【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」
Reform or Overture to Liturgical Revolution: Abp. Viganò on the Holy Week Ceremonies
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年5月10日
【編集長ブライアン・M・マッコールによる解説】聖伝のミサを捧げているある司祭の要請により、メディア・プレス(Media-Presse)は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教に、ピオ十二世の教皇在位期間の最後の数年間に行われた聖週間の典礼の改変についてコメントを求めました。大司教のフランス語の回答はこちらでお読みいただけます。全体として、大司教の結論は、第二バチカン公会議開催前に在位した最後の教皇が公布した変更について、バランスのとれた評価を示しています。一方で、無数の変更について「公会議の後の改革の立役者たちが、一連の修正全体を導入した観測気球」と指摘しています。他方では、聖週間の改正の時点では、典礼革命の「mens」(心、メンタリティー)がまだ完全には見えていなかったことを指摘しています。したがって、1962年以降に起こった改変は、そのとき以前に起こった改変と比べて区別されるということを大司教は指摘しています。聖週間の変更は、ノブス・オルド・ミサ(Novus Ordo Missae)と同じ方法で、あるいは同じ程度にまで、信仰に手を付けてはいないのです。たとえ、非常に「奇抜」(bizarre)なものがあったり、この新しいミサと「同じ空気を吸っている」点があったりしても、です。
大司教は、変更を公布した教皇ピオ十二世と、それを正当なものとして受け入れたマルセル・ルフェーブル大司教を非難することを明確に拒否しています。彼は、ピオ十二世が、回勅「メディアトール・デイ」(Mediator Dei)で自らが断罪した現代典礼学のいくつかの誤った傾向と微妙に関連しているいくつかの変更を公布した、という異常さを指摘しています。
最後に、ヴィガノ大司教は、ピオ十二世が公布した「聖週間」の正当性の問題は、ノブス・オルド自体の正当性よりもはるかに複雑な典礼的かつ法的な問題であることを明らかにしています。大司教は、ノブス・オルド【新しいミサ】を明確に非難し、「重大な欠落があり、確実に『異端を助長する』(favens haeresim)…」と断定しています。彼は、再び「オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿とマルセル・ルフェーブル大司教の(新しい典礼の)非難に」加わります。
しかし、聖週間に関しては、教皇ベネディクト十六世と元エクレシア・デイ委員会の方針に基づいて、聖伝の司祭たちがピオ十二世より前の聖週間の典礼を利用できるような試験的期間を(置くのを)支持しているように思えます。彼は、教会がこの危機を脱し、これらの変更の在り方についてより客観的に判断できるようになる日を心待ちにしているのです。――編集長ブライアン・M・マッコール
【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」
2022年5月6日
親愛なる□□様
聖週間の改革について、○○神父様の質問を私に送っていただき、ありがとうございます。
私は彼に同意します。つまり、この改革は事実上、一種の観測気球とみなすことができ、これを使って公会議の後の改革を設計した立役者たちが、当時まで存在していた「聖週間の式次第」(Ordo Majoris Hebdomadæ)に一連の変更の全て(これは、私の意見では、全く疑わしく、でたらめなものです)を導入したのです。
この修正は、奇抜(bizarre)ではあるものの、ほとんど無害に見えたのかもしれません。なぜなら、ヨハネ二十三世の改革も、公会議の典礼憲章「サクロサンクトゥム コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)によって開始され、同憲章実行委員会「コンシリウム・アド・エクセクエンダム」(Consilium ad exsequendam)によってさらに悪化した改革も、それらを生んだ「心」(mens)はまだ明らかではなかったからです。しかし、1956年の教区司祭にとっては、聖週間の複雑な典礼を現代のリズムに適合させるという緊急の要件によって影響を受けた簡略化のように見えたかもしれないこと、そして、おそらくピオ十二世自身に対してもそのように提示されて、その爆弾のような重要性は隠されたままだろうことは、私たちの目には全く別の意味を持つようになっています。
なぜなら、私たちは、特にこの改革において、[典礼を]貶めてもそれで満足することを知らない近代主義者らや典礼刷新(renouveau liturgique)の弟子たちが持つ、"複雑なものを取り除いてしまおうとするメンタリティー"が働いているのを見ているからです。さらに、儀式を簡素化するとされた決定の中に、ノブス・オルドの最も大胆な革新と同じイデオロギー的なアプローチを認めるからです。最後に、この改革に現れる人々の中には、公会議後の改革の主人公たちが連なっているからです。彼らは正に礼拝の荘厳さ対して悪名高いほどの嫌悪感を抱いていたが故に、極めて高い地位に昇進した人々でした。1951年から1955年の間に彼らが始めたことが、20年もたたないうちにその到達点に達した大激変への第一歩となるように構想されていなかったなどとは、考えるのは困難です。
もちろん、ピオ十二世の典礼のある部分で呼吸する空気は(例えば、私は司式司祭と信者が唱える「主祷文」(Pater Noster)のことを考えています)、ノブス・オルドで見られる空気と同じものです。つまり、異質で不自然な「何か」を感じ取るのです。それは、主の霊感を受けていない作品に典型的なものです。言い換えると、明らかに人間的な作品、また真に典礼的なものは何もなくピオ十二世が不滅の回勅「メディアトール・デイ」(Mediator Dei)で正しくも断罪したグノーシス的な厚かましさの持つ悪臭が漂う合理主義に染まった作品に典型的なものです。
1947年に御摂理的に断罪されたこれらの同じ誤謬が、ピオ十二世自身が公布した改革そのものにおいて再び表に出てくることに成功したことは驚くべきことです。しかし、教皇が高齢で、そのころの世界的な紛争によって肉体的にも精神的にもまったく疲れ果てていたことを忘れてはなりません。ピオ十二世を聖伝の破壊者のリストに加えることは、不当なことであると同時に狭量なことでしょう。
とはいえ、1969年4月3日の使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum)によってパウロ六世が公布したノブス・オルド・ミサ【新しいミサ】のために提起された同じ例外が、1955年11月16日の教令「マキシマ・レデンプティオニス・ノストレ・ミステリア」(Maxima Redemptionis Nostræ Mysteria)によってピオ十二世が公布した典礼にも適用できるかどうかは、まだ評価されていません。
もっと分かりやすく言い換えましょう。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)が、前の典礼の持つ典礼様式的、教義的、霊的な特異性のゆえに、カトリック信者が、この典礼を利用する権利を認めていること、また、この自発教令が、ノブス・オルドの正統性の評価という本案に立ち入らず、言わば典礼の嗜好の問題にとどまっていることを考えるならば、私たちはこの原則を、ヨハネ二十三世の自発教令「ルブリカールム・インストルークトゥム」(Rubricarum Instructum)やピオ十二世の教令「マキシマ・レデンプティオーニス・ノストレ・ミステリア」とに先行する典礼様式にも拡張して、いわゆる"聖ピオ十世の典礼様式"に対する私たちの「嗜好」を表明することが許されるのでしょうか?
実は、これは挑発です。第一に、私は、ローマ典礼様式の教会において、二つの形式の同じ典礼様式が共存するということに同意しないからです。第二に、私は、改革された典礼には重大な欠落があって、確実に「異端を助長する」(favens haeresim)ものだと考えているからです。そこで、オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿とマルセル・ルフェーブル大司教の非難に私も加わっており、ノブス・オルドをただ廃止・禁止して、聖伝の典礼を有効な唯一のローマ典礼とすべきだと確信しているからです。
ただ唯一、この観点からならば、「聖週間の式次第改革版」(Ordo Hebdomadæ Sanctæ Instauratus)に対して、また、もし私たちが詳細にこだわろうとするならば、自発教令「ルブリカールム・インストルークトゥム」に対しても、教会法的に「挑戦」することが可能だと私は思います。とりわけ、その理由として挙げられるのは、両者の基調(tone)がノブス・オルドと一致しており、それらより前のローマ・ミサ典礼書の基調と明らかに断絶しているからです。
ところで、私たちが置かれている「法の不在状態(vacatio legis 通常は"法の発布から施行までの期間"を指す)」を考えると、もし聖ピオ十世兄弟会が、パウロ六世のミサ典礼書にまで至った、その後のすべての改革に同じ悪意ある心を認めているという理由で、ヨハネ二十三世のミサ典礼書を使用することが正当だと考えるのなら、同じ理由――主として慎重を期するという性格を持った理由――から、聖週間の改革に対しても同じ原理を適用できるだろうと私は考えます。たとえ、聖週間の改革それ自体においては――ヨハネ二十三世のミサ典礼書においてと同じく――非正統的なものが何もなく、あるいは異端に傾くものもないとしてでもです。
ルフェーブル大司教が、まさに1962年の典礼を選択した理由は、このことだったのだと私は思います。一方で、ルフェーブル大司教は堅固な養成教育のおかげで法的な考え方を持っていたため、典礼に一種の「無試験」を適用することは不可能であって、そんなことをすれば誰でもどんな典礼でも採用できることになる、ということをよく理解していたのです。しかし同時に、大司教は、公会議改革の破壊的な性質を見逃しませんでした(ちょうど今日の私たちが見逃さないように)。儀式が何世紀にもわたって堆積したので、本来のものとされる典礼の純粋さを回復する、という口実のもとで、意図的に、試験的な(ad experimentum)例外に開かれ、無限の自由裁量に開かれたのです。まさにこの理由から、ルフェーブル大司教は、より妥協の少ない典礼、1962年の典礼に戻ることを決めました。
そのとき大司教は、おそらく、パチェリ(ピオ十二世)とロンカリ(ヨハネ二十三世)によって行われた改革の持つ、いくつかの論議を呼ぶ側面――特に1970年代の問題の多い時期に、典礼専門家のみが把握したであろう問題点――を把握してはいなかったことでしょう。さらに、忘れてはならないのは、「典礼刷新」は、イタリアで展開されるよりもずっと前にフランスで始まっていたこと、また、後に普遍教会の規範となった多くの革新――ゴシック祭服【ポンチョのようなカズラなど】の使用や、「会衆に向く」(versus populum)祭壇に始まる――が、1920年代には早くもフランスの司教区で実験され、常に考古学主義の名のもとに行われていたことです。しかも筆の一振りで、千年余に及ぶ教会生活を取り消そうと試みていたのです。私は想像しますが、イタリア人高位聖職者の目には、「会衆の前で」(coram populo)中世のカズラを身に着けてミサを捧げることは常軌を逸した行動に映ったでしょうが、フランス人大司教にとっては、そのときにはすでにそれが定着し、ある意味では奨励される習慣でさえあったのでしょう。
さらに私たちは次のことも理解しなければなりません。この点については、私は詳しく述べてきたと信じています。つまり、改革の「心」は、ピオ十二世よりかなり以前に地方レベルで始まり、その後徐々にカトリック世界全体に広がったものであり、それは完全に法に反するものでした。
つまり、改革の計画をした立役者たちは、或る典礼様式を――典礼様式とは典礼の文章をただ忠実に適応することでなければならなかったのですが――法の力で押し付けようとして、教皇の立法者としての権威を利用したのです。ミサ典礼書は、もはや司式司祭が忠実に唱えるべきテキストを含んでいるべきではないとされ、むしろ、最悪の風変わりなものを認可していた一種のキャンバスと考えられ、聖なるものの感覚の喪失は避けがたいのだと教会神秘体にほのめかしていたのです。これは、「聖週間の式次第改革版」にも、ヨハネ二十三世のミサ典礼書にも、まだ隠れていて見られないものでした。
しかし、典礼様式が永続的に変化し得るのでその気軽な更新(アジョルナメント)が可能だとする原理、さらに、典礼様式が数世紀の経過とともに腐敗してきた――実際は、典礼様式の成り立ちが、状況、時間、場所による調和のとれた発展の結果であるにもかかわらず――という誤った観念、また、そのため「発展の過剰」(superfetation 過剰受胎)を「刈り取る」必要があると誤った主張が、すでに内蔵されていたのです。そして確かに、聖ヨゼフの名を挿入したロンカリ(ヨハネ二十三世)によるローマ典文の修正も同じ方向に進み、聖なるいけにえの最も古くて神聖な祈り【ローマ典文】にさえも手を付けたのです。
最後に、一つの所見を述べます。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」を利用する多くの共同体は、ピオ十二世の改革より前のミサ典礼書に従って聖週間の典礼を捧げています。つまり、エクレジア・デイ(Ecclesia Dei)委員会自体が、この特別許可を認可し、それを正当化するよう求めた人々の理由を考慮しました。
ですから、より困難な時代に聖伝のミサを守る最前線にいた聖ピオ十世兄弟会が、なぜ同じことをできないのか、私には理解できません。確かに、教会が元の自分に戻るとき、これらすべては法の枠組みに戻されなければなりません。その法の枠組みは、提起された批判を賢明に考慮に入れることだろうと、私たちは望むことができると思います。
私がご提供したこの考察が、少しでも○○神父様のお役に立てばと思っております。
親愛なる友人の皆さん、皆さん全員に、私の父としての祝福を贈ることができることを感謝しております。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ