デモス覚書:枢機卿会のフランシスコ疲れ(モンシニョール・ニコラ・ブックスとのインタビュー)
THE DEMOS MEMO: Francis Fatigue in the College of Cardinals (An Interview with Msgr. Nicola Bux)
2022年4月13日 ダイアン・モンターニャ
レムナント編集長のまえがき
聖職者による大規模な性的虐待スキャンダルや典礼の混乱の広がりなど、カトリック教会の危機は何年も前から深刻化していますが、影響力を持つ少なからぬ枢機卿たちが、ついに傷口から出血を止めるための措置を講じたように思われます。
ジョージ・ペル枢機卿、レイモンド・バーク枢機卿らによる何回かの介入に加え、CNA(カトリック・ニュース・エージェンシー)は、2022年4月12日、世界中の70人以上の司教が、ドイツの司教たちに対して、そして間接的には世界の全司教に対して、「シノドスの道」は「離教につながる」危険があると警告する「兄弟としての公開書簡」を発表したと報じています。
聖霊と福音に耳を傾けようとしない「シノドスの道」の行動は、教皇フランシスコの信頼性を含む教会当局の信頼性や、キリスト教人間学と性道徳、そして聖書の信憑性を損ねている。
このことは、ここ数週間、枢機卿会の中で回覧されている謎の覚書をきっかけに始まり、バチカン内部でフランシスコに対する不満が広がっていることを示唆しています。覚書の作者は、教皇フランシスコの教皇職は「多くの点、あるいはほとんどの点で災難、大災害」であると主張しています。
この覚書を書いた責任者は誰なのでしょうか? 著名なバチカン・ジャーナリストであるサンドロ・マジステルは、こう説明しています。
「四旬節の初めから、将来の教皇を選出する枢機卿たちがこの覚書を回し読みしていた。ギリシャ語で「民」を意味するデモスという名を持つこの覚書の作者は不明だが、このテーマに精通していることが分かる。作者自身が枢機卿である可能性も否定できない。」
また、ドイツの司教団を指し示しながら、教皇フランシスコの下での教会の全体的な問題点の(A)として提示しつつ、「デモス」は、人間の性の問題に関して教会が不可逆的に定義した教えを十分に損なう可能性がある「シノドスの異端」の到来を警告しています。
「もしこのような異端をローマが正さなければ、教会は、正教会のモデルではなく、おそらく英国国教会やプロテスタントのモデルに近い、さまざまな見解を持つ地方教会の緩やかな連合体にまで貶められるであろう」。
「デモス」は、重大な懸念事項のリストから教皇フランシスコを除外していないため、多くの人が今、次の疑問を抱いています。デモスとは何者か、彼の覚書は枢機卿会の内部でどれほど真剣に受け止められているのか、そしてこのことは次のコンクラーベのいかなる前兆なのか?
このように話が急速に進展しているため、私たちは、謎の「デモス覚書」の問題について、モンシニョール・ニコラ・ブックス(Nicola Bux: 1947年生まれ、イタリア人司祭)に相談しました。「レムナント」の読者なら、モンシニョール・ブックスの仕事をよくご存じでしょう。彼は、教皇ベネディクト十六世の下での教理省をはじめ、長年にわたって聖座のいくつかの部署の顧問を務めてきた高名な神学者です。マイケル・J・マット
モンシニョール・ニコラ・ブックスとのインタビュー
【問い(ダイアン・モンターニャ)】「デモス」の意見は、バチカンの人々の意見をどのように代表しているのでしょうか?
【モンシニョール・ブックス】案内係から役人、当局者に至るまで、さまざまなレベルで調査してみないと分からないでしょう。この覚書は後者(当局)のレベルから来たものかもしれません。不満は広がっていますが、表面に出ずに現教皇職の終わりをただひたすらに待っている地下があることは明らかです。
教皇は、正教会の総主教キリールに、私たちは政治の言葉ではなく、イエズスの言葉を話さなければならない、と言われました。その通りです! しかし、この言葉も政治的な言い方のように思えます。なぜなら教皇は、別の場で、罪のない人々がなぜ苦しむのか分からないと言われたのですから。このことが意味するのは、キリストがなぜ十字架上で亡くなられたのか分からないということです。
バチカンのほとんどの専門家にとって、フランシスコの教皇職の貸借対照表(バランスシート)は、信仰の教理から道徳まで、先任者たちと比べても赤字であることを示しています。財政面については言うまでもありません。この教皇職は、西洋の世俗化を悪化させることに貢献しました。なぜなら、この教皇が社会的、政治的に介入し、アイデンティティーのない霊性を支持したからです。そこで、ペトロの聖務とは何か、という疑問が生じます。
私たちは、ピオ九世の時代から起こってきているように、そして今メディアで起こっているように、神学的に教皇を大きく見せる"感情的な教皇崇拝"を目撃しているのです。中世の人々は、教会と教会人を区別するように、教皇の役割とそれを体現する人間を区別し、人間的かつ地上のものと神聖なものとを区別しました。だからこそ、ダンテは教皇を地獄に落とすこともできたのです。ですから、当初はベルゴリオ派であった多くの人々が、現在の教皇職から距離を置き、この教皇職を混沌とした専制的なものとみなしています。
穏健派は落ち着きがありません。解決策を考え、シノドスの教会を提唱する者がいれば、移行期の教皇を提唱する者もいます。一方、ある時はマルクスが、またある時はミュラー、オロリッシュ、そして幸いなことにペルが介入してきます。枢機卿だけでやめておきましょう。しかし、ラダリアもフランシスコも誰が正しいとは言っていません。次に司教、司祭、信者、そして信者でない神学者に話を移すなら、スコティッシュ・シャワー(非常に温かい水と非常に冷たい水を素早く切り替えるという意味のフランス語起源の表現)のようなものです。バチカンでは、ラテンアメリカのカトリック信者の背教を十分に認識しています。信者が52%まで低下して、セクトが25%に増えているのです。
1月13日のウォール・ストリート・ジャーナルは、(教会がラテンアメリカを失っているため)「カトリック教会は貧しい人々を選び、貧しい人々はペンテコステ派を選んだ(The Catholic Church has opted for the poor and the poor have opted for the Pentecostals)」という見出しを掲げました。これはパウロ六世が語った自己解体過程への多大なる貢献です。教会は、社会的、経済的、心理的、さらには環境的な問題を解決するための機関へと変貌し、霊魂を救うという使命を放棄してしまったのです。アマゾン・シノドスでは、この地域の再福音化ではなく環境について、主との個人的な出会いを育むことではなく政治や社会問題について語られました。要するに、信者がもっと宗教的なものを求めている一方で、司教たちは社会主義を提供しているのです。
【問い】この覚書が、次期教皇の選択に影響を与える可能性はどの程度あるでしょうか?
【モンシニョール・ブックス】この覚書は冒頭で、ペトロの聖務の顕著な特徴を指摘しているように私には思えます。このペトロの聖務の特徴は、どのコンクラーベでも【次期教皇】選択の基準となるべきものです。そこでは、教皇は、イデオロギー信奉者や政治家としてではなく、司牧者、教師として見られています。このように、教皇が持っている教会との関係は、絶対君主として教会と関係するではなく、教会の一員でありかつしもべという関係なのです。
近代主義者や進歩主義者が反ローマの態度をとって、ベネディクト十六世までは「教皇崇拝」(papolatry)--- マルティニ【枢機卿】の表現 --- だと批判していたにもかかわらず、同じ彼らが「教皇崇拝」を前にして沈黙しているのは驚くべきことです。すべてのキリスト信者がそうであるように、教皇は、啓示された天主の法に従い、しかもその前に、自然法に従い、次に教会法に従うべきものです。教会法は、教会の本質的な教理および憲章に関して教皇を拘束しています。教会は、司教会議制ではなく位階階級制です。この覚書はこのことを思い出させているように思えます。
このような制約の中で、ペトロの聖務は、破壊するのではなく、立てるために役立てられなければなりません(コリント後書13章10節参照)。これは、法を作り、正義を執行するために重要なことです。必死になって自発教令で、カテキズムの条項を修正し、教会高等裁判所への上訴を無にすることは、誰にもできません。第三者によって獲得された権利があり、教皇はこれを侵害することができません。教皇は法の最高守護者ですから、濫用を許すことも、濫用を犯すことさえもできません。パウロから見たペトロのように、教皇は自分が兄弟として正されることを許さなければなりません。そうでなければ、誰も教皇に従うことはできません。なぜなら、良心が第一に来るからです。つまり、カテキズムに引用されている聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉によれば、良心が第一の「キリストの代理者」であるからです。
また、この覚書は、エキュメニカルな意味で影響力を持っていると考えることもできると私は思います。私の意見によれば、これまで特に東方で反ローマ感情を助長してきた教皇の権威濫用を糾弾している限りにおいて、そうでしょう。この教皇職のもとで、あたかも教皇がイスラムの法学者であるかのように司教の解任が増加しているのは、職権の濫用ですし、病的な兆候があります。フランシスコは「彼らは私が死ぬのを望んだ」とまで言っていますが、おそらく、自分の選出に影響を与えるために行われたことが、自分に対抗してまた同じことが繰り返されることを恐れているのでしょう。しかし、教皇の権限の限界は、同じくこれも天主が打ち立てた聖務である司教らの権威によっても支配されています。このことを心に留めておいて、次のコンクラーベの総会で議論すべきことです。
【問い】次のコンクラーベで優先事項とすべきことは何だと思われますか?
【モンシニョール・ブックス】権威ある平信徒と教会関係者の意見では、次のコンクラーベでは、教皇の使徒的使命、義務、そして「一般的な教会のよき状態」(status generalis ecclesiae)を維持する義務を自覚している教皇を選出すべきです。カトリックの信仰を推進し、教会に浸透した世俗化によって引き起こされた西洋における司祭と信者の減少に歯止めをかける教皇を選出すること――シャルル・ペギーは、この脱キリスト教化の責任は聖職者にあるとしております。脱キリスト教化の考えによると、社会が成立する主な価値は宗教的な価値観ではとされ、もし宗教的な価値観であるならば、「世俗的な」あるいは合理的な方法で、その価値観が正当化されなければならない、とされます。
その結果生じたのが、宗教的な意味合いを排除した「政治的に正しい」(politically correct)言葉づかいであり、限界[分際]の感覚の喪失(たとえば妊娠中絶、いわゆる同性"婚"、ジェンダー、安楽死、などの場合が典型的です)、聖なるものの喪失、宗教的信仰が「人道的」宗教に変えられること、福音が道徳の教えに成り下がり、説教が政治集会に変えられてしまうことです。したがって、コンクラーベの優先事項は、カトリックの教皇を選出することです。そうでなければ、信仰の喪失は、キリスト教が世俗化する結果をもたらすだけでなく、その原因ともなり、結局はキリスト教が無意味なものと化してしまうでしょう。
次のコンクラーベでは、「司牧的」とはどういう意味なのかを明確にしなければなりません。今のところ誰もそれを知りませんし、教会ですべてを正当化するためのマスターキー(passe-par-tout)として使われています。今や、価値の下げられた使命を教会の中心に戻し、エキュメニズムや宗教間対話の限界を明確にしなければならない時が来ました。近代主義者や進歩主義者でさえ、このことに気づいています。
世俗化に対しては、福音化をもって戦わなければなりません。聖職者主義との戦いとは、聖職者のアイデンティティーを転覆させることであってはなりません。聖職者とは、信者や修道者とは区別される「秩序」なのですから。次期教皇は、キリスト信者の家庭と司祭・修道者の召命が花開くように、信仰を養い育てることを、自らの最優先の課題としなければなりません。家庭道徳の問題について不可謬的に決定する教導権に戻ることが必要です。この立ち戻りは、使徒継承の聖伝を受け入れる司教を任命することで為されるべきです。そうするならば、世俗主義的なメディアによる「迫害」が強まるとしても、現在は潜在化している離教の危機はおそらく弱まるでしょう。
私たちは、カトリックの教え(カトリシズム)に注意を払う教皇職によって、教会の生ける力を解放する必要があります。カトリックの教え(カトリシズム)は、教会を敬虔な信者で満たし、公共の場を信仰と生き方の証人で満たし、改宗者を生み出して「効果がある」ことを証明するでしょう。
カトリック教会は、道徳的、教理的、典礼的に、カトリックの教えを言い・実行する教皇を持たなければなりません。「教皇はカトリックなのか?」というタイム誌の表紙を思い出してください。カトリック教会に、カトリックの教皇を迎える権利があるのは不思議でしょうか? 正教会もそのような教皇を望んでいます。そうでなければ、正教会の中にある遠心力の傾向が支配的になってしまうのです。カトリックの教皇は、粉々になったプロテスタントの世界を一致に戻し、探し求めている多くの平信徒を信仰に戻すために必要であるだけでなく、ユダヤ教徒、イスラム教徒、他の宗教の信者に、それを確信させるためにも必要なのです。何故なら、彼らは、善と悪の境界がなくなってはいないことを指摘する道徳的権威者として教皇を見ているからです。
新しい教皇は、旧世界秩序の死から出現しつつある、新世界秩序に立ち向かうことができなければなりません。しかも、その役割は、西洋と西洋資本主義システムにとってはさらに小さな役割となるでしょう。
新しい教皇は、フランシスコとは違っていなければなりません。フランシスコはイデオロギーとユートピアとの間で、それとの混乱し矛盾した関係を持っていました。教会内の混乱に終止符を打つために、次のコンクラーベは、以下のような候補者を探さなければなりません。つまり、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris laetitia)関する「ドゥビア(疑問提起)」(Dubia)に応える候補者、使徒的勧告「エヴァンジェリイ・ガウディウム」(Evangelii gaudium)では、最悪の社会悪は不平等すなわち富の悪しき分配だとし、最大の悪とは罪であるとは言わないので、これを正す候補者。過去50年間のすべての問題の起源である新マルサス環境主義を称揚している回勅「ラウダート・シ」(Laudato si)を正す候補者。資本主義は終わったと宣言し、次に生き残る方法を提案し、魔法の言葉「包括性」(inclusion)と「持続可能性」(sustainability)で自分をカモフラージュしている回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)を正す候補者です。とりわけ、この回勅「フラテッリ・トゥッティ」(すべての兄弟)は、次のことを言いそびれています。天にましますわれらの父を認めなければ、われらは自分自身を兄弟と見なすことはできない、と。イエズスはそのことを言われました。