アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年3月28日、大阪でなさったレネー神父様のお説教をご紹介いたします。
これは、2015年3月29日枝の主日に東京でなさった説教でもあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
親愛なる兄弟のみなさん、
私たちの主イエズス・キリストのイエルザレムへの勝利の入城は、王たるキリストのお祝いです。天使がマリアに「かれは、主なる神によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終わることはありません」(ルカ1章32-33節)と告げた通り、ユダヤ人の群衆はイエズスを「ダヴィドの子」、つまりダヴィドの王座を継ぐ者と認めました。ユダヤ人たちはイエズスの王権を認めることはしましたが、多くはイエズスの神性を認めることはしませんでした。しかし、天使はマリアにまたこのように告げていたのです:「それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。…生まれるみ子は聖なるお方で、神の子といわれます」(ルカ1章32-35節)。
キリストの王国が天の王国、「天主の王国」、天主であるキリストの王国であることを認めることは、真の信仰の基礎です。「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない」(ヨハネ18章36節)。今日の福音の箇所で、この言葉を聞いたピラトは私たちの主イエズス・キリストの威厳に感銘を受けたに違いありません。そこでピラトはこう聞いたのです。「『するとあなたは王か?』」「イエズスは、『あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』とお答えになった」(ヨハネ18章37節)。
私たちの主イエズス・キリストは世界を治めておられますが、それはこの世から、この世の仕方で治めておられるのではありません。私たちの主の王国は人間の王国や帝国を破壊するものではなく、むしろそれらの国々の上にあって統治するもので、主の王国は全ての国々によって認められねばなりません。主の王国はあらゆる人間の権威の上に立つ天主の権威による統治です:「神から出ない権威はな」(ローマ人13章1節)く、特に王や皇帝のように人間の内での最高権威者にこれが当てはまります。法律や義務は人から生まれるのではありません。人には、自分の個人的意思を他の人たちに強制する権利や権力はありません。全ての人は、人として同じ本性を持っているので、本質的に平等だからです。一人の人が他の人たちに対して持つ権威というものは、その人が自分の治める人々の共通の善を実現するという役割を果たすよう天主の摂理によって定められたという事実から来るのです。教会の教えによれば、たとえ指導者が人々によって選ばれたとしても、人の持つ権威は人々から来るのではなく、天から来るのです。天主こそが至高の権威を持っておられ、その権限を人に与えられるのであって、権威を持つ全ての人は自分に与えられた権威をどのように使ったかについて、のちに天主に報告しなければならないのです!
あらゆる法律には制定者が必要です。他の人々に対して法律を強制するためには、法律の制定者は他の人々より上にいる者でなければなりません。人間の本性によって、他の人より上にいる人はいません。従って、上から、つまりあらゆるものの上にありあらゆるものに対する権威を持っておられる天主から権威を受けたのでなければ、誰も他の人々に対する権威を持つことはできません。もしもこの真理、つまり天主があらゆる権利の源であるという真理を認めなければ、物理的な力しか残りません。一人の人が自分の意思を他の人々に強制するのは、自分が物理的により強いからということになってしまいます。これは弱肉強食、暴君の法のたぐいであって、本来の、正しい法律ではありません!天主を拒絶した現代世界では、金という無名の権力による暴政が日に日に増して行なわれており、それが道徳を破壊し、世界中に堕胎、同性愛者の権利等あらゆる種類の非道徳的な行為を強制しています。人の作ったこのような法律は真の法律ではなく、秩序の濫用、法律の濫用です。
暴政から身を守る最善の方法は、王たるキリストを認めること、つまり、天主、天主であるイエズス・キリストこそが権威の源であり、それゆえまた天主が権威の模範であることを認めることにあります。この地上で人を治める者たちが私たちの主イエズス・キリストを王であると認めるとき、彼らはもう暴君ではなくなり、自分が治める人々の真の善のため、真の共通善のために自分の権威を用いることを学びます。人々の真の共通善とは、永遠の救いに繋がるような徳に満ちた生活を促す社会秩序です。このような社会秩序は、天主の法、天主の十戒、キリストの法、愛徳の法に基づくものです。
罪は愛徳の反対です。愛徳はあらゆるものを越えて天主を愛することですが、罪は天主よりも被造物を愛することです。ですから罪は最初の悪であって、他の全ての悪、全ての苦しみの原因です。罪によって社会秩序が破壊され、治められる人々が正しい命令にそむいたり、治める人々が自分の権威を悪用し、共通善ではなく自分自身の益のために行動したりしてしまいます。ですから、罪に打ち勝ち、罪を償い、人の霊魂と社会を癒す救い主が必要です。私たちの主イエズス・キリストこそがこの救い主であって、ご自分の十字架によって私たちをお救いくださったのです。 主が十字架上でご自身をいけにえとして奉献されたのは、罪に対する愛徳の真の勝利であり、あらゆるものを越えた天主への真の愛であり、天主の命への完全な従順、すなわち、私たちの罪、罪の悪を償うための十字架上の死に至るまでの御父の命への完全な従順だったのです。「そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである」(フィッリピ人2章9-11節)。
ですから私たちの主イエズス・キリストは今ご自分の十字架によって治めておられます。主は私たちを罪から救うことによって私たちを勝ち取られ、私たちを勝ち取られた権利によって治めておられるのです。私たちへのあらゆる恩寵、あらゆる超自然的な恩恵は主イエズス・キリストから頂いており、私たちは主を通じて御父のところに戻ることができるのです:「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14章6節)。
この聖週間の間、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想し、主を王として、十字架上の御死去によって私たちを勝ち取り、私たちの心を勝ち取り、私たちを罪から救ってくださり、そして死者のうちからの御復活によって永遠の命の種である聖寵を私たちにくださる王として見るようにいたしましょう。私たちはもう私たち自身のものではありません。私たちは主のものです。「はたして、キリストが死んでよみがえったのは、死んだ人々と生きている人々とを支配するためである」(ローマ人14章9節)。「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである」(コリント人後5章15節)。洗礼の水に洗われ、告解の秘蹟によって子羊の血に洗われた私たちは、主を悲しめることなく、あらゆることにおいて、真実と徳の統治、愛と命の統治、正義と平和の統治である王たる主の統治に従順であるよう努力するようにいたしましょう。
贖いの業のすべてにおいて、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストには、「彼に似合った助け手」(創世2章18節)、新しいエバ、また「[王]の右に…[いる]王妃」(詩篇44篇10節)である童貞聖マリアがおられます。このように聖母を新しいエバとする教えは大変古くから教会にありました。使徒たちの死から百年も経たない時、最初期の教父たちがそれを明確に、明快に説いていました。聖ユスチヌスは最初のエバと第二のエバである聖マリアの対比をしています。最初のエバは悪い天使の言うことを聞き、不従順と死を招きました。第二のエバは善い天主の言うことを聞き、従順を通して私たちに命をもたらしました。それは命であるイエズスです。私たちが永遠の命を見いだせるのはイエズスにおいてのみ、イエズスを通してのみです。「[エバは]不従順になったため、自分自身と人類全体の死の原因となった。マリアもまた、男と婚姻をしながら童貞であることにより、従順を捧げたため、自分自身と人類全体の救いの原因となった」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。
この後、聖イレネウスは新しいエバとしてのマリアについて力強い言葉を記しています。「エバの不従順による結び目は、マリアの従順によって解かれた。童貞エバが不信仰によって固く結んだ結び目を、童貞マリアが信仰によって解き放った」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。このように、聖マリアは私たちを罪から解き放ってくださるのです!別の箇所では更に強く述べられています。「前者が天使の言葉によって迷わされ、天主の言葉に背いて天主から逃げたように、後者は天主の言葉に従順であったため、天使の告げによって天主を身籠るという幸いな知らせを受けた。前者は天主に背いたが、後者は天主に従順であるよう説得され、童貞マリアは童貞エバの代願者となられた。こうして、人類は童貞によって死の足かせに繋がれたように、童貞によって救われた。すなわち童貞の不従順の針が、童貞の従順によって逆に振れた」(聖イレネウス「異端駁論」V,19)。最初期の教会から明らかに伝えられていることは、「人類は童貞マリアによって救われた」ということです。しかし一人ではなく、キリストの助け手として、新しいアダムの側に立つ新しいエバとしてです。
ですから、私たちの主イエズス・キリストの御苦難を黙想するとき、主のお側におられる聖母の御苦難をも忘れないようにいたしましょう。お二人の御苦難は私たちのため、私たちの罪のため、私たちに赦しと癒しとをくださるため、そして御父の栄光のためにキリストが私たちの心を治められるためなのですから。
イエズスの十字架を通した贖いの神秘はすべて、毎日捧げられるミサ聖祭の犠牲によって現実化しています。罪は赦され、お恵みは豊かに与えられ、キリストの統治が広がります。天主は十字架を通して統治されたのです!逆に、悪魔がミサ聖祭の犠牲を何よりも恐れ、典礼を変更し、特に典礼の犠牲の面を隠すことによってミサ聖祭を破壊しようとしたことを、私たちは理解することができます。ですから、キリストの王国を広め、霊魂を救うため、すべてのミサ聖祭が永遠のミサ、聖伝のミサに戻る必要があるのです。共贖者である童貞マリアが私たちのためにこれらすべてのお恵みを取り成してくださいますように。
アーメン
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年3月28日、大阪でなさったレネー神父様のお説教をご紹介いたします。
これは、2015年3月29日枝の主日に東京でなさった説教でもあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
親愛なる兄弟のみなさん、
私たちの主イエズス・キリストのイエルザレムへの勝利の入城は、王たるキリストのお祝いです。天使がマリアに「かれは、主なる神によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終わることはありません」(ルカ1章32-33節)と告げた通り、ユダヤ人の群衆はイエズスを「ダヴィドの子」、つまりダヴィドの王座を継ぐ者と認めました。ユダヤ人たちはイエズスの王権を認めることはしましたが、多くはイエズスの神性を認めることはしませんでした。しかし、天使はマリアにまたこのように告げていたのです:「それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。…生まれるみ子は聖なるお方で、神の子といわれます」(ルカ1章32-35節)。
キリストの王国が天の王国、「天主の王国」、天主であるキリストの王国であることを認めることは、真の信仰の基礎です。「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない」(ヨハネ18章36節)。今日の福音の箇所で、この言葉を聞いたピラトは私たちの主イエズス・キリストの威厳に感銘を受けたに違いありません。そこでピラトはこう聞いたのです。「『するとあなたは王か?』」「イエズスは、『あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』とお答えになった」(ヨハネ18章37節)。
私たちの主イエズス・キリストは世界を治めておられますが、それはこの世から、この世の仕方で治めておられるのではありません。私たちの主の王国は人間の王国や帝国を破壊するものではなく、むしろそれらの国々の上にあって統治するもので、主の王国は全ての国々によって認められねばなりません。主の王国はあらゆる人間の権威の上に立つ天主の権威による統治です:「神から出ない権威はな」(ローマ人13章1節)く、特に王や皇帝のように人間の内での最高権威者にこれが当てはまります。法律や義務は人から生まれるのではありません。人には、自分の個人的意思を他の人たちに強制する権利や権力はありません。全ての人は、人として同じ本性を持っているので、本質的に平等だからです。一人の人が他の人たちに対して持つ権威というものは、その人が自分の治める人々の共通の善を実現するという役割を果たすよう天主の摂理によって定められたという事実から来るのです。教会の教えによれば、たとえ指導者が人々によって選ばれたとしても、人の持つ権威は人々から来るのではなく、天から来るのです。天主こそが至高の権威を持っておられ、その権限を人に与えられるのであって、権威を持つ全ての人は自分に与えられた権威をどのように使ったかについて、のちに天主に報告しなければならないのです!
あらゆる法律には制定者が必要です。他の人々に対して法律を強制するためには、法律の制定者は他の人々より上にいる者でなければなりません。人間の本性によって、他の人より上にいる人はいません。従って、上から、つまりあらゆるものの上にありあらゆるものに対する権威を持っておられる天主から権威を受けたのでなければ、誰も他の人々に対する権威を持つことはできません。もしもこの真理、つまり天主があらゆる権利の源であるという真理を認めなければ、物理的な力しか残りません。一人の人が自分の意思を他の人々に強制するのは、自分が物理的により強いからということになってしまいます。これは弱肉強食、暴君の法のたぐいであって、本来の、正しい法律ではありません!天主を拒絶した現代世界では、金という無名の権力による暴政が日に日に増して行なわれており、それが道徳を破壊し、世界中に堕胎、同性愛者の権利等あらゆる種類の非道徳的な行為を強制しています。人の作ったこのような法律は真の法律ではなく、秩序の濫用、法律の濫用です。
暴政から身を守る最善の方法は、王たるキリストを認めること、つまり、天主、天主であるイエズス・キリストこそが権威の源であり、それゆえまた天主が権威の模範であることを認めることにあります。この地上で人を治める者たちが私たちの主イエズス・キリストを王であると認めるとき、彼らはもう暴君ではなくなり、自分が治める人々の真の善のため、真の共通善のために自分の権威を用いることを学びます。人々の真の共通善とは、永遠の救いに繋がるような徳に満ちた生活を促す社会秩序です。このような社会秩序は、天主の法、天主の十戒、キリストの法、愛徳の法に基づくものです。
罪は愛徳の反対です。愛徳はあらゆるものを越えて天主を愛することですが、罪は天主よりも被造物を愛することです。ですから罪は最初の悪であって、他の全ての悪、全ての苦しみの原因です。罪によって社会秩序が破壊され、治められる人々が正しい命令にそむいたり、治める人々が自分の権威を悪用し、共通善ではなく自分自身の益のために行動したりしてしまいます。ですから、罪に打ち勝ち、罪を償い、人の霊魂と社会を癒す救い主が必要です。私たちの主イエズス・キリストこそがこの救い主であって、ご自分の十字架によって私たちをお救いくださったのです。 主が十字架上でご自身をいけにえとして奉献されたのは、罪に対する愛徳の真の勝利であり、あらゆるものを越えた天主への真の愛であり、天主の命への完全な従順、すなわち、私たちの罪、罪の悪を償うための十字架上の死に至るまでの御父の命への完全な従順だったのです。「そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである」(フィッリピ人2章9-11節)。
ですから私たちの主イエズス・キリストは今ご自分の十字架によって治めておられます。主は私たちを罪から救うことによって私たちを勝ち取られ、私たちを勝ち取られた権利によって治めておられるのです。私たちへのあらゆる恩寵、あらゆる超自然的な恩恵は主イエズス・キリストから頂いており、私たちは主を通じて御父のところに戻ることができるのです:「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14章6節)。
この聖週間の間、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想し、主を王として、十字架上の御死去によって私たちを勝ち取り、私たちの心を勝ち取り、私たちを罪から救ってくださり、そして死者のうちからの御復活によって永遠の命の種である聖寵を私たちにくださる王として見るようにいたしましょう。私たちはもう私たち自身のものではありません。私たちは主のものです。「はたして、キリストが死んでよみがえったのは、死んだ人々と生きている人々とを支配するためである」(ローマ人14章9節)。「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである」(コリント人後5章15節)。洗礼の水に洗われ、告解の秘蹟によって子羊の血に洗われた私たちは、主を悲しめることなく、あらゆることにおいて、真実と徳の統治、愛と命の統治、正義と平和の統治である王たる主の統治に従順であるよう努力するようにいたしましょう。
贖いの業のすべてにおいて、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストには、「彼に似合った助け手」(創世2章18節)、新しいエバ、また「[王]の右に…[いる]王妃」(詩篇44篇10節)である童貞聖マリアがおられます。このように聖母を新しいエバとする教えは大変古くから教会にありました。使徒たちの死から百年も経たない時、最初期の教父たちがそれを明確に、明快に説いていました。聖ユスチヌスは最初のエバと第二のエバである聖マリアの対比をしています。最初のエバは悪い天使の言うことを聞き、不従順と死を招きました。第二のエバは善い天主の言うことを聞き、従順を通して私たちに命をもたらしました。それは命であるイエズスです。私たちが永遠の命を見いだせるのはイエズスにおいてのみ、イエズスを通してのみです。「[エバは]不従順になったため、自分自身と人類全体の死の原因となった。マリアもまた、男と婚姻をしながら童貞であることにより、従順を捧げたため、自分自身と人類全体の救いの原因となった」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。
この後、聖イレネウスは新しいエバとしてのマリアについて力強い言葉を記しています。「エバの不従順による結び目は、マリアの従順によって解かれた。童貞エバが不信仰によって固く結んだ結び目を、童貞マリアが信仰によって解き放った」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。このように、聖マリアは私たちを罪から解き放ってくださるのです!別の箇所では更に強く述べられています。「前者が天使の言葉によって迷わされ、天主の言葉に背いて天主から逃げたように、後者は天主の言葉に従順であったため、天使の告げによって天主を身籠るという幸いな知らせを受けた。前者は天主に背いたが、後者は天主に従順であるよう説得され、童貞マリアは童貞エバの代願者となられた。こうして、人類は童貞によって死の足かせに繋がれたように、童貞によって救われた。すなわち童貞の不従順の針が、童貞の従順によって逆に振れた」(聖イレネウス「異端駁論」V,19)。最初期の教会から明らかに伝えられていることは、「人類は童貞マリアによって救われた」ということです。しかし一人ではなく、キリストの助け手として、新しいアダムの側に立つ新しいエバとしてです。
ですから、私たちの主イエズス・キリストの御苦難を黙想するとき、主のお側におられる聖母の御苦難をも忘れないようにいたしましょう。お二人の御苦難は私たちのため、私たちの罪のため、私たちに赦しと癒しとをくださるため、そして御父の栄光のためにキリストが私たちの心を治められるためなのですから。
イエズスの十字架を通した贖いの神秘はすべて、毎日捧げられるミサ聖祭の犠牲によって現実化しています。罪は赦され、お恵みは豊かに与えられ、キリストの統治が広がります。天主は十字架を通して統治されたのです!逆に、悪魔がミサ聖祭の犠牲を何よりも恐れ、典礼を変更し、特に典礼の犠牲の面を隠すことによってミサ聖祭を破壊しようとしたことを、私たちは理解することができます。ですから、キリストの王国を広め、霊魂を救うため、すべてのミサ聖祭が永遠のミサ、聖伝のミサに戻る必要があるのです。共贖者である童貞マリアが私たちのためにこれらすべてのお恵みを取り成してくださいますように。
アーメン