2022年2月20日(主日)六旬節の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、去年の2021年10月10日から始まった、ローマでの「シノダリティ」というものをテーマとするシノドスについて、少しお話したいと思っています。ローマで起こっている事です。もしかしたら一般の方はご存知ない方がたくさんいらっしゃるかもしれません。
「シノダリティ」というのは、「シノドス性」とか「シノドスである事」という意味です。一体何の事かというと、「シノドス」というのはギリシャ語で、「シン syn」というのは「一緒に」という意味で、「ホドス hodos」は「道」です。そこで「一緒に歩く道」という意味になり、転じて「教会の会議」を意味するようになりました。
でも今回のシノダリティというのは、通常の「教会会議」というよりは、その語源に忠実に「一緒に道を歩く」という意味で解釈して、一緒に道を歩く為のシノドスだ、という事です。結局は、結論を言ってしまえば、「シノダリティ」というのは、「民主主義化」という事です。
この今回行なわれているのは、どのような事かというと、去年の10月10日から、ローマで始まったシノドスを、その次の主日、つまり10月17日から、全世界の司教区で、シノダリティについてのシノドスを開始する、という事です。
三つの段階に分けられています。
今年の4月頃までは第一の段階で、地方の司教区ごとの段階になっています。そこで司教区の中で、「一般信徒の方の声を聴こう。教会は耳を傾けなければならない。」聖書に耳を傾ける、あるいは教会博士に耳を傾ける、教父たちに耳を傾ける、司教様のお話や神学者の話に耳を傾けるのではなくて、「全ての洗礼を受けた人の話を聞こう。そして特に、教会に来ていない人の話を聞こう。そしてどのような教派とか、どのような人とかでも構わず、洗礼を受ければ誰でもOKだ」という事です。
そしてそれで出てきた声をまとめて、それを地域ごと、あるいは大陸ごとに、第二の段階でまとめて、その次に最後に2023年、つまり来年の10月は、ローマでそれを、平信徒も聖職者も一緒になって、それを最後の決定的な文章を作って、それを可決させる、という事です。
指導文書(Vademecum)によると、「数の支配ではなくて、また利益が優先するようなものではない。そういう政治的な駆け引きは無い」とされていますけれども、一体それを保障するものはどこにあるのでしょうか?
結局、教会が今までやった事がないような大実験をしていて、つまり名前だけの付いていない実質上「第三バチカン公会議」が行なわれる、もう一回「10月革命」が行なわれると言ってもよいでしょう。これは、教会の在り方を根底的に変えてしまおうとする革命が今、行なわれつつあるという事です。
教皇様自身も「別の教会を作るのではなくて、違う教会を作る」と仰っています。「新しさに開かれた、これまでとは違う教会に向かって歩む」とされています。
そしてこのシノダリティについてのシノドスの為のモデルが、全世界に向けて既に示されています。「全世界の人々は、このモデルを見て、このようにやりなさい」というシノドスがあるのです。それはドイツでありました。
つい最近、第3回の総会で、最初の投票が行なわれて、色々な問題点が可決されました。ドイツのSynodale Wegと言われている「シノドスの道」というものは、230名ほどの参加者がいて、代表がいて、そして平信徒と聖職者からなっているのですが、「ローマに持っていく為の最終文章を今、準備している」との事です。これは2019年から、COVIDの危機にも関わらず、ずっとやり続けてきたものです。
これによると、2月5日の投票においては、まず「女性の司祭」を認可しました、174名が賛成、反対が30名でした。またそれによると、「司祭の独身制を廃止させよう。」これが賛成が159名、反対が26名。また司祭の結婚を促進しよう。また「同性愛ももう一度考え直して、そして罪の状態にあるような霊魂たちにも、御聖体を配るようにしよう。」またあるいは、「司教様だけが教会を統治するのではなくて、平信徒も統治してもいいんじゃないか。」あるいは、「ミサも司祭が司式するのではなくて、平信徒も司式してもいいんじゃないか」などというものが可決されました。これは遂にローマに行く前に最終の形になるのですけれども、これを見せて、全世界に「これを真似するように」と言っているのと同じです。
つまりこれは、今までカトリック教会が見てもいなかった、考えてもいなかった、「許されない・いけない」と教えた事を可決する、という事で、教会の信仰に対する大きな攻撃です。信仰に対する攻撃のみならず、教会を根底から覆して、教会を全く別のものに変えてしまおう、違ったものにしてしまおうという革命が今、行なわれているのです。つまり「教会を廃止してしまおう」という事です。
もちろん、教会は天主が作ったものですから、イエズス・キリストが立てたものですから、廃止する事はできません。いくら人間が革命を起こそうとしても、これは失敗に終わるに決まっています。
しかし、一体なぜ、このような考えが生まれてしまったのでしょうか?
なぜかというと、ここに参加している方々は、「聖なるものが一体何であるか」「天主が一体どれほど聖なるものであるか」という事をご存知なかったか、理解できていない、分かっていないからです。
「天主」というのは、私たちを無から創造して在らしめて、そして生かして下さって、そして全宇宙を統治しておられる、そして何億何兆という無数の天使・大天使たちが、いつも絶え間なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」“カドシュ、カドシュ、カドシュ!”と賛美して、礼拝している、その御方の立てた教会をあたかも何でもないかのように取り扱う事が、一体どうしてできるのでしょうか?
なぜかというと、「御聖体」を、「天主の御体、イエズスの御体」御聖体を、あまりにもなおざりに取り扱って、「聖なるものとは何か」という感覚を失ってしまった結果ではないでしょうか?
一体私たちには、この教会を守る為に、教会をイエズス・キリストが立てたそのままを守る為に、一体何をすれば良いのでしょうか?このシノドスに参加して、「いや、これはこうです」と意見を書けばそれで良いのでしょうか?
そうではないのです。それは数の理論で、影響の力で、権威の力で、簡単に聖伝などのようなものは廃止されて、教会はそのまま革命の波に埋まってしまって、そして私たちの知っている教会とは全く違う、人間の作ったものが出来てしまうかもしれません。その今、危機の岐路に立っています。ですから私たちは今、その事をよく自覚しなければなりません。どうしたら良いでしょうか?
まず、兄弟姉妹の皆さんと私が、「聖なるもの」に近付いて、「聖なるものが何であるか」という事をよく理解する事が必要です。そして「聖なるものに近付く、聖なるものに心を上げる」というのは、「天主に近付く」という事はどうしたら良いでしょうか?
「祈り」と、特に「御聖体」、そして「聖伝のミサに与る」事によって、聖なるものを良く知る事ができます。新しいミサではありません、聖伝の、カトリック教会が今まで伝えてきた、一・聖・公・使徒継承のそのミサ聖祭に与って下さい。そうする事によって私たちは、何十倍にもカトリック教会をそのまま保ち、守る事ができます。
「あぁ、私には関係ないよ。教皇様が、司教様が、なさることだから」今そう言っている時代ではありません。私たちが教会を守らなければなりません。一体、何ができるでしょうか?
「マリア様」です。なぜかというと、マリア様は天主の婢女(はしため)として、全てを天主の御旨のままに行なおうとする事によって、大司祭であるイエズス・キリストの御母となった方だからです。
マリア様は天主の御旨に逆らって司祭になりたいと思った事は一度もありません。罪の無い御方です。良心には一度も罪の汚れの影さえも無かった方です。そのマリア様が、天主がどれほど聖なる方か、イエズス・キリストがどれほど聖なる方か、その御体がどれほど聖なるものであるか、よくご存知です。そして司祭とは一体誰がなる事ができるか、知っています。主が選んだ者です。主は旧約の時代から、アブラハムがメルキセデクに生贄を頼んだその時代から今に至るまで、4000年間、モーゼの時代を通して、司祭はいつも男性でした、主の御旨によって。それが聖なる御旨なので、一体誰が変える事ができるでしょうか。
私たちはもう一度、「教会が聖なるものである、天主が立てたものである」という事に戻らなければなりません。人間が手をつける事ができません。その為にこそ、ミサを聖なるものとして守らなければなりません。ですからどうぞ、良い四旬節を過ごす為にも、ミサに、聖伝のミサに与って下さい。ロザリオを唱えて下さい。
マリア様に、無原罪の御孕りのマリア様にお祈り致しましょう。教会を守って下さいますように、カトリック教会をそのまま、イエズス様が立てたままを守って下さいますように。今、時は重大です。今、私たちが祈る時です。ミサに与る時です。そして愛する兄弟姉妹の全ての皆さんを、ミサに招待致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。