十 九 日 聖母の御謙遜
主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり。 (ルカ 一。四八)
天主は救い主の御母たる高き御位(みくらい)に、身分高き貴婦人(きふじん)を選び給わず、却(かえ)って一(いち)労働者の許嫁(いいなずけ)なる至って身分低き聖マリアをお選びになった。これに就(つ)いての予言は、勿論(もちろん)早くからすべての律法(りっぽう)学士やフアリザイ人達の知る所であったが、実際に待望(たいぼう)の救い主がかように平凡な家庭から出(い)で給はうとは、彼等の夢にも思いがけなかった事であろう。
然し天主は常に人の意表(いひょう)に出て、世間の富ある、名誉ある、権力(けんりょく)ある、傲慢(ごうまん)なる人々を用(もち)いずに、却(かえ)って、貧(まず)しき,賤(いや)しき、弱き、謙遜(けんそん)なる人々を使ってその思(おぼ)し召(め)しを実現し給うのである。従って、かようにして行われた大事業は、その人々の力(ちから)によるものでなく、天主の御力(おちから)によるものである事が容易(ようい)にさとられる。即ち人々は天主の道具に過ぎず、御(み)光(さ)栄(かえ)は当然天主に帰(き)すべきものである事がわかるのである。
聖マリアはこの事を深く悟(さと)っておいでになった。されば聖エリザベトに讃美(さんび)された時、直(す)ぐにその讃美(さんび)を天主に帰(き)し「我が魂主を崇(あが)め奉り、我が精神救い主にてまします神によりて喜悦(よろこび)に堪(た)えず」と仰せられた。言い換(か)えれば御自分が救い主の母と選ばれ給うた事よりも、御自分を用いられて天主が救(すく)霊(い)の事業を起こし給う事を喜びとし、感謝せられたのである。之は己(おのれ)を空(むな)しうするもので、誠に謙遜(けんそん)の極地(きょくち)といってもよいではないか。
更に聖マリアは御自分が他の婦人より天主の御母に選ばれ給うたのは御自分が他の総(すべ)ての婦人より賤(いや)しき為であると信じて居られた。故(ゆえ)に大天使に向かっても「我は主の婢(つかひめ)なり」と答え、聖エリザベトに対しても「主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり」と仰せになったのである。
そして「蓋(けだ)し見よ、今より萬代(よろずよ)までも人、我を幸いなる者と称(たた)えん」と予言された際にも、御自分に就いては少しも誇る色なく、ひたすらかくはかられ給いし天主の御善徳(ごぜんとく)を讃美(さんび)し給うたのであった。その御謙遜(ごけんそん)は実に何と称(たた)えたらよいであろう!
かゝる聖母を尊敬(そんけい)し、その大いなる幸(さいわい)を祝(ことほ)ぎ奉(まつ)る為には、我等も先ずその深い御謙遜(ごけんそん)に倣(なら)わねばならぬ。謙遜(けんそん)の心なき者がいかに聖マリアを尊敬(そんけい)すると云っても、天主はそれを嘉(よみ)し給わぬに相違ない。
されば聖人方は皆謙遜(けんそん)の徳を何よりも好(この)み、一切(いっさい)の働きも功(いさおし)も、その徳その奇蹟(きせき)も悉(ことごと)く天主の御光栄(みさかえ)として献(ささ)げ尽(つ)くし、自(みずか)らは少しも誇(ほこ)る事がなかった。「我が神、我が総(すべ)て」という聖フランシスコの言葉は、そういう聖人方の心境(しんきょう)を 言いあらわしたものである。
それに反して罪多く善業(ぜんぎょう)少ない人々にとっては、謙遜(けんそん)は最(もっと)も難事(なんじ)である。かような人々は生来(せいらい)我意(がい)が強く、天主の御光栄(みさかえ)よりも己の栄誉を求めている。従(したが)って他人から軽蔑(けいべつ)や恥(ち)辱(じょく)を受ける事を非常に恐れ、忍耐や心の平安など少しもなく、些細(ささい)な事にも激(げき)し易(やす)い。叉己の功(いさおし)や犠牲は得々(とくとく)と数(かぞ)え立てるが、己の欠点や弱(じゃく)熱(ねつ)には更に留意(りゅうい)せぬ為、益々罪に陥(おちい)り易(やす)い危険がある。斯(か)かる誤りは勿論(もちろん)、謙遜(けんそん)の徳の不足に帰因(きいん)するもので、そういう人はどれほど天主を愛し奉る心があっても、自(おの)ずと自愛心に制(せい)せられて十字架を好(この)まず、いかに聖母を尊敬(そんけい)しても、その御跡(みあと)に倣(なら)って謙遜(けんそん)の徳を求めようとはせぬ。我々はよくよく己を反省して、もっと謙遜(けんそん)を修(おさ)めるように心がけよう。
何となれば謙(へり)遜(くだ)る人は現世(このよ)では既(すで)に天主の御祝福を受けて、心の平安と楽しさを味(あじ)わい、來(のちの)世(よ)では天国の福(ふく)楽(らく)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いないからである。
祈 願
あゝ謙遜(けんそん)の模範(もはん)なる御母(おんはは)聖マリアよ、子たる我等にも御身の御謙遜(ごけんそん)を伝え給え。謙遜(けんそん)は御身にあやかる最(もっと)も近き道なれば、天主が御身の謙遜(けんそん)をみそなはして御独子(おんひとりご)の御(み)母(はは)たる高き御位(みくらい)を与え給いし如く、我等の賤(いや)しきを顧(かえり)み給いて、それに相応(ふさわ)しき徳を恵み給うよう、御伝達(おんとりつぎ)の程を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり。 (ルカ 一。四八)
天主は救い主の御母たる高き御位(みくらい)に、身分高き貴婦人(きふじん)を選び給わず、却(かえ)って一(いち)労働者の許嫁(いいなずけ)なる至って身分低き聖マリアをお選びになった。これに就(つ)いての予言は、勿論(もちろん)早くからすべての律法(りっぽう)学士やフアリザイ人達の知る所であったが、実際に待望(たいぼう)の救い主がかように平凡な家庭から出(い)で給はうとは、彼等の夢にも思いがけなかった事であろう。
然し天主は常に人の意表(いひょう)に出て、世間の富ある、名誉ある、権力(けんりょく)ある、傲慢(ごうまん)なる人々を用(もち)いずに、却(かえ)って、貧(まず)しき,賤(いや)しき、弱き、謙遜(けんそん)なる人々を使ってその思(おぼ)し召(め)しを実現し給うのである。従って、かようにして行われた大事業は、その人々の力(ちから)によるものでなく、天主の御力(おちから)によるものである事が容易(ようい)にさとられる。即ち人々は天主の道具に過ぎず、御(み)光(さ)栄(かえ)は当然天主に帰(き)すべきものである事がわかるのである。
聖マリアはこの事を深く悟(さと)っておいでになった。されば聖エリザベトに讃美(さんび)された時、直(す)ぐにその讃美(さんび)を天主に帰(き)し「我が魂主を崇(あが)め奉り、我が精神救い主にてまします神によりて喜悦(よろこび)に堪(た)えず」と仰せられた。言い換(か)えれば御自分が救い主の母と選ばれ給うた事よりも、御自分を用いられて天主が救(すく)霊(い)の事業を起こし給う事を喜びとし、感謝せられたのである。之は己(おのれ)を空(むな)しうするもので、誠に謙遜(けんそん)の極地(きょくち)といってもよいではないか。
更に聖マリアは御自分が他の婦人より天主の御母に選ばれ給うたのは御自分が他の総(すべ)ての婦人より賤(いや)しき為であると信じて居られた。故(ゆえ)に大天使に向かっても「我は主の婢(つかひめ)なり」と答え、聖エリザベトに対しても「主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり」と仰せになったのである。
そして「蓋(けだ)し見よ、今より萬代(よろずよ)までも人、我を幸いなる者と称(たた)えん」と予言された際にも、御自分に就いては少しも誇る色なく、ひたすらかくはかられ給いし天主の御善徳(ごぜんとく)を讃美(さんび)し給うたのであった。その御謙遜(ごけんそん)は実に何と称(たた)えたらよいであろう!
かゝる聖母を尊敬(そんけい)し、その大いなる幸(さいわい)を祝(ことほ)ぎ奉(まつ)る為には、我等も先ずその深い御謙遜(ごけんそん)に倣(なら)わねばならぬ。謙遜(けんそん)の心なき者がいかに聖マリアを尊敬(そんけい)すると云っても、天主はそれを嘉(よみ)し給わぬに相違ない。
されば聖人方は皆謙遜(けんそん)の徳を何よりも好(この)み、一切(いっさい)の働きも功(いさおし)も、その徳その奇蹟(きせき)も悉(ことごと)く天主の御光栄(みさかえ)として献(ささ)げ尽(つ)くし、自(みずか)らは少しも誇(ほこ)る事がなかった。「我が神、我が総(すべ)て」という聖フランシスコの言葉は、そういう聖人方の心境(しんきょう)を 言いあらわしたものである。
それに反して罪多く善業(ぜんぎょう)少ない人々にとっては、謙遜(けんそん)は最(もっと)も難事(なんじ)である。かような人々は生来(せいらい)我意(がい)が強く、天主の御光栄(みさかえ)よりも己の栄誉を求めている。従(したが)って他人から軽蔑(けいべつ)や恥(ち)辱(じょく)を受ける事を非常に恐れ、忍耐や心の平安など少しもなく、些細(ささい)な事にも激(げき)し易(やす)い。叉己の功(いさおし)や犠牲は得々(とくとく)と数(かぞ)え立てるが、己の欠点や弱(じゃく)熱(ねつ)には更に留意(りゅうい)せぬ為、益々罪に陥(おちい)り易(やす)い危険がある。斯(か)かる誤りは勿論(もちろん)、謙遜(けんそん)の徳の不足に帰因(きいん)するもので、そういう人はどれほど天主を愛し奉る心があっても、自(おの)ずと自愛心に制(せい)せられて十字架を好(この)まず、いかに聖母を尊敬(そんけい)しても、その御跡(みあと)に倣(なら)って謙遜(けんそん)の徳を求めようとはせぬ。我々はよくよく己を反省して、もっと謙遜(けんそん)を修(おさ)めるように心がけよう。
何となれば謙(へり)遜(くだ)る人は現世(このよ)では既(すで)に天主の御祝福を受けて、心の平安と楽しさを味(あじ)わい、來(のちの)世(よ)では天国の福(ふく)楽(らく)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いないからである。
祈 願
あゝ謙遜(けんそん)の模範(もはん)なる御母(おんはは)聖マリアよ、子たる我等にも御身の御謙遜(ごけんそん)を伝え給え。謙遜(けんそん)は御身にあやかる最(もっと)も近き道なれば、天主が御身の謙遜(けんそん)をみそなはして御独子(おんひとりご)の御(み)母(はは)たる高き御位(みくらい)を与え給いし如く、我等の賤(いや)しきを顧(かえり)み給いて、それに相応(ふさわ)しき徳を恵み給うよう、御伝達(おんとりつぎ)の程を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
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