アヴェ・マリア・インマクラータ!
故パウロ池田敏雄神父著「人物による日本カトリック教会史 : 聖職者および信徒75名伝」の宣伝をいたします。
この本の中から、1876年8月22日生まれの静岡県出身者である、元浦和教区長のパウロ内野作蔵神父様についての記事をご紹介いたします。
パウロ内野作蔵神父 (1876-1960)
浦和教区長
「師は、その生活と容貌を見れば、極めて厳しい隠修士のように思われるが、膝つき合わせて話して見ると、まことに愛情ユーモアに富んだ好々爺であった。それでだれかが、“カトリックの良寛さん”、とよんだ」。
東京大森教会の元主任司祭の故志村辰弥師がこう描く師とは元浦和教区長内野作蔵師のことである。
努力と温情の人
内野教区長は明治9年(1876年)8月22日、静岡県安部郡服機村谷津に生まれた。村の神童と呼ばれるくらい利口な子だったので、早くから禅寺に預けられて、そこで読み書きを習った。その寺小屋を卒業すると村役場に勤め、20歳で助役になった。
その後まもなく上京、八王子教会でメイラン神父と会ってカトリックを知ったのが30歳の時であった。そのころは出版事業に従事し、八王子を中心に、松本、上田方面まで出張していた。
メイラン神父についてカトリック要理を学んだが、仏教とキリスト教の人生観などについて、夜中までメイラン神父と議論していた。そして一年後、同神父から洗礼を受けてパウロと名づけられた。そしてすぐに司祭になりたいと申し出たが、メイラン神父は内野青年が年を取り過ぎていることや、世間で贅沢な生活をしていたことを案じて、しばらく自分のもとに置いて様子を見ることにした。
Pere Mayrand (Photo Credit)
内野青年は深い謙遜をもって一年間教会の雑務に働き回り、ようやく許され32歳で築地の神学校に入学した。内野神学生は毎年クリスマスに郷里の名産のミカンをふるまうことにしていた。しかしある年のクリスマスのこと、どうしたわけか、ご馳走の仕度も整って、一同が食卓につくばかりになっていても荷物がこない。賄いのじいさんはもうあきらめて「今年はミカンなしで我慢してもらいましょう」と言った。しかし内野神学生はどうしても承知できない。「あれほど天主さまにお願いしたのだから聞き届けられないはずはない」と、他の神学生と二人で暗くなってからも門に立ち続けていた。すると、食事の鐘が鳴る少し前、荷物が無事に着いて、みんなに喜ばれたという。
こうして、ラテン語、フランス語、哲学、神学を勉強すること13年、司祭になったのが大正10年(1921年)6月29日、満45歳の時であった。
大正12年(1923年)、師は前橋教会の主任司祭となった。当時の前橋教会は古い民家であり、その一室に聖堂があった。師は早速、教会のまわりに塀をつくろうと計画し、その費用は10か月間、ご飯に塩をかけて食べることによって出たという。こうしてさらに10年後には、今日見るようなゴシック式のりっぱな聖堂が完成した。
【前橋カトリック教会の聖堂は1932年11月3日に完成した。当時の貨幣価値で総工費は7万円だった。2001年11月20日に登録有形文化財として登録された。】
神父はあまり体が丈夫でなかったので、心身を鍛えるため、毎朝水を浴びたり、朝晩室内体操をしたりした。これは師の晩年まで続いた。また内臓を強めるために背中じゅうに灸をしていた。そのうえキリストの十字架の苦しみを深く信心していた。毎晩十字架の道行きをしていた。時には、夜中の12時まで聖堂に明かりがついているので、賄いのおばさんが心配して、そっと小部屋の入り口を開けてみると、神父は祈りの姿で、祭壇の前に倒れている。驚いて揺り起こすと、「僕は罪人なんだ。この年になって、まだ悪魔の誘惑と戦わなければならないのだよ」と答えたそうである。
内野師の説教はユーモアに富み、自分の中に燃える信仰を伝えようと、たとえを引きなかなか迫力があった。師の話しを聞いた松本刑務所のある囚人はデルボス師から臨終の洗礼を受ける時、「内野神父さまから大変お世話になりました。私のような悪人を見捨てず、神父さまがいろいろお世話くださいましたことは、今でも忘れません。それで内野神父さまと同じ信仰で死にたいと思ったからです」と。
師は一般の人びとから軽蔑されて、普通の交際ができなかった、こうした人と親しみ、親切に世話したので、彼らの中から多くの改宗者が出た。
また教会の世話役をしていたおばあさんが死ぬと、わざわざ遠くまで出かけて追悼説教をした。それは師がそのおばあさんから世話になったからではなく、下積みになって陰ながら働く人たちに対する理解を人にも知らせるためであった。「われわれはこういう人をかわいがってやらなければならない。安月給で、将来の保証もなく、黙々と働く彼女たちほどの犠牲的な生活はない」と知人に言うのだった。
夢の多い自称“狂駆長”
昭和12年(1937年)、日支事変がはじまってまもなく、内野師はある実業家の援助で世田谷の無線学校の近くに双線寮という学生寮を設立した。双線とは、学と徳とが平行してまっすぐ進むという意味。その寮には二、三十名の大学生が、師の指導の下に自治生活をしていた。「日本を教化するには、まず有為な青年たちの指導から始めなければならない」と師は口ぐせのように言っていた。そして師が教区長として浦和へ移ってからも、一週間に一回は双線寮を訪問して、学生たちを相手に話し合っていた。しかしこの家も資金が続かなくなって、やがて閉鎖しなければならなかった。その寮母をしていた野上さんという未亡人は、三人の子どもを抱えて苦しんでいたので、師はその家族を引き取り、親身にも及ばぬ世話をした。
【パウロ内野作蔵神父は、1938年1月から1940年10月まで神田教会の主任司祭を務めた。】
昭和15年(1940年)初代浦和教区長ルブラン師の後を継いで教区長に就任し、昭和32年(1957年)辞任するまでの17年間、浦和教区へフランシスコ会、パリ外国宣教会、イエズス・マリアの聖心会、マリアの宣教者フランシスコ修道会、ベタニア修道女会、お告げのフランシスコ姉妹会、トラピスチヌ修道会などを迎えて教区の発展に力を尽くした。なお戦時中は中央出版社の社長として出版布教のために働いた。
【1939年1月4日、埼玉、茨城、栃木、群馬の4県は、横浜教区から「浦和使徒座知牧区」として独立した。初代知牧区長はルブラン師であった。1940年、同師の辞任により、パウロ内野作蔵神父が使徒座任命管理者となり、1945年、知牧区長に就任した。1957年に内野師が辞任すると、浦和使徒座知牧区は「浦和司教区」に昇格した。2003年「浦和教区」から「さいたま教区」へと名称を変更した。】
師は年をとってからも人のために役立とうという夢を持ち続けた。「人間は絶えず夢を持たなくちゃいかん」とよく人に言っていた。戦後、埼玉県の東松山にある空軍基地の払い下げを受けて、そこに戦災者や引き上げ家族を入植させて、カトリックの開拓村を建設しようとした。この事業は順調に進んでいたが、適当な協力者がいなかったのでいろいろな困難が出てきて、理想を実現することができなかった。なお教区長在任中、栃木、鹿沼、烏山、日光、佐野、下館、土浦、川口、高崎、矢板、行田などに教会を創設した。
晩年には平和な社会を建設しようと三V運動を起こした。三Vとは、ラテン語のVita (生活)、Veritas(真実)、Virtus(徳)の頭文字を取ったものである。平和な社会をつくるには生活の安定を確保し、真実と徳を身につけなければならないという意味である。師はこの理想の実現のため、有名な実業家や政治家の協力を得て、会員を増やし、資金を集め、まず事業の手始めとして、生活に困っている人びとを助けた。
ところが昭和32年(1957年)、師が病気で倒れて浦和教区長を辞任してからは、その運動も自然立ち消えになった。そのほか師にはカトリック総合大学、文化センター、修道院を中心とする文化村などの開設など、たくさんの夢があったが、いずれも計画性のある協力者を得ずにその夢は実現しなかった。
師は多忙の中にも和歌をよみ俳句をつくって自分を「狂駆長」と自称した。それは人や金の問題で、休む間もなく奔走しなければならない自分の任務をもじった言葉であった。
実際師は70歳を超えても、気軽に自転車で飛び回っていた。終戦後、米軍の払い下げジープが手に入ったので、師は運転を覚えようと練習を始めた。ところが、ある日、電柱に衝突して額に大怪我をしたので、まわりの者から反対されてやっと思い止まった。しかし師は「これくらいのこと」と笑っていた。
昭和32年(1957年)、師が教区長を辞任する正月に友人から「今年はおいくつになられました?」と尋ねられると「ちょうど18になったところです」とまじめな顔で答えた。それは81をさかさまに読んだ数である。こうしたシャレを交えて「ぼくは万年青年だよ」と心は若さにあふれていた。そして夏になると、青年たちを連れて山に登った。山荘では青年と食事をし、共に語り、寝る時は青年たちに良い部屋を譲り、自分はお勝手隣りの一番粗末な二畳間を使うのであった。
そして昭和35年(1960年)1月16日の正午過ぎ脳溢血のため84歳で小金井の桜町病院で逝去した。