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【参考情報】この第二バチカン公会議に関する学位論文が、聖ピオ十世会の司教の破門を撤回するローマの決定に影響を及ぼした

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【参考情報】この第二バチカン公会議に関する学位論文が、聖ピオ十世会の司教の破門を撤回するローマの決定に影響を及ぼした

This dissertation on Vatican II influenced Rome’s decision to lift the excommunications of the SSPX bishops

LifeSiteNewsの調べによると、この学位論文は時宜を得て、バチカンが2009年1月に、1988年に聖別された聖ピオ十世会(SSPX)の4人の司教の破門を撤回する決定に、肯定的な影響を与えたとの情報を得た。マイケ・ヒクソン

2022年2月18日

(LifeSiteNews)ローマには、まだ語られていないものの、私たちが注目すべき物語が眠っています。2006年、バチカンの外交団の一員だったモンシニョール・フロリアン・コルフハウス(Florian Kolfhaus)は、第二バチカン公会議とその教導権の重要性について、教理神学の博士論文を執筆しました。LifeSiteNewsの調べによると、この学位論文は時宜を得て、バチカンが2009年1月に、1988年に聖別された聖ピオ十世会(SSPX)の4人の司教の破門を解除する決定に、肯定的な影響を及ぼしたことが分かりました。その理由は、コルフハウスが、公会議のテキストのほとんどは教理的な性格ではなく、司牧的な性格を持つという結論に至ったからです。この結論に基づき、バチカンは、公会議の声明のいくつかはカトリック教徒の良心を拘束しないため、善きカトリック教徒でありながら同時にそれらを批判することが可能である、と理解したのです。

聖ピオ十世会との交渉に携わった教皇庁エクレジア・デイ委員会の元次官、グイド・ポッツォ大司教も、まったく同じ結論に達しています。大司教は2016年のインタビューで、宗教間対話に関する「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate)、エキュメニズムに関する「ウニターティス・レディンテグラーティオ」(Unitatis Redintegratio)、宗教の自由に関する「ディニターティス・フマネ」(Dignitatis Humanae)などの公会議文書は、教理的な文書ではないため批判することができる、と述べています。「これらは、教理でも決定的な声明でもなく、むしろ司牧的な実践のための指示や方向づけの指針です。(聖ピオ十世会の)教会法上の認可の後も、さらなる明確化に到達するために、これらの司牧的な面について議論を続けることができます」。大司教が説明したように、公会議が信仰と道徳について義務付ける形で教えていると明示したテキストだけが教理となるものなのです。

この三つの公文書は、モンシニョール・コルフハウスが博士論文で特に調べたものであり、バチカンの聖ピオ十世会に関する委員会の一部のメンバーが、彼の研究を利用したのは、道理にかなっています。公会議に対する立場を変えるよう求めることなく、聖ピオ十世会を完全にカトリックの会として認める方法を見つけるという問題に取り組んでいたバチカン当局者たちは、モンシニョール・コルフハウスの研究において、公会議の起草委員会のメンバーが公会議の教父にテキストを提出する際に行ったさまざまな宣言の中に、明確な証拠を見いだしたのです。例えば、彼らは現代的な言葉を使い、もっぱら司牧的な目標を示し、世俗社会や非カトリックの宗教的共同体への積極的なアプローチを提示しました。

コルフハウスは公会議の決議や議定書を引用しており、そこでなされた公式声明は、いかなる文書も、常に教えられてきた天主の信仰の真理を変えるものではなく、またこれらの問題について特定の規律を命ずることを義務付ける規範はない、としています。カトリック教徒は、主日に聖なるミサに出席するのを義務付けられていますが、エキュメニカル活動に参加することを義務付けられてはいません。三つの公会議文書(ノストラ・エターテ、ウニターティス・レディングラーティオ、ディニターティス・フマネ)で述べられていることを受け入れないことは、不従順とみなされる理由にはなりませんし、異端とみなされることもありません。したがって、第二バチカン公会議を理由に、聖ピオ十世会が要求されることは何もありません。

モンシニョール・コルフハウスの研究を詳しく見る前に、重要なことは、ポッツォ大司教とモンシニョール・コルフハウスが、ローマのグレゴリアン大学で博士論文の指導を受けたのが、同じ今は亡きカール・J・ベッカー枢機卿(イエズス会)で、枢機卿自身、ポッツォと共に聖ピオ十世会との交渉に直接関わっていたことです。つまり、ベッカー枢機卿が聖ピオ十世会と話をする際に、教え子の一人であるコルフハウスの研究を考慮に入れたであろうことは明らかです。ポッツォ大司教についても同じことが言えます[1]。2015年に亡くなったベッカー枢機卿は、1977年から教理省の顧問を務め、聖ピオ十世会に関してはラッツィンガー枢機卿と緊密に連携していました。ベッカー枢機卿は、公会議の教えを保守的に解釈しようとし、たとえば「subsistit in」(~に存する)の議論に関してもそうであり、何人かの教え子たちに同じことをするように勧めていました。

さて、ここでモンシニョール・コルフハウスの研究に戻りましょう。

彼の学位論文のタイトルは、「Pastorale Lehrverkündigung - Grundmotiv des Zweiten Vatikanischen Konzils: Untersuchungen z Unitatis Redintegratio, Dignitatis Humanae und Nostra Aetate」[2](司牧的教導権―第二バチカン公会議の基本的な意向。ウニターティス・レディングラーティオ、ディニターティス・フマネ、ノストラ・エターテの検討)です。

コルフハウスがこのテーマに関する小論[3]で述べているように、全世界の司教たちの集まり【第二バチカン公会議】は、明示的に教義的な文書を発表することを望みませんでした

「第二バチカン公会議の特別な『司牧的性格』は公会議の間にのみ発展し、公会議の教父たちにとっても新奇なものを提示した」とコルフハウスは書き、こう付け加えています。「この新しい『スタイル』は、まず、テキストを分かりやすい言葉で書き、聖書的に論じるという願望で明らかである。まず、神学部の神学を望まず、その少し後には、教導権による定義づけを望まなかったのである」[4]。

これには次のように述べることができます。「聖書的」に語るとき、その「聖書的」な言葉をどのように適用し、解釈する必要があるのかについて、権威ある指針が必要になります。それがあったならば、これほど多くのプロテスタントの教派はなかったはずです。彼らは、「聖書のみ」(sola scriptura)の原則に基づき、どのような教えを持つべきかについて、本当にさまざまな結論を出しているのですから。

コルフハウスは続けます。

「第二バチカン公会議の諸文書は、信仰の教理や教会法の条項を定めたものではなく、教会生活のための実践的な指針を定めたものであることは否定できない。この目的のために、公会議がそのようにするとき、すなわち(厳密な意味で)教えなかったり、あるいは真理を設定する前提で決定を行うのではなかったりするとき、その目的が何を意味するかを問わなければならない」[5]。

ここで、モンシニョール・コルフハウスは実際に、公会議の傷の中に指を入れています。つまり彼は、公会議の弱点を、すなわち、その曖昧さや誤った解釈のしやすさを指摘しているのです。第二バチカン公会議が、教令、憲章、宣言という3種類の文書を発表したことも、この混乱感を増大させています。これと異なり、以前の公会議は、これらの種類の文書のうち1種類を発表しただけでした。コルフハウスが指摘するように、トリエント公会議は教令を発表しただけでした。

また、コルフハウスは権威ある意見として、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の言葉を引用しています。ラッツィンガーは1988年7月13日、チリの司教たちに対する演説で、「公会議自体は教義を定義せず、意識して自らを低いランクにある純粋な司牧的公会議として示そうとしました」と述べているのです。ところが、このまさに「司牧的公会議」――ラッツィンガーによれば――は、「あたかも他のすべての意味を奪ってしまう、ほとんどスーパー教義であるかのように」解釈されているのです。

コルフハウスが発見したように、この重要な演説は、ラッツィンガーの公会議に関する「全集」(Opera omnia)に含まれていません[6]。彼は読者に、元教理省長官のこのテキストを「再発見」するように勧めています。

1988年にラッツィンガーが発言したことに即して、コルフハウスはこう述べています。

実際、公会議自身、1964年11月16日の第123回総会における事務局長の発表で、啓示された教理(「de rebus fidei et morum」[信仰と道徳に関する事柄])の定義(「tenenda definit」[確定的に保持すべきもの])は、それが言明されたときにのみ存在する、と述べている。このことは、公会議のテキストでは決して行われなかった。このように、公会議は、それ以前の教会の教導権を頼みとするのを除けば、いかなる新しい教義も、いかなる不可謬の教理も、宣言しようとは望まなかったのである[7]。

さらに著者は自分の立場を説明して、当時の人々に語りかけて当時の問題を解決するのを意図して望んだ公会議を、あたかも全時代に適用できる不可謬の教理を教えるものであるかのように扱うのは不当である、と解説しています。

しかし、モンシニョール・コルフハウスは、公会議が明示的に述べてはいないものの、権威を持つように発言をしたことがあることを、次のように示しています。

「公会議は、上に示されたように、教義的に定義することを望まなかったが、時には「res fidei et morum」[信仰と道徳に関すること](例えば、司教の聖別の秘跡的性格)についての非常によくできた声明を出した」。

彼はまた、公会議のテキストの中には、それ自身のためではなく、司牧上の指針や声明を説明するための教えの要素が見られる、と付け加えています。

コルフハウスが評価しようとするのは、この唯一無二の性格です。彼はこう続けます。

特定の実践の根拠を示すことは、司牧的な教えであり、教理上の論争を解決しようとする教義的な教えではない。過去において、「教え」は常に「教理上の論争を決定するための教え」として理解されてきた。第二バチカン公会議については、そのテキストの多く――すなわち、教令と宣言――において、これは当てはまらない。ここでは、神学がまだ概念化していない新しい形の「教理的宣告」が用いられている[8]。

モンシニョール・コルフハウスは、例として、宗教間対話に関する宣言(ノストラ・エターテ)を引用し、この宣言について、1964年11月18日にキリスト教一致推進事務局の議長は、こう述べています。

「この宣言の目的に関する限り、事務局はキリスト教以外の宗教について教義的な宣言をする意向はなく、むしろ実践的で司牧的な規範を提示する意向がある」。

エキュメニズムに関する教令(ウニターティス・レディングラーティオ)に関して言えば、コルフハウスは、「それゆえ公会議の教父たちは、この司牧的実践が、非常にさまざまな形態をとり得るし、また成功させるためには、そうでなければならないということを認識していたため、エキュメニカルな対話の定義を宣告することを望まなかった」[9]と説明しています。

コルフハウスが論文の中で特に取り上げた第三の公会議文書、すなわち信教の自由に関する宣言(ディニターティス・フマネ)に関して、著者は読者に対して、この文書が「これらの(教理上の)疑問に答えようと望んでいるのではなく、1965年9月21日にデ・スメドが明確に述べたように、『教会の通常教導権に』」委ねることを望んでいる、と思い起こさせています。

コルフハウスが提示した、公会議の特別な報告者であるエミール=ジョゼフ・デ・スメト司教の引用から明らかなように、多くの公会議の教父は、教会の教えを変更する意向は全くなかったのです。この文脈において、彼自身は、このような奇妙な種類の教会の教えを表現する新しい用語をつくることを提案しています。つまり、教義上の論争を解決し、義務付ける真理を提示することを目的とする「munus determinandi」(決定する務め)とは異なる、司牧的な目的を持つ教会の教える活動を「munus praedicandi」(説教する務め)と呼ぶ、ということです。

しかし、モンシニョール・コルフハウスは、司牧の実践が信仰の教理にとって危険なものとなり、それを損なうことさえあり得ることを指摘するのも忘れていません。彼は、こう述べています。「『新しい司牧的な現実』と共に『新しい』教理も発展していくであろう。これはまさに今日、多くの小教区や教会共同体において私たちが経験していることである」[10]。

コルフハウスは、司牧的な実践が事実上、教理に反するようになる危険性に加えて、公会議がその本質において教会生活の司牧的な面に焦点を当てていたため、司牧的な指針の一部がもはや現代に適応できないゆえに、もやは時代遅れで廃れていることも解説しています。

彼はこう書いています。

私の考えでは、たとえ挑発的かつ大げさに定式化したとしても、(ハインリッヒ・)ペッシュと共に、公会議のいくつかの声明は「暫定的で時代遅れ」であると言うのが公平である。その時代の差し迫った問題に対する実践的な答えは、変化する宗教的、社会的、文化的状況を正しく反映させるために、常に暫定的でありうるし、実際暫定的でなければならない[11]。

また、モンシニョール・コルフハウスの見解について言えることは、専門家に対して、公会議の議論そのものや、このイベントに参加した司教たちの声明に立ち返って研究するように促していることです。彼が紹介するいくつかの引用を読むと、驚かされます。例えば、公会議の教父たちは「extra ecclesiam nulla salus」(教会の外に救いなし)の教義を主張していました。公会議の報告者の一人であるデ・スメト司教は、信教の自由に関する宣言は、すべての人間がカトリック教会を救いの箱船として、探し見いだす必要性を決して弱めるものではない、と説明しました。

コルフハウスは、次のデ・スメトの言葉を引用しています。

道徳的秩序において、すべての人々、すべての社会、すべての世俗の権威は、客観的にも主観的にも真理を求めることを義務づけられており、偽りを擁護することを許されていないということは確実である。教会の教えと掟を認めるという、教会に対するすべての人々の道徳的義務が存在する。いかなる人間の権威も、福音と真の教会を認めるか拒否するかという客観的な道徳的選択の自由を有していない[12]。

これらの言葉は、公会議の諸決議の中に見いだすことができます。コルフハウスは、「mens synodalis」(会議の心)を、つまり、公会議の教父たちの大多数が持っていた、教導権に忠実に留まろうとしていた意向を良く知るために、公会議の公式の議事録を読んで研究するよう促しています。

著者はまた、私たちが公会議のもう一つの重要な面を理解するのを助けてくれます。彼が示すように、公会議の意向は、公会議中に発展した言い方によれば、教理的にではなく単に司牧的に語ることでした。準備草案(schema)は公会議の伝統的な意向、すなわち教理を教えるために書かれていましたが、公会議の議論は公会議を、現代人がこの時代の課題に対応するのを助けることを目的とした司牧的なイベントにどんどん変えていったのです[13]。

公会議の教父たちは、そのほとんどが正統的な意向をもって公会議に出席していたのですが、その議論が、難しい教理を教えるという責任に近づくことなく、単に司牧的なレベルで行われることになるのを見て、そのとき気を緩めたのかもしれません。つまり、公会議での論調の変化により、多くの公会議の教父は、自分たちが司牧的な用語で話しているだけだと思ったため、教理や教理上の逸脱に注意を払わなくなったかもしれないのです。(公会議中の進歩主義陣営の行動に関する歴史的な概観は、こちらをお読みください)。

このように冷静で根拠のある言葉、明快な論旨からわかるように、モンシニョール・コルフハウスは、公会議の性質とその影響に関する、カトリック教会とその判断力についての議論に大きな貢献をしたのです。彼は、聖ピオ十世会との和解と、公会議の教理的な重みをもっと緩和させて評価することを求めるローマ教皇庁内の正統派の人々を支援できただけでなく、現在は、もっと多くのカトリック教徒の読者が、この公会議の性格とその余波を判断するのを助けることができるようになったのです。

参考資料

1 ベッカー枢機卿は、教え子の一人であるアレクサンドラ・フォン・トイフェンバッハにも「Subsistit in」の議論(つまり「キリストの教会がカトリック教会"に存する"」【ピオ十二世の回勅にある「キリストの教会はカトリック教会"である"」という同一性を暗黙のうちに否定する表現】)を研究させ、この用語の考案者のセバスチャン・トロンプ神父(イエズス会)が、この用語によって正統な意向を持ち、実際にはカトリック教会がキリストの教会であるという概念を強化しようとしたことを示しているのは興味深い点である。アレクサンドラ・フォン・トイフェンバッハ「Die Bedeutung des subsistit in (LG8). Zum Selbstverständnis der katholischen Kirche」((ルーメン・ジェンティウム8条)のsubsistit inの意味。カトリック教会の自己理解について)(ミュンヘン、ヘルベルト・ウッツ出版社、2002年)。英語での論考はこちらで読むことができる。カリム・シェルケンス「Lumen Gentium's 'Subsistit in' revisited: the Catholic Church and Christian Unity after Vatican II」(「教会憲章」の「Subsistit in」再考。第二バチカン公会議後のカトリック教会とキリスト教の一致)、Theological Studies 69 (2008年) 875-893、 https://cdn.theologicalstudies.net/69/69.4/69.4.6.pdf.。ただし筆者はフォン・テュッフェンバッハの――そしてベッカー枢機卿の――この議論のより保守的な解釈には同意しない。

2 リット出版社、2011年。この学位論文は現在入手可能であるが、グレゴリアン大学自身がその出版や宣伝すらしなかったことは、そのことを物語っている。モンシニョール・コルフハウスが2010年にローマで行った講演(https://www.youtube.com/watch?v=VcQCp_E0gGw&t=1282s)で語っているように、彼は、グレゴリアン大学では博士論文で困難に遭遇しており、ある時期には完全に却下されそうであった。しかし、教皇ベネディクト十六世の教皇職に就いたことと、教皇が「連続性の解釈法」の概念を推進することに照らして、彼の研究を却下することはできなくなった。モンシニョール・コルフハウスが、セラフィノ・M・ランツェッタ神父の指導のもと、無原罪の聖母のフランシスコ会の会議で行ったイタリア語による講演が、YouTubeでいくつか閲覧できる。また、2010年にローマで行われたコルフハウスの講演の聴衆の中に、アタナシウス・シュナイダー司教の姿が見られることも特筆される。

3 モンシニョール・フロリアン・コルフハウス「Reform in Kontinuität(「連続性における改革」)、Anmerkungen zum Konzilsjubiläum(公会議50周年に関するメモ)」、Neue Ordnung、2013年、4-12。この小論はコルフハウスの博士論文のための研究を見事に凝縮しているため、引用させていただいた。
4 同上、4-5。
5 同上、6。
6 ヨゼフ・ラッツィンガー「Zur Lehre des Zweiten Vatikanischen Konzils)。Formulierung - Vermittlung - Deutung in Joseph Ratzinger, Gesammelte Schriften」(第二バチカン公会議の教えについて。ヨゼフ・ラッツィンガー著作集における定式化―調停―解釈)(フライブルク、ヘルダー)、第7/1巻および第7/2巻。
7 コルフハウス「Reform in Fontinuität」(連続性における改革)6。
8 コルフハウス、7。
9, 同上、8。
10 同上、10。
11 同上。
13 同上、9。ここでは、一部のユダヤ人や共産主義者の代表と事前の秘密交渉があり、その後、ユダヤ人や共産主義者の政治的・文化的行動に関する問題を扱わないことが決定されたという事実についての考察は割愛させていただく。この話題は、ロバート・ヒクソンの小論「Hilaire Belloc's 'The Barbarians' (1912) and the Analogy of a Self-Sabotaging Cultural Immune System」(ヒレア・ベロックの『The Barbarians』(1912年)と自己破壊的文化的免疫システムの類推)で取り上げられている。

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