです。これを聖マリアの汚れなき御心の祝日が、私たちに思い起こさせてくれるのです。

この祝日は、特にファチマの聖母の御出現と特別な関係があります。そして、教皇ピオ12世がお望みになって、今後、聖母の被昇天の第8日目すなわちオクターヴァが、聖母の汚れなき御心の祝日となるように定められました。はい、おそらくそれ以前から、17世紀から聖母の汚れなき御心へに対する信心があったでしょう。例えば、私たちは、ついこの前、聖ヨハネ・ユードの祝日を祝ったばかりですが、この聖人は「イエズスとマリアの聖心」という名前を持つ修道会を創立したのです。

ところで、私たちの聖なる聖父である教皇ピオ12世が、特別な方法で聖母の汚れなき御心を敬おうと望まれたのは、現代こそこれが必要だからです。実に、私たちの生きているこの厳しい時代、昔のキリスト信者が持っていたもの、つまり、今日のように私たちの主イエズス・キリストの愛の現れを私たちから奪い去ってしまう時代には、本当に聖母の汚れなき御心が必要です。

キリスト教世界の数世紀の間は、私たちの主イエズス・キリストの愛の現れが言わなくても明らかでした。なぜなら、全キリスト教世界のどこにでも修道院があり、修道生活は栄え、観想的修道院、活動的修道院、修道院運営の病院、あらゆるタイプの修道院が、数多く私たちの村や町、地方にも都市にも増加していたからです。それは、その時代に生きていた人が、いわばイエズス・キリストの愛と祝福の中に浸かっていると言うような印象を持つほどであった、と思います。なぜなら、主の愛が私たちの住む小さな路地にも、十字架の像、聖母像、愛徳の家があり、貧困者や巡礼者、苦しんでいる人々を受け入れる修道院運営の収容施設などにおいて、どこにでも明らかに現れていたからです。私たちの主の愛がどこにでも現れていました。

しかし、現代は、今世紀は、どれほど厳しい時代となったことでしょうか。私たちの住む都市にも、田舎にも私たちの主の愛を見つけることがもはや出来なくなってしまっています。ああ、勿論、私たちの主のために献身的に働いている霊魂たちもまだいます、しかし、一体幾人いるというのでしょうか。人口比にして、一体どれほどになると言うのでしょうか。そして、まだ主の愛を知らない国々、中国のようにあるいはアフリカのように大きな国々においては、どれほど多くのやらなければならない仕事があることでしょうか。そして、これらの国々は、主の愛からどれほど遠くにあることでしょうか。

ですから、現代、私たちには聖母マリア様が必要であると思われます。私たちには、私たちを助けて下さる、私たちが信仰を維持するようにと助けて下さる聖母マリアの御心が必要です。それは、いわば私たちの主がどれほど私たちを愛して下さっているかと言うことを感じることが出来るためです。私たちは、主の愛をこの眼で見ることがますます少なくなってしまっています。私たちには、聖母の愛を直ぐそばで感じる必要があるのです。そのために、聖母はファチマでご自分の汚れなき御心に祈るようにとお望みになったのだと思います。私たちにはこの天主の愛情が必要です。童貞女聖マリアの御心に広がった天主の愛情が。私たちには、聖母の汚れなき、そう汚れなき御心が必要です。汚れなき、つまり、染みも汚れも罪もない、と言うことです。

天主は知っています。まさに、現代世界において私たちの周りには、私たちの主に全生涯を捧げ尽くした聖母の御生涯の模範がもはやないことを、私たちの主の掟、愛の掟の実現に尽くした模範がないことを。天主の掟は天主への愛と隣人への愛にまとめられるからです。

ところで、現在社会で何が起こっているかは、皆さんがその証人です。子供は殺され、人は自殺し、ここスイスでは自動車事故で死ぬ人よりも自殺によって死ぬ人の方が多いのです。このことつい最近新聞が報道したばかりです。1800人の自殺が去年ありました。しかし、昨年自動車事故で死んだ人は1600人でした。1800人の自殺。そして、一般的にこれらの自殺は若者の自殺です。これは何を意味しているのでしょうか。これは、これらの霊魂たちは、自分の周りにもはや私たちの主の愛を感じていなかった、と言うことです。彼らは自分の生を嫌悪し辟易していたのです。だから自殺してしまったのです。もし、他の国々での事情を公表したとしたら、私たちはきっと胸悪く思うことでしょう。

離婚する人のことを考えると、どこに行ったらよいのかわからない、自分のお父さんが誰で、お母さんが誰かも知らない見捨てられた子供たちのことを考えると、悲しくなります。

私たちは、今、険悪な時代、辛い時代に生きています。愛徳を実践しない時代に生きています。

以前30年の間派遣されていたアフリカ諸国にいたときに個人的に感じたことですが、そして、私が一番びっくりしたことは、それは憎しみです。彼らはしばしば村ごとに憎しみを抱いていました。そして同じ村でさえも、家族ごとに憎しみがありました。その結果として、毒を盛ったり、殺人が頻繁でした。これは、憎しみのためでした。私たちの主の愛が君臨していないのです。

私たちの聖父にイエズス・キリストが、私たちの母に聖母マリア様がいると言うことが、どれほど幸せであるかと言うことを私たちはよくわかっていません。そこにこそ、天主様のために、私たちは愛と模範を汲み取らなければなりません。

何故かと言えば、聖母が愛の心を持っていたとすれば、それは私たちの主イエズス・キリストを愛するため、イエズス・キリストに属するものを愛するため、全ての霊魂をイエズス・キリストに導くためだけだったからです。聖母はこの愛を生きていたのです。そして、聖母は私たちの主を愛したがためにこそ、聖母は天主に罪を犯して主を侮辱しなかった、そんなことをすることが出来なかったのです。聖母は御受胎の瞬間から汚れなくましまし、ご誕生の時も汚れなく、御生涯の間、終生汚れなくましましたのです。聖母は私たちにとって、純粋さの、心の純粋さの模範です。私たちの主イエズス・キリストの掟に従順であることの模範です。

聖母は、私たちの主を愛したがために、主と共に苦しむことを、主の苦しみを分かち合うことを望みました。苦しみを分かち合うこと、これこそ愛の印です。聖母はその聖子イエズスが苦しむのをご覧になり、ご自分の主と共に苦しむことを望まれたのです。私たちの主イエズスの聖心が槍で貫かれたときに、聖母の御心も貫かれました。天主様の栄光のために、イエズス・キリストのために、イエズス・キリストの御国のために美しく調和しつつ生きた2つの聖心が貫かれたのです。この二人は、そのために戦ったのです。

だから、私たちも苦しむ覚悟が出来ていなければなりません。私たちの主イエズス・キリストが君臨し給うように。私たちの社会で、もはや、私たちの主は君臨していません。私たちの家庭で、もはや私たちの主は君臨していません。私たち自身において、もはや私たちの主は君臨していません。

私たちには、このイエズス・キリストの君臨が、イエズス・キリストの御国が必要です。なぜなら、これこそが私たちの霊魂と肉体、この地上にある全人類と全被造物の唯一の存在理由だからです。このために私たちは、生きているからです。イエズス・キリストが君臨するようにと。願わくは、主がその生命と救いと愛と栄光を霊魂たちに与え給うように。

私たちはよくわかっています。まさしく、ここ15年の間、聖なる教会で起こったことは、本当の革命でした。この革命はイエズス・キリストの王国を攻撃しています。この革命は、イエズス・キリストの君臨を崩壊させてしまおうと望んでいます。それは、全く明らかです。目を開かせましょう。確認できます。人々はイエズス・キリストの掟にもう従おうとはしません。不幸なことに、私たちに主の掟に従順であるようにと教えなければならない人々が、不従順であるようにと勧めているのです。

何故かというと、

国家の無宗教性をのぞむと言うことは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を破壊させることだからです。

婚姻が聖なるものであるという現実を疑うことは、そして婚姻に関する掟を疑うことは、家庭における私たちの主イエズス・キリストの愛を崩壊させてしまうことだからです。

もし、私たちが強く、公に、堕胎に反対しないと言わなかったとしたら、私たちの主が君臨しないようにすることです。

私たちの主イエズス・キリストの王国に対する信心を崩壊させることは、私たちの主が霊魂において君臨することを破壊させることです。

愛する兄弟たちよ、ミサ聖祭とは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を宣言すること以外の何ものでもありません。私たちの主は一体何によって君臨したのでしょうか?Regnavit a ligno Deus! 主は、十字架の木によって君臨しました。十字架の木によってこそ、主は悪魔に打ち勝ち、罪に打ち勝ちました。

ですから、私たちの主の犠牲、祭壇におけるカルワリオを更新することによって、私たちは、私たちの主イエズス・キリストの王国を肯定し宣言するのです。私たちは、主が天主であることを肯定し宣言するのです。

私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

だからこそ、現代では、御聖体礼拝はこれほどまでに少なくなってしまったのです。そうでなければ、涜聖が数限りなく増加しています。これは、はっきり言わなければなりません、公会議以後のことです。これは明らかです。人々は御聖体にまします私たちの主を祭壇の外に追放しました。もはや私たちの主を礼拝しません。御聖体の前で跪きもしません。私たちの主の君臨とは、主をまことの天主と認めることなのです。主を私たちの王と承認することなのです。

従って、私たちは私たちの主イエズス・キリストの愛を、その御神性を表さなければなりません。

私は、事実だけを申します。これは公表されたことです。合衆国のフィラデルフィアで開かれた聖体大会で、御聖体行列があったでしょうか?いいえ。ありませんでした。私は4年前にメルボルンの聖体大会に参加しましたが、そこでもなかったと同じです。何故、御聖体行列がないのでしょうか?なぜなら、この聖体大会をエキュメニカル大会にしたかったからです。エキュメニカル大会とは、プロテスタントやユダヤ教と、又イエズス・キリストが天主であると言うことを信じない人々、イエズス・キリストを崇拝しようとしない人々、イエズス・キリストの君臨を望まない人々と共にする大会のことです。私たちの信仰に反対する人たち、私たちの信仰を認めようとしない人々と一体どうやって祈ることが出来るというのでしょうか?だから、彼らは、参加の条件として、こう言ったのです。「私たちは聖体大会に参加したいが条件がある。それは聖体行列をしないと言うことである。」つまり、私たちの王、私たちの聖父、私たちの創造主、私たちの救いのためにご自分の全ての御血を流された贖い主である方に誉れを捧げてはいけないと言うことだったのです。主を礼拝することを彼らは拒んだのです。そこで、この条件を受け入れました。それは、プロテスタントやユダヤ教とたちが聖体大会に参加するためには、聖体行列をしてはいけなかったからでした。しかも、プロテスタントの牧師と一種の共同司式をやったのです。更に、この共同司式の座長はプロテスタントの牧師だったのです。

これは、みな天の復讐を呼び求めています。復讐を。私たちの主は、もはや敬われていません。私たちの主は、もはや私たちの王ではなくなってしまっています。このようなことは、主を屈辱することなのです。

ある日、軍隊が、共産軍が私たちの国を侵略するとしたら、私たちはそれに値するだけのことをしたと言うことです。涜聖をそのままほったらかしにし、公認し、私たちの主イエズス・キリストに誉れを捧げず、イエズス・キリストを王として望まず、悪魔が私たちの王として玉座に着くことでしょう。その日が来るでしょう。

私たちは、「自由」によってそうなのです。「自由」を望んだ人たちのこの「自由」とは、単に天主と教会の掟から自由になるということでした。彼らは私たちの主から自由になろうとしました。彼らに別の君主が君臨することでしょう。この闇の君主が「自由」とは何かを教えに来るでしょう。

私たちは幸福にも、これらのことが理解できます。これら私たちの主の王国を信じることが出来ます。私たちは主の愛を表さなければなりません。私たちは、家庭で、私たちのいるところがどこででも、主の王国を宣言しなければなりません。まだ私たちの主の御神性と御国を信じているキリスト者がいるところで、又、聖母が聖子に対して持っていたのと同じ愛を持つ人々がいるところで、私たちは、どこでも一致して、宣言しなければなりません。彼らが、躊躇うことなく、一致し、その愛を堅く保つように。このような彼らこそ教会です。私たちの主の君臨を崩壊させている人々ではありません。

はっきり言わなければなりません。これはスーネンス枢機卿が言ったことで、私が造った言葉ではありません。曰く、「公会議は教会におけるフランス革命であった」と。はい、私は、確かに、公会議は教会におけるフランス革命であったと思います。スーネンス枢機卿はそれを喜びました。私たちはそれを悲しみます。私たちは嘆きます。なぜなら、教会における革命とは、人間の理性を礼拝する理性神の君臨だからです。人間理性は1789年の先駆者によって礼拝されました。神となった人間理性は修道士や修道女を死刑に処しました。私たちのカテドラルを崩壊し、私たちの神聖な聖堂を犯しました。

今私たちが目の当たりにしている革命は、1789年のフランス革命よりもひどいものです。公会議以降、教会で、又私たちの家庭で、學校で、大学で、神学校で、修道会で、何が起こったかということを一覧表にまとめてみると、結果は1789年の時に起こったことよりも、更にひどいことがおこっています。なぜなら、1789年には、少なくとも修道士や修道女たちは死刑台に昇りました。それは自分たちの血を私たちの主イエズス・キリストに捧げるためでした。私は、ここにいる皆さんもイエズス・キリストのために自分の血潮を捧げる覚悟が出来ていると思います。しかし、現代の教会における革命においては、そうではありません。何という恥ずべきことでしょうか。司祭職を捨ててしまった司祭、毎月、まだまだ、多くの司祭たちがその申請のためにローマに行くのです。叙階式の時にわたしたちの主に一生仕えるという誓いをうち捨てて、結婚するために。そして、3ヶ月後には、結婚の許可が下りています。

これは、あまりにもひどいではありませんか。私たちの主を捨てるよりも主に対する信仰を宣言するために死刑台に昇るほうがまだましです。

公会議の後に起こったことは、フランス革命の数倍悪い結果をもたらしています。公然の敵がいた方がよっぽどましです。教会と私たちの主は、戦争宣言をするからです。

しかし、私たちの主を敬い、礼拝し、私たちの主に対する信仰を明らかに表明しなければならないはずの人が、私たちの目の前で冒涜を行い、私たちの主を捨て去り、ある意味で屈辱を与えているように思えます。私たちは、これを受け入れることが出来ません。

私たちこそカトリック教会です。彼らこそカトリック教会から離れていくものです。私たちが離教をするのではありません。私たちは、主の君臨を望んでいるからです。私たちは、それを高らかに宣言し、主に従う覚悟が出来ています。願わくは、私たちの牧者がどこででも「私たちは唯一の天主イエズス・キリスト以外何ものも望まない、私たちには唯一の王、イエズス・キリスト以外だれもない」と言いますように。そうしたら、私たちはこれに従います。

しかし、彼らは私たちの祭壇から主の十字架を取り除き、主の君臨を破壊しています。

私たちは、この点を確固と保持しなければなりません。私は、不従順だといわれました。きっともうすぐ離教的だと言われることでしょう。全く違います。私は、不従順でも、離教的でもありません。私は教会に、私たちの主イエズス・キリストに従っています。

「おまえは教皇に不従順だ」といわれます。私はこう言います。教皇様が公会議の最中また公会議後になされた革命と一致する限りにおいて私は教皇様に不従順です。なぜなら、公会議の革命は教会におけるフランス革命だらです。私は教会内のフランス革命に従順であることが出来ません。私は理性神に従順であることが出来ません。私は、理性神の前に膝を屈めることが出来ません。しかし、皆が私に求めているのはまさしくこのことなのです。この神学校を廃校するようにと要求するのは、皆がそろって理性神を礼拝するようになるためなのです。

人間。人間への礼拝。人間を礼拝する。ダメです。こんなことは決して出来ません。これを受け入れることが絶対に出来ません。私たちは天主に従順たりたいのです。イエズス・キリストに従いたいのです。私たちに信仰を与えなければならない人々が信仰に従っている限り、彼らに私たちは従うでしょう。彼らは信仰に挑戦する権利がありません。信仰は彼らのものではありません。信仰は教皇様のものではありません。信仰は教会のもの、天主のもの、私たちの主イエズス・キリストのもので、教皇様も司教様もこの信仰を伝えるためにいるのです。彼らが、この信仰を伝える限りにおいて私たちは跪いて従い、すぐさまに従うつもりです。しかし、彼らが信仰を破壊する限りにおいて、もはや従うことが出来ないのです。

私たちは、信仰が破壊されるままそれを許すことが出来ません。私たちの信仰は、心に深く死ぬまで掛けられている、と言わなければなりません。それを宣言しなければなりません。

私たちは、不従順ではなく、従順なのです。イエズス・キリストに従順なのです。これこそが常に教会がその信者に要求してきたことです。

「おまえは裁いている、教皇を裁いている、司教たちを裁いている」ともいわれます。私たちが裁くのではありません。信仰です。聖伝です。昔からの小さな公教要理の本です。もし司教様が5才になる子供に「三位一体の中に3つの位格があるというのは嘘だ」といったとしたら、5歳の子供でさえ司教様に、「公教要理に書いてあることは、司教様のいっていることと違っています、司教様が間違っていて、私の方が正しい」ということが出来ます。この子供は、正しいのです。なぜなら、この子供には教会の全聖伝がついているからです、教会の全信仰がついているからです。そして、私たちのやっていることは、この子供のしていることと同じなのです。

「おまえは、断罪する」といわれます。違います。「聖伝が、あなたの今していることを断罪しているのです。」と私は言いましょう。私たちには教会の2000年の聖伝がついています。10年やそこらの新しい「公会議後の教会」ではありません。「公会議後の教会」とは、ベネリ司教が私たちに言ったことです。ベネリ司教は私たちに「公会議後の教会に従え」と要求しました。私は「公会議後の教会」など知りません。私の知っているのはカトリック教会だけです。

私たちは、この立場をしっかりと保たなければなりません。私たちの信仰のためであれば、何でも甘受しなければなりません。全ての苦しみを。あざけられ、破門され、叩かれ、迫害を受ける覚悟をして下さい。もしかしたら将来、政府が私たちを迫害するかもしれません。この可能性さえもあります。なぜなら、教会を崩壊させるのはフリーメーソンの業だからです。フリーメーソンはありとあらゆるところで命令を下しています。ですから、もし彼らが私たちにフリーメーソンの計画を危うくするほどの力があると見れば、政府が迫害を始めるでしょう。

そうなれば、私たちはカタコンブの中に入りましょう。私たちはどこにでも行きましょう。しかし、私たちは信じ続けます。私たちは、私たちの信仰を捨てるつもりはありません。私たちは迫害を受けるでしょう。私たち以前にも、信仰のために多くの人々が迫害を受けました。私たちが1番最初だというわけではありません。しかし、少なくとも、私たちは、イエズス・キリストの信者であるということの名誉を、誉れをイエズス・キリストに捧げることが出来ます。主を捨てず、主を裏切らず、忠実であったという名誉です。これが私たちのしなければならないことです。確固としていることができるよに祈りましょう。

この聖母の祝日に、聖母に祈りましょう。聖母のように、私たちの心にも一つの愛が、私たちの主イエズス・キリストに対する唯一の愛のみがありますように。私たちの心に深く刻まれている名前は、イエズス・キリスト以外ないことを。イエズス・キリストこそが天主であり、救い主であり、永遠の司祭、全てのものの王にして、主は今、天にましまし、この天では主のみ王なのです。天においてイエズス・キリスト以外王はいません。イエズス・キリストこそが、全ての天使、聖母、聖ヨゼフ、全ての選ばれたものの至福であり、私たちもこの至福、この誉れ、この栄光、この私たちの主の愛に参与することを望みます。私たちの知っているのは、イエズス・キリストのみであり、私たちは、私たちの主イエズス・キリスト以外誰をも知ることを望みません。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン

(ルフェーブル大司教の説教のカセットテープ集HOMEC 第8巻から、直接日本語に訳しました。)

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Homélie à Écône, 22 août 76, Cœur Immaculé de Marie

Homélies prononcées par Mgr Marcel Lefebvre, fondateur de la Fraternit...

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