2021年8月29日(主日)聖霊降臨後第14主日のミサ聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「空の鳥を見よ。蒔きもせず、刈りもせず、倉にも納めもしないけれども、天の聖父はかれらを養って下さっている。お前たちは、この鳥よりも遥かに大切なものだ。」(マテオ6:26)
私たちの主の今日の福音の御言葉は、私たちが主からどれほど愛されて、目をかけておられるか、という事を訴えています。ですから今日は一緒に、主の愛のこもった私たちに対する「御摂理」について、少し垣間見てみましょう。
なぜ天主は私たちの為に、私たちをこれほど愛して、そして養って下さって、世話をして下さっているにも関わらず、時として私たちには苦しみや災いが起こるのでしょうか?なぜそのような事が起こる事を許されるのでしょうか?なぜこの世に悪がはびこるのを許されるのでしょうか?なぜ私たちにはこのような苦しみが起こるのを許されるのでしょうか?
これは深い、天主の愛と憐れみの神秘です。主は確かに、私たちが地上のものに愛着していると、それが「危険である」という事を知らせる為に、その愛に溺れてしまわないが為に、それから私たちを切り離してしまう、という事があり得ます。
主はこう言いました。「私の父は農夫である。多くの実を結ぶ事ができるように、時に剪定をする。」ですから、私たちにとって多くの実が結ばれる事ができるように、刈り取り、いらない部分が削らなければならない時があります。その時に私たちは、痛みを感じます。
ちょうど赤ちゃんが、とても綺麗なピカピカしている鋭いナイフをおもちゃだと思って、それを舐めたり、手に触ったりして傷付いてしまわないように、そのような危ない物はお母さんはすぐに取り上げてしまいます。赤ちゃんがいくらそれが欲しくて泣いても喚いても、取り上げてしまいます。それと似たようなものかもしれません。
では一体なぜ、主は地上のものに執着していないような聖人・聖女に対してでさえも、苦しみを与えるのでしょうか?
例えば、旧約時代では「ヨブ」という義人がいました。主を畏れて、主の前に聖なる生活をしていたにも関わらず、天主の許しによって、ヨブは財産を失いました、子供たちを失いました、病気になりました。あたかも大きな罪を犯して罰せられたかのような、悲惨な状態になりました。
妻も、そして友人たちも、このヨブに、「何か悪い事をしたのではないか!?」となじります、馬鹿にします。ヨブはその時に、「主は与え、主は全て取り給うた。主の御名は讃美せられかし!」と主を讃美しただけでした。
一体なぜそのような事が起こるのでしょうか?
有名なアシジの聖フランシスコの話があります。聖フランシスコが、「あなたにとって一番の幸せは何ですか?それはフランシスコ会の会員が何千何百万人となって、そして修道会が世界中に広がる事ですか?」と聞かれると、「そうではない。」「では、あなたの説教によって多くの人々が回心して、イエズス・キリストの福音を信じるようになる事ですか?」「そうではない。」「では、あなたが奇跡を行なうようになって、病の人を癒し、死人をよみがえらせて、そして大奇跡を行なうようになる事ですか?」「そうではない。」「では、一体どのようなものがあなたにとっての本当の幸せですか?」
すると聖フランシスコは、自分の体験をおそらくを述べたのでしょうけれども、自分が夜中に修道院に帰って、ブラザーに兄弟に、「修道院に入れて欲しい。私はフランシスコだ。お前の兄弟だ」と言った時に、「何だ偽物!泥棒!帰れ!」と入れてもらえなかった。そしてあまりにも叩くので、却ってこの修道士から殴られて、蹴られて、そして本当に泥棒だと思われて、半死半生の身になってしまった。
「この時こそ、本当に私にとっての至福だ。何故かというと、イエズス・キリストと同じように、同じ待遇を受けたからだ。」
おそらくこれが為に、イエズスの聖心の友であった聖女マルガリタ・マリア・アラコックも、「いつも、イエズス・キリストの為に何か苦しむ事がないか、と探していた」と伝記にあります。「もしも苦しみがなかったとしたら、『主は私の事を忘れてしまったのではないか』と思うようになった。」
あるいはルルドの聖ベルナデッタは、おそらく修道院長様の特別の計らいで、傲慢にならないように、いつも「ろくでなし」「役立たず」「無教育」と辱めを受けて、「全く用が立たない者だ。」すると聖女ベルナデッタはこう言ったそうです。「一つだけ、私にもできる事があります。それは、イエズス様の為に苦しむ事です。」
永井博士も、原爆を受けて、家族を失って、教会の信徒を失って、司祭を失った時に、皆に呼びかけました。「この御恵みを、天主に感謝しよう。」
愛する兄妹の皆さん、私たちは口で言うのは非常に簡単ですけれども、マリア様の御取次ぎと諸聖人の御取次ぎによって、主の御摂理の神秘を感謝して受ける事ができるように、お祈り致しましょう。
何故そのように私たちにそれが起こるのか、今は理解できなかったとしても、「それは必ず、愛の御摂理のなす業だ」と深く信頼致しましょう。そして何が起こっても、全て天主に感謝、そして主の御旨を甘んじて受けて、私たちもそれを御捧げする事ができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「空の鳥を見よ。蒔きもせず、刈りもせず、倉にも納めもしないけれども、天の聖父はかれらを養って下さっている。お前たちは、この鳥よりも遥かに大切なものだ。」(マテオ6:26)
私たちの主の今日の福音の御言葉は、私たちが主からどれほど愛されて、目をかけておられるか、という事を訴えています。ですから今日は一緒に、主の愛のこもった私たちに対する「御摂理」について、少し垣間見てみましょう。
なぜ天主は私たちの為に、私たちをこれほど愛して、そして養って下さって、世話をして下さっているにも関わらず、時として私たちには苦しみや災いが起こるのでしょうか?なぜそのような事が起こる事を許されるのでしょうか?なぜこの世に悪がはびこるのを許されるのでしょうか?なぜ私たちにはこのような苦しみが起こるのを許されるのでしょうか?
これは深い、天主の愛と憐れみの神秘です。主は確かに、私たちが地上のものに愛着していると、それが「危険である」という事を知らせる為に、その愛に溺れてしまわないが為に、それから私たちを切り離してしまう、という事があり得ます。
主はこう言いました。「私の父は農夫である。多くの実を結ぶ事ができるように、時に剪定をする。」ですから、私たちにとって多くの実が結ばれる事ができるように、刈り取り、いらない部分が削らなければならない時があります。その時に私たちは、痛みを感じます。
ちょうど赤ちゃんが、とても綺麗なピカピカしている鋭いナイフをおもちゃだと思って、それを舐めたり、手に触ったりして傷付いてしまわないように、そのような危ない物はお母さんはすぐに取り上げてしまいます。赤ちゃんがいくらそれが欲しくて泣いても喚いても、取り上げてしまいます。それと似たようなものかもしれません。
では一体なぜ、主は地上のものに執着していないような聖人・聖女に対してでさえも、苦しみを与えるのでしょうか?
例えば、旧約時代では「ヨブ」という義人がいました。主を畏れて、主の前に聖なる生活をしていたにも関わらず、天主の許しによって、ヨブは財産を失いました、子供たちを失いました、病気になりました。あたかも大きな罪を犯して罰せられたかのような、悲惨な状態になりました。
妻も、そして友人たちも、このヨブに、「何か悪い事をしたのではないか!?」となじります、馬鹿にします。ヨブはその時に、「主は与え、主は全て取り給うた。主の御名は讃美せられかし!」と主を讃美しただけでした。
一体なぜそのような事が起こるのでしょうか?
有名なアシジの聖フランシスコの話があります。聖フランシスコが、「あなたにとって一番の幸せは何ですか?それはフランシスコ会の会員が何千何百万人となって、そして修道会が世界中に広がる事ですか?」と聞かれると、「そうではない。」「では、あなたの説教によって多くの人々が回心して、イエズス・キリストの福音を信じるようになる事ですか?」「そうではない。」「では、あなたが奇跡を行なうようになって、病の人を癒し、死人をよみがえらせて、そして大奇跡を行なうようになる事ですか?」「そうではない。」「では、一体どのようなものがあなたにとっての本当の幸せですか?」
すると聖フランシスコは、自分の体験をおそらくを述べたのでしょうけれども、自分が夜中に修道院に帰って、ブラザーに兄弟に、「修道院に入れて欲しい。私はフランシスコだ。お前の兄弟だ」と言った時に、「何だ偽物!泥棒!帰れ!」と入れてもらえなかった。そしてあまりにも叩くので、却ってこの修道士から殴られて、蹴られて、そして本当に泥棒だと思われて、半死半生の身になってしまった。
「この時こそ、本当に私にとっての至福だ。何故かというと、イエズス・キリストと同じように、同じ待遇を受けたからだ。」
おそらくこれが為に、イエズスの聖心の友であった聖女マルガリタ・マリア・アラコックも、「いつも、イエズス・キリストの為に何か苦しむ事がないか、と探していた」と伝記にあります。「もしも苦しみがなかったとしたら、『主は私の事を忘れてしまったのではないか』と思うようになった。」
あるいはルルドの聖ベルナデッタは、おそらく修道院長様の特別の計らいで、傲慢にならないように、いつも「ろくでなし」「役立たず」「無教育」と辱めを受けて、「全く用が立たない者だ。」すると聖女ベルナデッタはこう言ったそうです。「一つだけ、私にもできる事があります。それは、イエズス様の為に苦しむ事です。」
永井博士も、原爆を受けて、家族を失って、教会の信徒を失って、司祭を失った時に、皆に呼びかけました。「この御恵みを、天主に感謝しよう。」
愛する兄妹の皆さん、私たちは口で言うのは非常に簡単ですけれども、マリア様の御取次ぎと諸聖人の御取次ぎによって、主の御摂理の神秘を感謝して受ける事ができるように、お祈り致しましょう。
何故そのように私たちにそれが起こるのか、今は理解できなかったとしても、「それは必ず、愛の御摂理のなす業だ」と深く信頼致しましょう。そして何が起こっても、全て天主に感謝、そして主の御旨を甘んじて受けて、私たちもそれを御捧げする事ができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。