使徒的な熱意についての説教
2021年10月3日、ドモルネ神父
はじめに
今日の福音で、教会が私たちに読ませるのは、自分の息子の婚宴にすべての人を招くために、しもべたちを送る王のたとえ話です。今日は、また、宣教の守護聖人である、幼きイエズスの聖テレジアの祝日でもあります。この二つの要素を合わせて、使徒的な熱意について、お話ししたいとおもいます。
1)婚姻の祝宴への招待
ある王が、自分の息子のための結婚式を準備しました。この王とは、父なる天主のことです。この王の息子とは、子なる天主である、私たちの主イエズス・キリストのことです。王の息子の結婚式とは、ご托身の神秘のことです。子なる天主は、まことの天主であると同時に、まことの人間であることによって、私たちの人間性を、ご自身に一致させられました。
王は宴会を計画して、こう言いました。「私は婚宴の準備をすでに整え、牛も肥えた獣(けもの)もほふって準備した」(マテオ22章4節)。この宴会とは、私たちの主イエズスが十字架上で犠牲としてほふられた、贖いの神秘のことです。この宴会とは、ご聖体において、ご自身の御体と御血を私たちに霊的に食べさせてくださり、またさまざまな祝福を与えてくださる、私たちの主イエズスのことです。この宴会とは、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主が私たちのために準備してくださった、永遠の命と幸福のことです。
王は次の言葉で、しもべたちを送り出しました。「あなたたちは大路(おおじ)に行って、出会う人をみな宴会に招いてくるように」(マテオ22章9節)。天主はあらゆる地域、あらゆる時代のすべての人々を、永遠の命に招いておられます。しかし、王の招待は、しもべたちの仲介を通じてなされていることに、注意してください。天主は、ある人々の救いが、別の人々の宣教や使徒的活動に依存する、という愛徳の法を制定されました。私たちの主イエズスは、ご昇天の日に、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは、全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章15-16節)。
もし、たとえ話のなかのしもべたちが、大路に出て、人々に会って、その人々を王の宴会に招かなかったなら、結婚式は決して招待客でいっぱいになることはなかったでしょう。それは、天主のしもべである、私たちカトリック信者にとっても同じことです。もし、怠惰や、人間的な敬意や、怠慢のために、私たちが出会う人々に対して、私たちの主イエズスについて話す機会があるたびに、それを行う努力をしなければ、彼らの中には地獄に落ちる霊魂たちがでてしまうことになり、それは、私たちのせいになってしまいます。ですから、私たち全員が使徒的な熱意を持つこと、つまり、霊魂たちを、私たちの主イエズスの知識と愛に導くことに、本気で関心を持つことが重要なのです。
2)宣教の保護聖人である幼きイエズスの聖テレジア
今日は、幼きイエズスの聖テレジアをお祝いしていますから、聖テレジアの偉大なる使徒的な熱意について、皆さんに思い出していただきたいと思います。聖テレジアは非常に多くの霊魂を、私たちの主イエズスのために勝ち取ったため、宣教の守護聖人となるにふさわしい人とされたのです。以下の逸話は、聖テレジアの姉のセリーヌが伝えたものです。
a)最初の逸話はこうです。「1896年6月、私は、テレジアの肖像写真を私たちの修道院長に差し上げるため、テレジアの写真を撮りました…テレジアは、私たちの母であるアヴィラの聖テレジアの言葉、『一人の霊魂を救うためには、私は自分の命を千回でも捧げます』« Je donnerais mille vies pour sauver une seule âme»を、自ら書いた巻物を手に持って、写真に写ることを望みました」。
聖テレジアは、私たちの人生において、自分と他人の霊魂を救うこと以上に大事なことはないということを、私たちに思い起こさせてくれます。そのため、私たちは、いかなる努力も、いかなる苦難も、いかなる苦しみも引き受ける覚悟ができていなければなりません。
b)二つ目の逸話です。「私たちがローマに行ったとき、テレジアはまだ14歳でした。宣教修道女たちの年鑑を数ページ読んだ後、テレジアは読むのをやめて、私にこう言いました。『もうこれ以上、読みたくありません。私はもうすでに、宣教をしたいという熱い願望を持っています。この使徒職の記録を読んで、その願いがもっと大きくなったら、いったいどうなることでしょう。私はカルメル会員になりたいのです』。テレジアは、そう決めた理由を、こう説明しました。『それは、厳格な生活の単調さから、より多くの苦しみを味わい、それによって、より多くの霊魂を救うためです』」。
聖テレジアは、霊魂たちを回心させるのは、天主の恩寵にほかならない、ということを、私たちに思い起こさせます。私たちの主な義務は、天主との深い友情の生活を通して、天主のこの恩寵を得ることです。私たちの天主への愛が、親密で、真摯であればあるほど、私たちの祈りは、より効果的なものとなります。私たちが天主にお与えすればするほど、天主も私たちにもっと与えてくださいます。天主との親密な友情の生活は、外見的には単調で、隠れた生き方の下でも、存在しうるのです。
c)三つ目の逸話です。「テレジアは、自分の生涯の物語のなかで、プランジーニという不幸な殺人犯のために粘り強く祈ったこと、そしてその祈りがかなえられ、この男が処刑される直前に突然悔い改めたのを見たときの感動について、語っています。テレジアは、その前に、顔を赤らめながら、この男の回心のために捧げるミサの費用を私に渡していました。テレジアは、恥ずかしくて、自分の聴罪司祭に、それを自分からお願いすることができなかったのです」。
ここで、聖テレジアが私たちに思い起こさせるのは、すべての恩寵の源は、私たちの主イエズスの十字架上での犠牲であって、それはミサにおいて更新される、ということです。ですから、ミサを捧げることは、罪人の回心を得るための強力な方法なのです。
d)四つ目の逸話です。「カルメル会修道院では、テレジアの使徒的な熱意は高まり続け、いつも、それが現れていました。ある日、私はテレジアが、ある労働者が不在のあいだに、その人の上着の裏地の下に、聖ベネディクトのメダイをこっそり隠しているのを見ました。その労働者は罪人だったのです」。
聖テレジアは、罪人の回心のために教会の準秘跡を使うことを、私たちに思い起こさせます。例えば、不思議のメダイを配ることです。聖母は、特にそのメダイを身につけている人々に有益な影響を及ぼしてくださることを、明らかにされています。
e)五つ目の逸話です。「テレジアの全身が結核に侵され、ひどい苦しみを受けていたとき、私たちがテレジアのために涙を流して、天の助けを求めて祈っていると、テレジアはこう言いました。『私のために唱えられるすべての祈りが、私の苦しみを和らげるためではなく、罪人たちを救うために使われるよう、主に祈っています』。そして、私は今でも、テレジアの次の言葉が耳に残っています。『こんなに苦しむことがあるなんて、信じられませんでした…絶対に、絶対に! 私がこのことを説明できるのは、私には、霊魂たちを救いたい、という熱烈な願いがあるからです』。« Non, je n'aurais jamais cru qu'on pouvait tant souffrir... jamais, jamais! » これが、テレジアの最後の言葉のひとつでした」。
聖テレジアは、私たちの主イエズスが、そのご受難の苦しみによって私たちをあがなってくださったことを、私たちに思い起こさせます。ですから、私たちもまた、苦しむことによって、霊魂たちの救いのために働くのです。それが意味するのは、天主が私たちに送ってくださる苦しみを忍耐強く受け入れ、その苦しみを私たちの主イエズスと童貞聖マリアの苦しみと一致させることによって、私たちが働くということです。
結論
この説教を、最後の逸話で締めくくります。
「テレジアは、何度も、さまざまな方法で、天からバラの雨を降らせること、つまり多くの恩寵を送ることを、約束しました。テレジアは、自分の死後も、教会のために祈り、司祭とともに自分の特別な使命を続けることによって、良いことをしたいという願いと確信を、表明しました。特に、自分がどんな良いことをするのか、また、信頼することと、完全に身を委ねること、という自分のやりかたを教えることで、いかにして霊魂たちを天主のもとに呼び寄せるのかを、テレジアが説明しているのを聞きました。私はテレジアに、こう言いました。『それなら、天国から、もっと多くの霊魂を救うことができると信じているの?』。テレジアは、答えていいました。『ええ、そう信じています。その証拠に、私が主のために霊魂たちを救いたいとこんなに願っているときに、主は私を死なせてくださるのですから…』」。
親愛なる信者の皆さん、今日、大きな信頼を持って、聖テレジアに向かいましょう。そして、罪の状態でくらしている親戚、友人、知人に、恩寵の雨を降らせてくださるように、お願いしましょう。また、多くの人々が、カトリックの信仰に改宗するように、聖テレジアにお願いしましょう。