アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様によるアジア管区のサイトの記事「The Good of Authority 権威の有益性」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
権威の有益性
2014年2月17日
原文はこちら
真理は権威の上なのか、それとも権威が真理の上にあるのでしょうか? 両者の間にはどのような関連性があるのでしょうか?
自然的レベルにおいてすら、人間は真理を学ぶために最初に権威を必要とします。すなわち、すべての子どもたちは両親と教師たちの権威に基づいて最初に学びます。その後、自分が、最初に権威によって学んだことを、自分で悟ることができるようになるのです。成人してからでさえ、ほとんどの人たちが権威に基づいて知っている多くの真理【何故そうなのかは説明できないけれども、そのように教わったから信じている真理】が依然として存在します。(例えば、円の面積は、πr2(円周率x半径の二乗)であるということを証明する方法を知っている大人は何人いるでしょうか? 大部分の人々は、学校の教師たちの権威に基づいて、それを教えられます)。とはいえ、自然的レベルならば、人間は権威なしでも現実(真理)の知識の一部に到達できるのです。
ですが、超自然的レベルでは、人間は超自然的現実(聖三位一体の神秘のような)の知識に、啓示なしに到達することはできません。ですから聖トマス・アクィナスはこのように教えています。「この(聖なる)教えは、権威による論拠に、特に基礎を置いている。なぜなら、その原理は啓示によって獲得されたからである。従って私たちは、啓示がなされた人々の権威を信じる義務がある。このために、この教義の尊厳が取り去られてしまうことはない。というのは、人間の理性を基礎とする権威から生じる論拠は最も脆弱であるけれども、天主の啓示を基礎とする権威から生じる論拠は、最も強力だからである」(Ia q.1 a.8 ad2m)
天主がお語りになるとき、人間は信じなければなりません。これが「ドグマの原理」であり、ニューマン枢機卿の人生における非常に重要なことでした。「最初にドグマの原理があった。つまり、私の戦いは自由主義との戦いであった。自由主義とは、つまり、反ドグマ的原理とその原理を発展させた主義主張である……。十五歳の時から、ドグマは私の宗教の基本となる原理であり続けた。すなわち、私は他の宗教を知らない。他のいかなる種類の宗教の思想へと入り込むことはできない。単なる感情に過ぎないような宗教は、私にとって夢想とごまかしである」 (Apologia, ch.2)
啓示された真理は権威とともに提示されなければなりません。従って「聖書のみ」では不十分です! 自分だけの解釈に頼るなら、誰もまことの信仰であるカトリック信仰を持てないのです。教会が教えるという事実に由来しないなら、いったい聖書の権威はどこから来るのでしょうか? 聖アウグスティノはこのように述べています。「カトリック教会が、私にそのようにせよと命じない限り、私は福音書を信じないだろう」(Contra Ep. Fund., 5.6) 権威がないならば、信仰は単なる意見に過ぎません。ですから聖パウロはこのように述べています。「それなら、かれらは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう」(ローマ10:14~15)我らの主イエズス・キリストは権威とともに話されました(マテオ7:29)。そしてご自分の使徒たちにご自分の権威をお授けになって、彼らを遣わしました。「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ルカ10:16)「布教」しない説教者に権威はなく、まことの信仰を説くことはできません! このようにして権威の本質は、啓示された真理の知識に対して存在するのです。
さて、権威の拒絶は、近代哲学の中心である自由主義のしるしです。すなわち、自由主義のしるしは、権威を授けられたがその行使の仕方を知らない人々(例えば、パウロ六世の1968年の神の民のクレドは、彼の信仰告白に過ぎず、それを信じるよう義務づけてはいません)と、権威に服すべきだが命令を嫌う人々の、両者の間にあるとわかります。そのようなわけで、荘厳な判断を行使しないまま、定義もないまま、従って最高権威を行使しないまま、彼らが現代人の言葉で現代人に信仰を提示するのを望んだ時、第二バチカン公会議というドラマが起きたのです。
第二バチカン公会議に続く混乱の中で、信者たちは信ずべきことをどうやって識別できたでしょうか? 信仰は人間的権威に対してではなく、天主の権威に対して応えるものです。ですから、教会内で、権威を授けられた人間が我らの主イエズス・キリストに対して、混じりけなく透明である必要があります。それは、信者たちが、彼において、イエズスがお語りになっているのだとわかるためです。さて、この混じりけない透明性は、本質的に、権威を授けられた人間が受け取ったものを伝えるための忠実さで成り立っています。事実、外の風景を窓を通して見られるのは、窓が透明であるからであって、(テレビ画面からのように)窓に映っているわけではなく、窓の後ろから、そして窓を「通り過ぎて」、歪むことなしに見られるのです。[権威を授かった]人間が教えることは、彼独自の個人的な意見ではなく、数世紀にわたって受け継がれた信仰を通して、キリストご自身から来たのだということは明白です。ですから、新奇さは異端の確実なしるし、聖伝への忠実さは正統性の確実なしるしです。
けれども、信者がその識別を見損ない、今日の教会の権威を授けられた者から教えられたために、落ち度はないまま、いくつかの誤謬を信じるよう誘導されたとしたらどうなるのでしょうか? その人の信仰の対象が、「カトリック教会が信じ、教えていること」であり、その信仰の動機が「天主がその真理を啓示し、それを教会に委ねたから」であるならば、啓示の内容について間違っているとしても、その人はまことの信仰を持っていることになります。聖人たちですら、信仰の中身に関して間違えました。聖トマス・アクィナスでさえ、無原罪のおん宿りについての概念が不正確でしたし、再洗礼に関して聖チプリアノもそうでした。ですが、聖アウグスティノが教えたように、教会の唯一性への愛が(=彼は教会の信仰を個人的考えよりも上に置いたから)、彼を救ったのです。(de Baptismo, 6:1,2-2,3)
しかしながら、カトリック教会の権威を嫌悪するならば、たとえその人が、教会の教えている真理の一部を保ち続けているとしても、その人はもはや真理を保っていません。「何故なら人々は、教会を通して、天主の権威によって、教えられるがゆえ」です。つまり、【天主の権威の故に信じるという】「信仰の動機を失い、信仰の徳を失っています。これこそが、権威が、まことの信仰に対してどれほど本質的であるかということを表しています。
権威は信仰のために不可欠であるだけでなく、福音的完徳のためにも不可欠です。まさしく聖トマス・アクィナスが──教会の聖伝全体とともに──修道者の完徳は、第一にキリストにならうこと、特にその従順にならうことから成り立っていると教えており、(IIa IIae q.186 a.5) 従順は権威と一体化した長上を必要とします。事実、これはすぐれた祝福なのです。すなわち、私たちにとって具体的な状況下で何が天主のご意志なのかを識別するのは、多くの場合、非常に難しいことだからです。敬虔な信者の日常生活において、信者たちは、自分が天主のご意志を行っているのか、それとも自分たちの個人的な意向を行っているのか、どうやって知ることができるでしょうか? 天主の十戒という限界の中で、個人的意志と天主のご意志の間の区別をどうやってつけられるのでしょうか? 権威はここで必要となります。つまり、正統な権威に従うとき、特に宗教的権威に従うとき、その人は天主のご意志を行っているとわかります。たとえ長上の側に過ちがあるかも知れないとしても、その命令が本質的に悪でない限り、従うことは依然として正しいのです。典型的な例は修道会における任務の命令です。あるいは、ルフェーブル大司教様の例を取り上げましょう。大司教様がチュール司教として派遣されたとき、大司教様をこの小さな教区へと追放した人々は過ちを犯したかも知れません(大司教であったのですから、大司教にふさわしい職務が与えられるべきでした)。でも、大司教様は従順のうちに正しく行動しました。すばらしい謙遜とともに、一切の不平を呟くことなしに。
権威を取り去れ。しからば修道的従順を取り去ることになる。つまり修道的完徳、キリスト者の完徳を取り去ることになる。
世俗の権威に関してさえ、教会は常に権威の原理を支持してきました。ピ枢機卿は「教会の聖職者たちの見識ある良心にとって、政府に対する敵愾心はあり得ない。なぜなら、これはまさしく教会の精神に反対することであり、教会の精神は著しく忍耐強く保守的な精神であり、たとえ、世俗の権威のある行為や傾向などを教会が承認もせず、受け入れもしない(例えば堕胎法など)まさにその真っ最中の時であったとしても、教会は、世俗の権威の存在を通して、依然として実行可能な善を無視するほどではない」と述べました。その解説はこのように書き留められています。「ピ枢機卿の霊魂はここにある。枢機卿は権威に対し非常な尊敬を抱いていたので、権威を授けられた人々すべてを尊敬していた。そして、権威者たちに立ち向かわなければならないときでさえ、使おうとしない擁護手段があった。なぜなら彼らに損害を与える一方で、そのような手段は、権威を傷つけるからである」 (Card. Pie, Pages Choisies, p. cii)
現代においては、このような権威の危機とともに、権威が攻撃され軽蔑されているがゆえに、権威そのものを拒絶するべきではありません。権威の悪用には抵抗しながら(たとえば天主の法に反して行われる時──使徒行録5:29)、権威が依然としてその義務を果たす時(共通善をもたらすために──ローマ13:1~5)を、判別するべきです。権威を授けられた人々(家庭における父親、修道会における長上など)は「忠実であると見いだされる」(コリント前書 4:2)ように骨を折るべきです。善い長上たち──完全ではないにせよ──を持つ祝福された人々は、天主に感謝し、従順の徳をいっそうよりよく実行するよう努力するべきです。権威を持つ人々を中傷すること(例えば、長上は「誤りのない聖伝よりも間違っている教皇たちを好む」などと、まったく真実でないことを言うこと、など)は、偉大な権威の原理を傷つけ、重大な損害を与えているのです。信仰と徳にとって極めて不可欠な権威を害しています。
フランソワ・レネー神父
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レネー神父様によるアジア管区のサイトの記事「The Good of Authority 権威の有益性」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
権威の有益性
2014年2月17日
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真理は権威の上なのか、それとも権威が真理の上にあるのでしょうか? 両者の間にはどのような関連性があるのでしょうか?
自然的レベルにおいてすら、人間は真理を学ぶために最初に権威を必要とします。すなわち、すべての子どもたちは両親と教師たちの権威に基づいて最初に学びます。その後、自分が、最初に権威によって学んだことを、自分で悟ることができるようになるのです。成人してからでさえ、ほとんどの人たちが権威に基づいて知っている多くの真理【何故そうなのかは説明できないけれども、そのように教わったから信じている真理】が依然として存在します。(例えば、円の面積は、πr2(円周率x半径の二乗)であるということを証明する方法を知っている大人は何人いるでしょうか? 大部分の人々は、学校の教師たちの権威に基づいて、それを教えられます)。とはいえ、自然的レベルならば、人間は権威なしでも現実(真理)の知識の一部に到達できるのです。
ですが、超自然的レベルでは、人間は超自然的現実(聖三位一体の神秘のような)の知識に、啓示なしに到達することはできません。ですから聖トマス・アクィナスはこのように教えています。「この(聖なる)教えは、権威による論拠に、特に基礎を置いている。なぜなら、その原理は啓示によって獲得されたからである。従って私たちは、啓示がなされた人々の権威を信じる義務がある。このために、この教義の尊厳が取り去られてしまうことはない。というのは、人間の理性を基礎とする権威から生じる論拠は最も脆弱であるけれども、天主の啓示を基礎とする権威から生じる論拠は、最も強力だからである」(Ia q.1 a.8 ad2m)
天主がお語りになるとき、人間は信じなければなりません。これが「ドグマの原理」であり、ニューマン枢機卿の人生における非常に重要なことでした。「最初にドグマの原理があった。つまり、私の戦いは自由主義との戦いであった。自由主義とは、つまり、反ドグマ的原理とその原理を発展させた主義主張である……。十五歳の時から、ドグマは私の宗教の基本となる原理であり続けた。すなわち、私は他の宗教を知らない。他のいかなる種類の宗教の思想へと入り込むことはできない。単なる感情に過ぎないような宗教は、私にとって夢想とごまかしである」 (Apologia, ch.2)
啓示された真理は権威とともに提示されなければなりません。従って「聖書のみ」では不十分です! 自分だけの解釈に頼るなら、誰もまことの信仰であるカトリック信仰を持てないのです。教会が教えるという事実に由来しないなら、いったい聖書の権威はどこから来るのでしょうか? 聖アウグスティノはこのように述べています。「カトリック教会が、私にそのようにせよと命じない限り、私は福音書を信じないだろう」(Contra Ep. Fund., 5.6) 権威がないならば、信仰は単なる意見に過ぎません。ですから聖パウロはこのように述べています。「それなら、かれらは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう」(ローマ10:14~15)我らの主イエズス・キリストは権威とともに話されました(マテオ7:29)。そしてご自分の使徒たちにご自分の権威をお授けになって、彼らを遣わしました。「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ルカ10:16)「布教」しない説教者に権威はなく、まことの信仰を説くことはできません! このようにして権威の本質は、啓示された真理の知識に対して存在するのです。
さて、権威の拒絶は、近代哲学の中心である自由主義のしるしです。すなわち、自由主義のしるしは、権威を授けられたがその行使の仕方を知らない人々(例えば、パウロ六世の1968年の神の民のクレドは、彼の信仰告白に過ぎず、それを信じるよう義務づけてはいません)と、権威に服すべきだが命令を嫌う人々の、両者の間にあるとわかります。そのようなわけで、荘厳な判断を行使しないまま、定義もないまま、従って最高権威を行使しないまま、彼らが現代人の言葉で現代人に信仰を提示するのを望んだ時、第二バチカン公会議というドラマが起きたのです。
第二バチカン公会議に続く混乱の中で、信者たちは信ずべきことをどうやって識別できたでしょうか? 信仰は人間的権威に対してではなく、天主の権威に対して応えるものです。ですから、教会内で、権威を授けられた人間が我らの主イエズス・キリストに対して、混じりけなく透明である必要があります。それは、信者たちが、彼において、イエズスがお語りになっているのだとわかるためです。さて、この混じりけない透明性は、本質的に、権威を授けられた人間が受け取ったものを伝えるための忠実さで成り立っています。事実、外の風景を窓を通して見られるのは、窓が透明であるからであって、(テレビ画面からのように)窓に映っているわけではなく、窓の後ろから、そして窓を「通り過ぎて」、歪むことなしに見られるのです。[権威を授かった]人間が教えることは、彼独自の個人的な意見ではなく、数世紀にわたって受け継がれた信仰を通して、キリストご自身から来たのだということは明白です。ですから、新奇さは異端の確実なしるし、聖伝への忠実さは正統性の確実なしるしです。
けれども、信者がその識別を見損ない、今日の教会の権威を授けられた者から教えられたために、落ち度はないまま、いくつかの誤謬を信じるよう誘導されたとしたらどうなるのでしょうか? その人の信仰の対象が、「カトリック教会が信じ、教えていること」であり、その信仰の動機が「天主がその真理を啓示し、それを教会に委ねたから」であるならば、啓示の内容について間違っているとしても、その人はまことの信仰を持っていることになります。聖人たちですら、信仰の中身に関して間違えました。聖トマス・アクィナスでさえ、無原罪のおん宿りについての概念が不正確でしたし、再洗礼に関して聖チプリアノもそうでした。ですが、聖アウグスティノが教えたように、教会の唯一性への愛が(=彼は教会の信仰を個人的考えよりも上に置いたから)、彼を救ったのです。(de Baptismo, 6:1,2-2,3)
しかしながら、カトリック教会の権威を嫌悪するならば、たとえその人が、教会の教えている真理の一部を保ち続けているとしても、その人はもはや真理を保っていません。「何故なら人々は、教会を通して、天主の権威によって、教えられるがゆえ」です。つまり、【天主の権威の故に信じるという】「信仰の動機を失い、信仰の徳を失っています。これこそが、権威が、まことの信仰に対してどれほど本質的であるかということを表しています。
権威は信仰のために不可欠であるだけでなく、福音的完徳のためにも不可欠です。まさしく聖トマス・アクィナスが──教会の聖伝全体とともに──修道者の完徳は、第一にキリストにならうこと、特にその従順にならうことから成り立っていると教えており、(IIa IIae q.186 a.5) 従順は権威と一体化した長上を必要とします。事実、これはすぐれた祝福なのです。すなわち、私たちにとって具体的な状況下で何が天主のご意志なのかを識別するのは、多くの場合、非常に難しいことだからです。敬虔な信者の日常生活において、信者たちは、自分が天主のご意志を行っているのか、それとも自分たちの個人的な意向を行っているのか、どうやって知ることができるでしょうか? 天主の十戒という限界の中で、個人的意志と天主のご意志の間の区別をどうやってつけられるのでしょうか? 権威はここで必要となります。つまり、正統な権威に従うとき、特に宗教的権威に従うとき、その人は天主のご意志を行っているとわかります。たとえ長上の側に過ちがあるかも知れないとしても、その命令が本質的に悪でない限り、従うことは依然として正しいのです。典型的な例は修道会における任務の命令です。あるいは、ルフェーブル大司教様の例を取り上げましょう。大司教様がチュール司教として派遣されたとき、大司教様をこの小さな教区へと追放した人々は過ちを犯したかも知れません(大司教であったのですから、大司教にふさわしい職務が与えられるべきでした)。でも、大司教様は従順のうちに正しく行動しました。すばらしい謙遜とともに、一切の不平を呟くことなしに。
権威を取り去れ。しからば修道的従順を取り去ることになる。つまり修道的完徳、キリスト者の完徳を取り去ることになる。
世俗の権威に関してさえ、教会は常に権威の原理を支持してきました。ピ枢機卿は「教会の聖職者たちの見識ある良心にとって、政府に対する敵愾心はあり得ない。なぜなら、これはまさしく教会の精神に反対することであり、教会の精神は著しく忍耐強く保守的な精神であり、たとえ、世俗の権威のある行為や傾向などを教会が承認もせず、受け入れもしない(例えば堕胎法など)まさにその真っ最中の時であったとしても、教会は、世俗の権威の存在を通して、依然として実行可能な善を無視するほどではない」と述べました。その解説はこのように書き留められています。「ピ枢機卿の霊魂はここにある。枢機卿は権威に対し非常な尊敬を抱いていたので、権威を授けられた人々すべてを尊敬していた。そして、権威者たちに立ち向かわなければならないときでさえ、使おうとしない擁護手段があった。なぜなら彼らに損害を与える一方で、そのような手段は、権威を傷つけるからである」 (Card. Pie, Pages Choisies, p. cii)
現代においては、このような権威の危機とともに、権威が攻撃され軽蔑されているがゆえに、権威そのものを拒絶するべきではありません。権威の悪用には抵抗しながら(たとえば天主の法に反して行われる時──使徒行録5:29)、権威が依然としてその義務を果たす時(共通善をもたらすために──ローマ13:1~5)を、判別するべきです。権威を授けられた人々(家庭における父親、修道会における長上など)は「忠実であると見いだされる」(コリント前書 4:2)ように骨を折るべきです。善い長上たち──完全ではないにせよ──を持つ祝福された人々は、天主に感謝し、従順の徳をいっそうよりよく実行するよう努力するべきです。権威を持つ人々を中傷すること(例えば、長上は「誤りのない聖伝よりも間違っている教皇たちを好む」などと、まったく真実でないことを言うこと、など)は、偉大な権威の原理を傷つけ、重大な損害を与えているのです。信仰と徳にとって極めて不可欠な権威を害しています。
フランソワ・レネー神父