2022年3月11日(金)四旬節の四季の斎日 金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
【東京では、次回の03月20日(日)だけ特別に、神田須田町ホール3階で主日ミサが捧げられます。ご注意ください。地図 】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、明日は、聖フランシスコ・ザベリオが列聖されて400周年の記念の日です。
1622年3月12日に、聖イグナチオと共に聖フランシスコ・ザベリオは列聖されました。グレゴリオ十五世によってなされました。
そこで、日本に2年半の福音宣教の仕事をした最初の偉大な宣教師、日本の恩人である聖フランシスコ・ザベリオの列聖を記念して、聖フランシスコ・ザベリオのその業を、少し一緒に黙想することを提案します。
聖フランシスコは、1507年4月3日、聖週間の聖火曜日にハビエル城で生まれました。お父さんフアン(ヨハネ)はハビエル城の城主であって、お母さんマリアはアスピリクエタ家(Azpilcueta)で、やはり貴族で、王家の出身でした。お母さんの家系をたどると4代前は王家に、スペイン王(カスティリャ王)に直接関係ありました。子供の頃から、上流の階級の5番目の子供の末っ子として生まれましたが、その当時政治的にスペインという国はなくて、聖フランシスコ・ザベリオがいたのは、ナバラ王の下に忠誠を誓っていたナバラ王国の封建君主、お殿様でした。
ナバラ王国の隣には、カスティリア王国がありました。お母さんの家系はカスティリアの家系、そしてお父さんはナバラ王に忠誠を誓うものでした。
ところが、非常に複雑な政治的な問題が生じて、フランス王家と教皇領土の間でちょっとした政治的な戦いがありました。フランスがイタリア半島に領土を拡張しようとしてきたからです。
すると、フランスと教皇領とどちらに付くかで、カスティリア王とナバラ王とでは意見が違いました。カスティリア王フェルナンドはローマ教皇ユリウス二世の側につきました。しかし、ナバラ王フアンはフランスの大貴族でもあったので、フランスを敵とすることはできなかったのです。そこで、ナバラ王を支持するか、あるいはカスティリア王を支持するか、ということで、非常に難しい態度を迫られました。ナバラ王国の家臣のなかでも、ナバラ王を去ってカスティリャ王に身をひるがえす家族も続出ていました。しかし、ハビエル城主でお父さんのドン・フアンは、最後まで中立を保とうとしました。ついにナバラ王国はカスティリャ王に負け、ハビエルの土地は売られ、ドン・フアン・ハビエルはショックで亡くなります。アスピリクエタ城はつぶされ、ハビエル城も攻撃を受けたり、城のお堀を埋めさせられたりしました。その後、ハビエル家は非常に難しい時を過ごさなければなりませんでした。
1521年には、ナバラの民衆はフランス人と組んで、カスティリャに反乱して独立しようと試みたのです。フランス軍の一団が小さな町パンプローナに襲いかかりました。この町は負けます。そこには隊長であるロヨラのイグナチオが一人立っており、火薬で黒焦げになっていましたが、逃げ出しませんでした。この軍隊の中には、聖フランシスコ・ザベリオの兄であったフアンとミゲル・ザビエルもいました。若かったフランシスコは、戦いに参加せずに取り残されていました。もう少し年齢があれば、イグナチオを大砲で撃ったのはフランシスコだったかもしれません。パンプローナは占領され、イグナチオも一緒に占領されました。これをきっかけに聖イグナチオは回心します。
さて、私たちの聖フランシスコ・ザベリオは幼い頃にこのようなものを見てきました。王家であって、そしてこんなにもカトリックに熱心なものであったものにもかかわらず、「どの王様に付くか」ということによって、お城が潰されたり、戦争があったり、その大砲の音が聞こえたりしていた、ということです。
彼は大きくなる時に、「もうこのような政治に関わりたくはない」と思いつつも、しかしそれでも、自分のお姉さんは修道院に入って修道院長にもなっているし、それで教会の聖職者となって、自分の親戚がたくさん聖職者にいるので、聖職者になれば(その当時は王国から聖職者に給料が出ていたので)、そうすれば難しい自分のこのハビエル家も、そのお金で経済的に助けてあげることができるかもしれない、と思いました。そこで教会の高い地位を目指そうと思い、パリに行って神学の勉強をしたのでした。
聖フランシスコ・ザベリオにとっては、よりこの世界を舞台として、このより高い地位を求めて活躍する、というのがその血筋でした。皆さんもご存知の通り、フランシスコはパリに行き、その大学で神学・哲学を勉強している時に、その部屋のルームメイトとして、聖イグナチオに会います。フランスに対して戦いをしていた軍人で、ナバラ王国の敵だった人でした。パリで神学を勉強していたのですけれども、フランシスコに聞きます。「フランシスコ、お前は全世界を儲けたとしても、魂を霊魂を失ったら、一体それがお前の何の利益になるのか。」聖イグナチオはイエズス様の福音の言葉をフランシスコに引用します。
フランシスコはその言葉を頭から離すことができませんでした。確かに、イエズス様を信じて、イエズス様の為に生きてきた良いキリスト教信者だったかもしれませんが、しかしイエズス様が全てではなかったのです。「イエズス様を王として忠誠を誓う」というわけではなかったかのようです。「たとえ全世界を儲けたとしても、霊魂を失ったとしたら一体、何の役に立つだろうか。」
フランシスコは28歳の時に、聖イグナチオと共に、7人の同志はパリで誓願を立てます。「キリストに全てを捧げよう」と。そして聖イグナチオの指導の下に、霊操を行ないます。「王たるキリストに従おう」と決心をします。
聖フランシスコ・ザベリオは、「これからは、この世の王ではなくて、決してその王国が滅びることのないキリスト、王たるキリストの下に仕える。王たるキリストの領土の拡張の為に、その霊魂の獲得の為に、全世界の霊魂の救いの為に働きたい」と思いました。
そして1552年12月3日に、中国の前の上川島という、ほんの中国大陸から14km程の小さな島、ポルトガル人が貿易の拠点としていたその島で、裏切られて、貧しく、キリストのように亡くなって、中国大陸に行くことを望みつつも、病に倒れて、そして霊魂をイエズス様に返すまで、イエズス・キリストを王として忠実に真似たい、イエズス・キリストのように苦しみ、そして清貧に生活することをだけを望んで、霊魂の救いの為に、天主のより大いなる栄光の為にのみを考えて、一生を捧げた聖人でした。
聖フランシスコ・ザベリオと聖イグナチオ、かつては政治的には敵だったこの二人は、栄光あるイエズス会の司祭として400年前に同時に列聖されました。
聖フランシスコ・ザベリオは、日本に2年半来て、霊魂の為に、霊魂の救いの為に偉大な仕事をしました。それについてはまた明日、黙想致しましょう。特にこの聖フランシスコの精神、「霊魂の救いの為に、天主のより大いなる栄光の為に、王たるキリストに忠実に従う為に、全てを捧げたい」を見習いましょう。
終わりまでそれを、その決心を守り通した聖フランシスコ・ザベリオに、私たちは御取次ぎを乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。