十六番目のバラ:「めでたし」ー美しさ
天主の御稜威ほど偉大なものはなく、罪人である限り人間ほど卑しいものはないにもかかわらず、全能の天主は私たちの貧しい祈りを軽んじることはない。それどころか、私たちが天主の讃歌を歌うとき、天主は喜んでくださるのだ。
大天使聖ガブリエルの聖母への挨拶は、至高の天主の栄光のために私たちが歌うことのできる最も美しい讃歌の一つである。“主よ、私は新しい歌を歌い”、ダビドがメシアの到来の際に歌われると預言したこの新しい讃歌は、天使祝詞に他ならない。
讃歌には、古い讃歌と新しい讃歌がある。
古い讃歌は、ユダヤ人が、天主が自分たちを創造し、存らしめ続けさせてくださったこと、捕囚から救い出し、紅海を無事に渡らせてくださったこと、食物としてマンナを与えてくださったこと、その他全ての天主からの祝福に感謝するために歌ったものである。
新しい讃歌は、御托身と贖罪の御恵みを感謝して歌うものである。これらの驚嘆すべきことが天使祝詞によってもたらされたように、私たちも同じ祝詞を繰り返して、最も祝福された三位一体が私たちに与えてくださった計り知れない御恵みを感謝する。
聖父なる天主を讃えるのは、私たちの救い主として御一人子を御与えくださるほど、天主がこの世を愛してくださったからである。聖子を祝福するのは、聖子が天を離れて、地上に降りて来られたからである。なぜなら、「彼は人間となられ」私たちを贖って下さったからである。私たちが聖霊を讃美するのは、聖霊は、聖母の御胎内で、私たちのために罪のいけにえとなられたこの主の汚れなき御体を形造ってくださったからである。このような深い感謝の念に基づいて、私たちは常にめでたしを唱え、救霊というかけがえのない贈り物に対する信仰、希望、愛、そして感謝を表明すべきである。
この新しい讃歌は、天主の御母を讃えるものであり、直接聖母に向かって歌われているが、それにもかかわらず、それは最も祝福された三位一体を大いに讃美している。なぜなら、私たちが聖母に捧げるあらゆる敬意は、聖母のすべての聖徳と完成の原因である天主に必然的に帰されるからである。私たちが聖母を敬うとき、天主の創造の御業の最も完璧なものを讃えているので、天主なる聖父は栄光をお受けになる。天主なる聖子は、その最も汚れなき御母を讃えているので、栄光をお受けになる。そして、天主なる聖霊は、その浄配を満たされた恩寵に私たちが感嘆しているので、栄光をお受けになる。
私たちが天使祝詞を唱えて聖母を讃美し祝福するとき、聖母は常に、聖エリザベトに讃美された時と同じように、これらの讃美を全能の天主へとお伝えになる。聖エリザベトは、天主の御母という最も高い尊厳をもって聖母を祝福し、聖母は直ちに美しいマニフィカトによってこれらの讃美を天主に帰されたのである。
天使祝詞が祝福された三位一体に栄光を与えるように、それは私たちが聖母に捧げることのできる最高の讃辞でもある。
ある日、聖女メクティルドが祈っていたとき、どうすればこれまでよりもよく聖母への愛を表現することができるかを考えていたところ、彼女は脱魂状態に陥った。聖母は、燃えるような金色の文字で書かれた天使祝詞を胸に抱いて現れ、彼女に仰せられた。「私の娘よ、あなたに知っておいてほしいのですが、最も崇敬すべき三位一体が私に送ってくださり、それによって私を天主の御母の尊厳にまで高めてくださった祝詞を唱えること以上に、私を喜ばせることができる人はいません。
『めでたし“Ave(これはエワ Evaという名前のことである)”』という言葉によって私は、天主がその無限の御力で、最初の女性が犯したすべての罪とそれに伴う不幸から私を守ってくださったことを知りました。
『マリア』という“光の女性”を意味する名前は、天主が私を知恵と光で満たしてくださり、輝く星のように、天と地を照らすようにしてくださったことを示しています。
『聖寵充ち満てる』という言葉は、聖霊が私に多くの御恵みを与えてくださったので、私を仲介者として、私を通して御恵みを求める人々に、これらの御恵みを豊かに与えることができることを思い起こさせます。
『主、御身と共にまします 』と人々が 唱えるとき、永遠の御言葉が私の胎内で御托身された時の、言葉では言い表すことのできない喜びを新たにするのです。
『御身は女の内にて祝せられ』とあなたたちが唱えるとき、私をこの幸福の高みにまで引き上げてくださった、全能の天主の至聖なる御憐みを讃えます。
そして、『御胎内の御子、イエズスも祝せられ給う』という言葉には、人類を救い給うた 私の御子イエズス・キリストが崇められ、栄光を受けておられるのを見て、天国全体が私と共に喜ぶのです。
十七番目のバラ:「めでたし」ー実り
聖母に対して深い信心を抱いていた福者アラン・ド・ラ・ロシュは、聖母から多くの啓示を受け、その啓示の真実性を荘厳な誓いによって確認していたことが分かっている。その中でも特に強調されている真理が三つある。
一つ目の真理は、もし「めでたし」(この世を救った天使祝詞)を、怠慢から、あるいは彼らの生ぬるさから、あるいは自分たちがそれを嫌いだからと言って唱えない者があるとしたら、それは十中八九、彼らが近い将来、永遠の罰に処されることのしるしであるということ。
第二の真理は、この天使祝詞を愛する人々は、彼らが天国へと救霊を予定されているという非常に特別なしるしを持っている、ということ。
第三の真理は、聖母を愛し、その愛の内に聖母に仕えるという天主からの恩寵のしるしを与えられた者は、彼らが得た栄光の度合によって、聖母によって天国の天主の聖子の御傍に置かれる時まで、聖母を愛し、仕え続けることができるよう細心の注意を払わなければならない、ということである。(『福者アラン』第11章2節)
異端者たちは、全員悪魔の子であり、明らかに天主からの排斥のしるしを持っており、彼らは「めでたし」を恐れている。彼らは「天にまします」を唱えることはあっても、決して「めでたし」を唱えることはない。彼らはスカプラリオを身につけたり、ロザリオを持ったりすることよりも、毒蛇を首に巻くことを好む。
カトリック信者の中でも、天主からの非難(reprobation)のしるしを持つ人々は、ロザリオ(それが五連のものであれ十五連のものであれ)のことをほとんど考えていない。彼らはロザリオを唱えないか、あるいは唱えるとしても非常に早く、また生ぬるい方法でしか唱えないのである。
例え私が福者アラン・ド・ラ・ロシュに啓示されたことを信じていなくても、私自身の経験が、この恐ろしくも慰めになる真理を私に確信させるのに十分だろう。どうしてこんなに小さいと思われる信心が永遠の救いの絶対的なしるしとなり、それが欠けていることが天主の永遠の怒りのしるしとなるのか、私は知らないし、はっきりとも分からないが、これ以上の真理はない。
現代では、聖にして母なる教会によって排斥された新しい教理を信じる人々は、表面上の敬虔さは非常にあるかもしれないが、ロザリオを軽蔑し、知人のロザリオへの愛と信仰を破壊して、ロザリオを口にするのを思い留まらせることがよくある。その際、彼らは世間の目から見てもっともらしい、手の込んだ言い訳をする。彼らはカルバン派のようにロザリオやスカプラリオを非難しないように細心の注意を払っているが、彼らの攻撃方法はより狡猾であるため、より致命的なものとなる。このことについては、後でもう一度言及する。
「めでたし」、十五連あるいは五連のロザリオは、天主の霊によって導かれている者と悪魔に騙されている者とを見分けるための祈りであって、確実な基準となる。私は、崇高な黙想によって鷲のように高みへと昇っていくように見えたのに、悪魔によって哀れにも道を踏み外してしまった霊魂たちを知っている。彼らがいかに間違っているのかに気付いたのは、彼らが「めでたし」やロザリオを軽蔑し、自分たちよりはるかに下に見ていたことを知った時だった。
「めでたし」は、天国へと救霊を予定されている人々の霊魂に降り注ぐ祝福の露である。それは、すべての聖徳に成長できるように、驚くほど霊的に豊な実りを与えてくれる。この祈りによって霊魂の庭に水が与えられれば与えられるほど、彼らの知性はより賢明になり、心はより熱心になり、霊的な敵に対する鎧はより強固になるのである。
「めでたし」は、天主の言葉と結び付いた鋭く燃えるような矢であり、たとえ説教の才能が少ししか、あるいはほとんどなくても、最も頑なな心を貫き通し、動かし、回心させる力を説教者に与えるのだ。
すでに述べたように、これは聖母が聖ドミニコと福者アランに教えた偉大な秘密であり、彼らが異端者や罪人を改宗させることができるようにするためのものであった。
聖アントニオは、多くの司祭が説教の最初に「めでたし」をする習慣を身につけたのは、このためだと教えている。