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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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天使からお告げを受けた聖母のお答え 悲しみの聖母マリア Ecce ancilla Domini! Fiat!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちがロザリオを祈るとき、天使祝詞を繰り返し唱えます。天使の挨拶の言葉です。

ヤン・ヘンリック・デ・ロセン(Jan Henryk de Rosen, 1891 - 1982)は、ワルシャワ生まれのポーランド人画家で、アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂の壁画を多く描きました。その壁画の一つが「お告げ」です。天使が聖母マリアにお告げをしているのが前面に描かれ、背景にはカルワリオが重なり、顔は隠れてはっきりとは分からないけれどもイエズス・キリストが十字架を担いで歩み、その後を聖母マリアが嘆いている姿が見えます。この御影の背後には深い聖母神学があります。



アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂




年によっては、3月25日(お告げの祝日)が聖金曜日に当たるときもあります。たとえば、1921年、1932年、2005年がそうでした。来年の2016年もそうです。お告げと御受難は、切り離せません。聖母マリア様のカルワリオはすでにお告げの時から始まっていました。我が子の苦しみの将来を知っていた母として、聖母マリアは、悲しみに満ちた母となりました。

今から2016年前(紀元前第1年)の3月25日に、天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレトという町の、ダヴィド家のヨゼフといいなづけである、マリアという童貞女のもとに、天主からつかわされました。

天使はマリアのところに来てこう言います。
「あなたに挨拶します、恩寵にみちたお方!」
「主はあなたとともにおいでになります。あなたは女の中で祝福された方です」

天使は、マリアがこれをきいて心乱れているのに気がつきます。天使は、童貞マリアは謙遜の故に心乱れたことを知っているので、その小ささ故に、その謙遜に故に、恩寵を得たと説明します。
「おそれるな、マリア!あなたは天主のみ前に恩寵を得たのです。」
「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。また、かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません。」

聖ガブリエルは童貞マリアの貞潔の誓願も尊重されることを保証します。
「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです。ですから、生まれるみ子は聖なるお方で、天主の子といわれます。あなたの親族のエリザベットも、老人ながらみごもったではありませんか。うまずめといわれた人なのに、もう六ケ月目です。天主には、おできにならないことはありません。」

童貞マリアは、メシアに関する預言を知っていました。
救い主は、この世を贖うために恐るべき犠牲を捧げなければならないことを。
救い主の母となることは、すなわち、屈辱と悲しみと茨の道を歩まなければならないことだ、と。
贖いの業に協力する前に、贖いの業がどれほどの苦しみを求めるかを童貞マリアが知らなかったはずはありません。
むしろ、童貞マリアの功徳をいや増すため、「騙された」「裏切られた」という不平を避けるため、天主は童貞マリアに特別の光を与え、救い主の母となる使命と責任について、童貞マリアに深い理解をさせていたはずです。
贖いの計画の中に入ると言うことは、苦しみの中に入ることだ、と。
十字架に付けられる子供の母親となることに同意しますか、と。

もしも、メシアの母となることが純粋な栄光と名誉と喜びだけであったなら、童貞マリアは天使に喜びの歌を歌っていたことでしょう。もしそうだったなら、天使のお告げにたいして「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主によって喜びおどっています」と喜び答えていたことでしょう。

しかし、マリアはこう答えています。
「私は主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように!」
Ecce ancilla Domini. Fiat! 「み旨のままに!Fiat!」

童貞マリアの「我になれかし fiat! 」は、キリストがこの世に来るために必要でした。しかし無原罪の童貞女は、全く自由でした。拒否も可能でした。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったとしたら、童貞マリアは苦しみから逃れることが出来たでしょうが、同時に、私たちには救い主はあり得ませんでした。
人類の贖いが無原罪の童貞女の答え一つに掛かっていました。

救い主がこの世に来られるための道具として無原罪のマリアは答えます。
「私は主のはしためです。Ecce ancilla Domini. 」
無原罪の童貞女は受け入れます。天主への愛と、私たち人類への愛のために、童貞マリアは、贖い主の母となること、悲しみの母となることに同意します。
「Ecce ancilla Domini.」Ecce! ご覧下さい!ここにおります。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう書いています。
「キリストは世に入るとき --- ingrediente mundum --- 言われた。『あなたは生贄も供え物も望まれず --- hostiam et oblationem noluisti --- 、(...) そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る Tunc dixi: ecce venio ut faciam voluntatem tuam" と言った』」(ヘブレオ10章)と。
Ecce! ご覧下さい!ここにおります。御身の御旨を行うために!
イエズス・キリストは、聖父の御旨の通り童貞女の胎内に宿り、将来世界中の御聖櫃のうちにいけにえ(ホスチア)として留まり給う「修行」をしたかのようです。

イエズス・キリストは、この世に来るときに、人となるその瞬間に、ecce! ご覧下さい!ここにおります、と言います。しかし、この言葉は、童貞マリアがあらかじめ「Ecce! ご覧下さい!ここにおります」と言ったから可能になったのでした。言い換えれば、無原罪の童貞女が ecce! と言ったその瞬間、それと同時に、救い主が ecce! と言ったのでした。救い主が人間となりいけにえとなるために童貞女の ecce! fiat! が必要でした。この言葉は、御受難の言葉にこだまします。
イエズス・キリストはナザレトで聖母と共に30年間の隠れた生活を送ります。人間の傲慢の罪を償うために。ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt, 1827年 - 1910年)は、有名な「死の影」という絵を描いています。イエズスは仕事の手を休めて、両手を挙げて祈って(背伸びをして?)います。私たちの主の影が壁に映っています。壁には水平に道具掛けがあって大工道具がぶら下がっています。私たちの主の影は、将来の十字架を予告すると同時に、ご自分の生活が十字架の生活であることを物語っています。聖母マリアは、その影をご覧になっています。二人とも、 ecce! fiat! と言っているかのようです。
聖母がイエズスをご覧になるときはいつも、いつでも、十字架の影をご覧になっていたことでしょう。ヘロデの迫害の時も、罪無き幼子たちは殺害されましたが、全く罪の無い幼子イエズスは聖母に抱かれて、危険を逃れました。聖母は、イエズスの全生涯にわたって、十字架を、逆らいの印を、イエズスに見いだすでしょう。





33年後、聖木曜日に、救い主はゲッセマニでこの言葉「み旨のままに!Fiat!」を祈りながら繰り返します。
「私の父よ、できれば、このさかずきを、私からとり去ってください。しかし私の思うままではなく、み旨のままに!」と。
「私の父よ、このさかずきを私が飲まずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章)

同じく33年後、聖金曜日に、ポンシオ・ピラトはこう宣言するでしょう。Ecce homo! この人を見よ!と。おそらく聖母は、その様子をご覧になって、こう仰っていたことでしょう。
「おお、我が子よ! 私を悲しませないように、将来何が起こるかについておまえは、私にあまり語らなかったね。おまえが十二歳のとき、私はこう尋ねたことがありますね。"私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ" と。私はもうそうは尋ねません。おまえは、聖父のことに従事すべきなのだから。おまえの言葉をいつも考えていました。おまえが受けるべき苦しみについて私に話してくれなくても、私は全て理解していました。おまえがいつも私に話してくれた時が来ましたね。この世を救うために、苦しみが必要だと。母の苦しみも必要なのだから、私の苦しみも捧げます。Ecce ancilla Domini! 主の使い女がここにおります。」
お告げの時の ecce! のこだまは、続いて響かなければなりませんでした。Ecce homo! この人を見よ!Ecce ancilla!

私たちのために食されるパンとなった救い主をミサの最中に御聖櫃から取り出して、司祭はこう言うでしょう。Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!と。聖母マリアが私たちに下さることを同意したイエズスを見よ!と。それならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。





「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章)天主聖父について言えたことは、童貞マリアの愛についても言えるでしょう。聖父がおん独子をお与えになるほど、この世を愛されたように、童貞マリアも御一人子をいけにえとして捧げるほど私たちを愛した、と。童貞マリアが「はい、御旨のままに!」と言ったとき、聖子イエズスはいけにえとなり、私たち人類は救われます。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったのなら、聖子は苦しみから逃れるけれども私たちは永遠の破滅に留まります。

童貞マリアは、言います。「み旨のままに!Fiat!」 天主は誰かを道具として必要としております。ここに主の道具、奴隷がおります。自己犠牲、奉仕が必要ですか? ここに私がおります。天主のお望みのままお使い下さい。私は受け入れます。同意します。何とぞ御旨のままに!」「Ecce ancilla Domini. 主のはしためをご覧下さい、ここにおります。」

Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!ならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。

ナザレトの聖母の家があった場所に建てられた「お告げの教会」の聖母の部屋の場所には、こう書かれています。Verbum caro hic factum est. 御言葉はここで人となり給うた、と。











キリストの全生涯は、十字架と殉教でした。(Tota vita Christi crux fuit et martyrium.)キリストの母の全生涯も、そうでした。悲しみの剣は聖母の心を突き刺し、聖母は、血を流さずに十字架に付けられ、十字架に付けられた聖子を聖父に捧げたのです。イエズスが母の優しい両の腕から、十字架の水平に伸びた木の腕に至るときまで。
それなのに、私たちは、休みと歓喜を求めるのでしょうか?(et tu tibi quaeris requiem et gaudium?)

以上は、イエズス会士ラウル・プリュス神父の The Little Book of the Blessed Virgin Mary に息吹を得て書きました。

私たちがロザリオを唱えるとき、天使祝詞を唱えるとき、この神秘をいつも黙想することが出来ますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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