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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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ヴィガノ・テープ 質問6と7:「権威の限界」「混沌が姿を現わす」:ヴィガノ大司教「誰も、本質的に邪悪な命令への従順を押し付けることはできません。」

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【参考資料】ヴィガノ・テープ:権威の限界
質問6

The Vigano Tapes: The Limits of Authority
Question #6


【質問6】大司教様は、教会でも世界でも、私たちは行き詰まりを感じているとおっしゃいました。大司教様は、ディープ・チャーチとディープ・ステートとの間にある一種の同盟について述べておられますが、これは聖伝のキリスト教の教えや、民主的な西洋の自由な人々の自由に対する伝統的な願望に沿ったものではないと感じています。しかし、もし大司教様がこの行き詰まりや袋小路を説かれるのであれば、人々に何を示唆なさっているのでしょうか? ある種の不従順、ある種の反抗をするよう示唆なさっているのでしょうか? 大司教様のお言葉は、不従順を誘っているように聞こえるかもしれないとは思われませんか?

【回答】カトリック信者は、自然に秩序を重んじ、権威や位階階級を尊重します。なぜなら、この秩序と権威は天主の知恵から生まれたものであり、教会だけでなく公務を統治するのに必要なものだからです。

しかし、人間の権威が天主に由来するものであるからこそ、カトリック信者は、一般市民と同様に、その権威が制定されている理由そのものに反する目標を設定する人々による権威の簒奪を受け入れることはできません。主は、使徒のかしらの後継者を教会のトップに置き、その人を主の代理者として指定なさいました。それは、主がその人にお委ねになった羊を散らすためではなく、牧するためです。そうでないならば、主は聖ペトロではなくユダをお選びになったことでしょう。同様に、この世の統治者の権威は、自らの正当性を良き統治に見いだすものであり、市民を奴隷にして悪事を強要ししてはならないし、「誠実な生き方」という直近の目的と「永遠の救い」という最終的な目的とを追求するのを妨げてもなりません。もし権威がその義務を果たさず、さらにはその義務を裏切って目的を転覆させるならば、その権威にはもはや臣民の従順を要求する資格はありません。

従順とは、正義と結びついた聖徳であって、権力に無批判に服従することではありません。なぜなら、そうしてしまえば、従順は悪を行う者への隷属および共謀に堕するからです。誰も、本質的に邪悪な命令への従順を押し付けることはできません。悪をほしいままにするために権威を濫用する者に権威を認めることもできません。このように、不法な命令に抵抗する人々は、明らかにその命令を下した人に従わず、天主に従います。何故なら、天主の権力が、代理の権威によって、その目的に反して、つまり、天主ご自身に反して行使されているからです。


ヴィガノ・テープ:「混沌が姿を現わす」
質問7

The Vigano Tapes: “Chaos Manifests Itself”
Question #7


【質問7】大司教様、大司教様は、正当な権威と正当でない権威の区別、すなわち、従うべき正当な命令と、従うべきではなく抵抗すべき正当でない命令の区別についてお話しになりました。しかし、どのようにして区別することができるのでしょうか? 聖パウロがローマ人への手紙の中で、キリスト信者が制定された権威に従う必要があることについて非常に明確に語っているのは、その通りではないでしょうか。大司教様はどのように言われますか? 聖パウロの勧告(ローマ13章)に従って、やはり権威を擁護し、尊重すべきではないでしょうか?

【回答】聖パウロはローマ市民でしたから、後に西洋諸国の法の基礎となり教会にも採用された法によって規制された権力というもののの例が目の前にありました。今日、私たちを統治している権威は、何千年にもわたるギリシャ・ローマおよびキリスト教の文明を取り消し、私たちをアッシリア人の野蛮状態に、つまり権威自身でさえ遵守することが義務付けられている法律および絶対的原則さえもがない状態に、引き戻しているのです。権力を持つ人々は、自らを国民の代表として提示していますが、実際には国民に反対して行動しており、上からも(統治する人々の権力が天主に由来するという起源を取り消しているため)、下からも(自分に有利になるように投票を操作できると確信しない限り、市民に自分の代表者を選ばせないため)、何の制約もなく、制限もないのです。

私はこの法の野蛮化を強調したいと思います。私の意見では、この野蛮化こそが、権威の危機の原因、その倒錯と図々しい傲慢さの原因です。これらの専制君主はたち、武装した警備員に守られた宮殿に閉じこもり、センナケリブ【アッシリア帝国の王】のように振る舞い、財政的、政治的、メディア的手段を利用できることで保証された全能感の錯覚の中で、自分の権威を神格化しているのです。

そして、私たちを憂慮させているのは、大衆が自ら暴政に支配されるのを許していることです。まさに現代、革命を近代の主要なテーマの一つとし、革命の原理を第二バチカン公会議で聖域に導入した時代に、暴政を許していることです。しかし、純粋なカトリックの視点では、混沌は、良き権威への反抗と悪しき権威への卑屈な従順の両方で姿を現します。この転覆状態は、まさに私たちの目の前にあって、時代錯誤の傲慢さで私たちを信じられない気持ちにさせているのです。


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