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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「ロザリオの秘密」聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール著 第十三、十四、十五のバラ 主祷文の各祈りの言葉は、私たちが天主の完全性に対して捧げる讃辞である

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十三番目のバラ:「天にまします」第二部

主祷文の各祈りの言葉は、私たちが天主の完全性に対して捧げる讃辞である。私たちは聖父の御名によってその実りの豊かさを讃美する。

《聖父よ》、
御身は永遠に
聖子を生み給う、
聖子は御身と同じ天主であり
永遠であり、御身と同一本質(consubstantialis)であり
御身がそうであるように、天主の本質それ自体であり
御身と同じ力と善と叡智のお方なり。

聖父と聖子との相互の愛から
御身と同じ天主である
聖霊を発出させ給う。
三位でありながら、唯一の天主なり。

《我らの聖父》ーこれは、聖父が私たちを創造し、私たちを支え続け、そして私たちを贖ってくださったことから、人類の聖父であることを意味している。また、罪人の憐れみ深い聖父でもあり、正しい人の友である聖父でもあり、天上の祝福された人々の栄光の聖父でもある。

私たちが 《[天に] まします》と唱えるとき、この言葉によって、私たちは天主の本性の限りの無さと広大さと充満さとを讃美する。すなわち、天主はまさしく“我は、在りて在る者なり”と呼ばれ、すべての存在の原因であるため、必然的に、本質により、そして永遠に存在しておられるのである。主は御自身の中に、すべての存在の完全性を卓越したものを保持しておられ、御自身の本質、現存、力によって、すべて在らしめられているものの内におられるが、その(被造物の)限界に縛られることはない。

私たちは、《天にまします》という言葉によって、その崇高さ、栄光、威厳を称える。つまり、「玉座に座し給う、御身の正義によってすべての人間を支配しておられる御方」というのである。

私たちが《聖名の尊まれんことを》と唱えるとき、私たちは天主の御稜威を礼拝する。《御国の来たらんことを》という言葉によって、天主の王権に敬意を表し、天主の律法の正義には頭を垂れ、天上の天使たちがそうであるように、地上においても人間たちが天主に従うことができるようにと祈る。

《日用の糧》を求めることで、天主の御摂理への信頼を示し、《罪の赦し》を求めることで主の御憐れみに訴えかける。

《我らを試みに引き給わざれ》と懇願するとき、主の偉大な御力に期待し、主に《我らを悪より救い給え》と願うことによって、主の善意に対する信頼を示す。

天主の聖子は、その御働きと、聖父に栄光を帰すことを人々に教えるためにこの世に来られたことによって、常に聖父を讃えておられる。御自身の唇で私たちに教えてくださったこの祈りによって、天主を讃美する方法を人々に示してくださった。したがって、この祈りを頻繁に唱えることは私たちの義務であり、敬虔に、注意深く、そして主が私たちに教えられた精神を以って唱えるべきである。


十四番目のバラ:「天にまします」第三部

私たちは、この主祷文を熱心に唱えるとき、言葉を発するのと同じくらい多くの崇高なキリスト教的聖徳の業を行なう。

《天にまします我らの聖父よ》と唱えるとき、私たちは信仰、礼拝、謙遜の徳を行なう。

《願わくは聖名の尊まれんことを》と、主の聖名が崇められ、栄光が与えられるように願うとき、私たちは主の栄光に対する燃えるような熱意を示し、

《御国の来たらんことを》と主の王国が広まるように願うときには私たちは希望の徳を行なう。
《御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを》と願うことによって、私たちは完全な従順の徳を行なう。

《我らの日用の糧》を求める時、私たちは清貧の徳を実践し、世俗的なものから離れるようにする。

《我らが人に赦す如く》と、自分に罪を犯した人を許すことによって、私たちは最高度の憐みの業を証明する。《我らの罪を赦し給え》と主に願う時、私たちは痛悔の業を行なう。

《我らを試みに引き給わざれ》と、すべての誘惑に対して天主に御助けを求めることによって、私たちは謙遜、賢明、堅忍の徳の業を行なう。
《我らを悪より救い給え》と、天主が悪から救い出してくださるのを待つ時、私たちは忍耐の徳を発揮する。

最後に、これらすべてのことを、自分のためだけでなく、隣人や教会の全成員のために求めることによって、私たちは真の天主の子としての義務を果たし、すべての人を包容する天主の愛を以って天主に倣い、隣人愛の掟を守っているのだ。

もし私たちが口で唱えたことを心の中で意図し、その意図が主祷文に表されたものと矛盾しないなら、この祈りを唱えることによって私たちはすべての罪を憎み、天主のすべての律法を守ることになる。天主が天におられ、その御稜威(みいつ)の偉大さの故に私たちから無限の隔たりがあることを思い、私たちが天主の御前に身を置くたびに、圧倒的な畏敬の念に満たされるだろうからである。そうすれば、主への畏れがすべての高慢を追い払い、私たちはまったくの無であるということの内に天主の御前に平伏すことになるだろう。

私たちが《聖父》という名を口にし、自らの存在が両親という手段を通して天主に依存していること、さらには自らの知識を、天主の代理者という地位にある教師に依存していることを思い出すとき、私たちは彼らに敬意と尊敬を払わずにはいられない、より正確に言えば、彼らの中におられる天主を敬うのだ。そうなると、彼らに失礼なことをしたり、傷付けたりする考えも、私たちから遠ざかってしまうだろう。

私たちは、《聖名が尊まれんことを》と、天主の聖なる御名が栄光のうちに輝くようにと祈る時ほど、天主を冒瀆することから遠ざかることはない。もし私たちが天主の御国を自分たちの遺産として本当に見ているのなら、私たちはこの世のものに執着することはできない。

もし、自分が必要としている同じ祝福を、隣人も得られるようにと心から天主に願うなら、憎しみや争いや嫉妬をすべて放棄するであろうことは言うまでもない。もちろん、《日用の糧》を天主に求めるならば、贅沢な環境で育つ大食漢や淫乱を憎むようになるだるう。

《我らが人に許す如く、我らの罪を赦し給え》と天主に心から乞い願うことで、私たちはもはや怒りや復讐の考えに屈することなく、悪には善を返し、敵を心から愛するようになる。

《我らを試みに引き給わざれ》と天主に乞い願うことは、誘惑を受けた時に私たちが怠惰と戦い、悪しき習慣を根絶し、救霊を実現するための手段を純粋に求めていることの証明になる。

《我らを悪より救い給え》と天主に祈ることは、天主の正義を恐れることであり、これが私たちに真の幸福をもたらす。なぜなら、天主を畏れることは知恵の始まりであり、人が罪を避けるのは、天主に対する敬畏の徳によるものだからである。


十五番目のバラ:「めでたし」

天使祝詞は非常に天上的であり、その意味の深さにおいて私たちを超えているため、福者アラン・ド・ラ・ロシュは、単なる被造物には到底理解できず、祝された童貞マリアから御生まれになられた私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストだけが、それを本当に説明することがおできになる、と言う。

この極めて大きな価値は、まず第一に、この祈りが捧げられた聖母に、またこの祈りが天からもたらされた理由である御言葉の御托身の目的に、そして、この祈りを最初に唱えた大天使聖ガブリエルにある。

天使祝詞は、カトリック神学が、祝された童貞について教えていることを最も簡潔にまとめたものである。これは、讃美と懇願の二つの部分に分かれている。

第一の部分は、マリアの偉大さを構成するすべてのものを示し、第二の部分は、私たちが聖母に願わなければならないこと、そして、聖母の善良さを通して受け取ることが期待できるすべてのものを示している。

最も祝福された三位一体が、その前半部分を私たちに明らかにし、後半部分は、聖霊に息吹かれた聖女エリザベトによって加えられた。聖にして母なる教会は、430年にエフェゾ公会議でネストリウス派の異端を断罪し、聖母が真に天主の御母であることを定義し、その結論を私たちに与えた。この時、教会は私たちに、この輝かしい称号のもとに聖母に祈りを捧げるよう命じた。

『天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も、臨終の時も祈り給え。』

世界の全歴史における最大の出来事は、永遠の御言葉の御托身であり、その御言葉によって全世界は救われ、天主と人類との間に平和が回復されたのだ。聖母はこの途方もない出来事のために主の道具として選ばれ、聖母が天使祝詞で挨拶された時にそれが実行された。天国の宮廷を代表する第一人者である大天使聖ガブリエルが、この吉報を伝える大使として選ばれたのである。

天使祝詞には、太祖、預言者、使徒たちの信仰と希望が見て取れる。さらに、それは殉教者にその揺るぎない信仰と力を与え、教会博士たちの知恵でもあり、証聖者たちの堅忍であり、すべての修道者たちの生命でもある。(福者アラン・ド・ラ・ロシュ)

またこれは、恩寵の法則の新しい讃歌でもあり、天使と人類の喜びであり、悪魔を恐れさせ、惨敗させる讃歌でもある。

天使祝詞によって、天主は人となられ、乙女は天主の御母となり、義人の霊魂は古聖所(リンボ)から解放され、天上の空座は満たされた。さらに、罪が赦され、聖寵が与えられ、病人は回復し、死人は生命へと戻り、流罪者は家に帰され、最も祝福された三位一体の怒りが鎮まり、人類は永遠の命を得たのである。

最後に、天使祝詞は天とこの世の架け橋である虹であり、天主がこの世に与えられた憐れみと御恵みのしるしである。(福者アラン・ド・ラ・ロシュ)。


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