2022年6月26日(主日)イエズスの聖心の荘厳祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日私たちはイエズス様の聖心の祝日の荘厳祭を行なっています。
一昨日の金曜日はイエズス様の聖心の大祝日でした。
そこで、去年もそうしましたが、ミサの直後に、司祭の退場の前に、イエズスの聖心の連祷、そしてイエズスの聖心に対して罪を償う祈りを、教皇ピオ十一世の意向に従ってそれをお捧げ致します。また、暁の星聖母修道院の奉献の更新式も捧げたいと思っています。
愛する兄弟姉妹の皆様、イエズス様の聖心の愛を一緒に黙想致しましょう。イエズス様の聖心、この聖心は私たちに、天主がどれほど私たちをお愛しされているかということを訴えています。イエズス様の聖心は、全てが、天主の行なったことは全て、愛の結果であるということを教えています。
私たちはイエズス様の愛に囲まれて生活しています。私たちが出会うお友達、今日見た晴れ晴れとした青い空、美しい大自然、澄み渡る星空、たとえ気が付かないかもしれないけれども、ここに咲いている一輪のバラの花、あるいは私たちが出会う雀の一羽、あるいは私たちを取り巻く全てのものは、永遠の昔からイエズス様が私たちを愛して、創って下さったものです。ここにあるのは、たまたまあるのではありません。イエズス様が愛して下さったので、私たちの為を想って創って下さったのです。愛に囲まれて生活しています。お父さんとお母さん、私たちが食べたご飯、着ている服、全てはイエズス様からの愛の贈り物です。
もしも皆さんが今ここで、聖伝のミサにこうやって与っていることができるのも、主の永遠の昔からの愛の計画でした。その為に聖ピオ十世会を創りました。その為に司祭を準備しました。その為にこの会場も考えられていました。偶然ではありません、愛の計画でした。
その中でも、色々愛の贈り物があるのですが、今日は特に二つ、一緒に黙想することを提案します。
⑴「イエズス様が罪を赦して下さった」ということです。
これはどういうことかというと、私たちがたとえ、たった一つの罪を犯したとしても、どんな小さな罪だったとしても、それを償うことができるのは、イエズス様しかいないのです。
説明します。「罪」というのは、無限に聖なる天主様に対する反乱で、この天主に「嫌だ!」と言うことです。ですから罪には「無限の邪悪さ」があります。ですから、たった一つの罪でも、償う為には「無限の償い」が必要なのです。「無限の償い」ということは、償いに「限りがない」ということです。
どういうことかと言うと、もしも私たちが、全人類が、今ここに地球に生きている60億人の人が皆、毎日涙を流して、「イエズス様、ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」と罪を謝って、断食をして、何も食べない、ほんのちょっとだけお水を飲んで、ほんのちょっと食べて、お祈りにばかり専念して、罪の償いをしようとして、洗者聖ヨハネのように砂漠に行って荒れ野に行って、厳しい生活をした、一生をかけたとしても、足りないのです。
人類の全部がそう生活しても足りません。アダムとエワの時代からずっと生きてきた人が、そして世の終わりまでずっともう数え切れないほどの人たちが一緒になって、涙を流して、断食をして、お祈りをした、罪の償いをしたとしても、足りないのです。なぜかというと、たった一つの罪でも、無限の邪悪さがあるので、無限の償いが必要なのです。
天国にいる天使たちが人間になって、これらの天使たちが全てお祈りをして、血を流すまで償いをして、自分の体に鞭を打って、そして主に憐れみを乞うて、罪を償ったらどうでしょうか?人間と天使たちを全て合わせて償ったらどうでしょうか?
足りないのです。全く足りないのです。なぜかというと、主の「無限の御稜威」が傷付けられたので、「無限の償い」が必要なのです。天使たちも人間たちも「有限」なので、無限の償いをすることができません。ただ唯一、「無限に聖である」天主の御子イエズス・キリスト様だけが、私たちの罪を償うことができるのです。
イエズス様はそれをやって下さいました。十字架を見て下さい。十字架に釘付けにせられて、御自分の血を流されて、私たちの代わりに罪を贖って下さいました。
⑵それだけではなかったのです。第二の点は、ただ罪を赦しただけではなくて、更にもっとプレゼントして下さったのです。なぜかというと、更には私たちに「天国の永遠の幸せ」を、「無限の幸せをあげよう」と言って下さったのです。
考えてもみて下さい。お友達が、いつも親しくしているお友達が、そのお友達に、「あぁ、僕の好きなケーキをあげるよ。僕のあれをあげるよ」と言ったお友達がいきなり、そのケーキを投げつけてきて、「嫌いだ!」と言って、暴力を振るってきて、「お前なんか!」と言ってきたとしたら、このお友達が、お父さんとお母さんの大切なものを盗んで行ってしまったとしたら、そのようなお友達がいたとしたら、本当に怒ります。
でも考えてもみて下さい。人類はイエズス様に、そのお友達がやったように、罪を犯して、善に悪で返した。ところがイエズス様は、その私たちの罪を赦したばかりか、贈り物さえも下さいました。
考えてみて下さい。そのお友達の為に、お友達が学校の先生に捕まって、「あぁ、罰を与える!」と言った時に、「先生、このお友達を許してあげて下さい。僕が代わりに罰を受けます」と言ったのみならず、このお友達に更にもっとプレゼントをしたとしたら、どうなのでしょうか?「えぇ!そんなこと、誰がするのかな!?」
イエズス様は、私たちの為にそうして下さいました。罪を赦したのみならず、天国の幸せを私たちに下さろうとして下さり、私たちが天国に簡単に行くことができるように、七つの秘跡も下さいました。特に、「御聖体」となって世の終わりまで私たちと共にいようと、私たちを恵もうと、私たちの友として、慰め主として、恵みの与え主として、日夜私たちと共に留まろうとされました。
私たちを光で照らして、教えで照らして、私たちを聖心の元に導く為に、イエズスの聖心は「公教会」を創りました。「司祭」を作りました。そして「福音」を私たちの手元に与えました。
全て、イエズス様の愛の結果でした。
私たちの主イエズスは私たちに叫んでいます、私たちを「愛している。心から愛している。全てを与え尽くしている」と。
聖パウロはこう言っています、「キリストが私たちの為に死去されたことによって、天主は私たちへの愛を示された。」(ローマ5:8)「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子」(ガラチア2:)と。その言葉は、私たち一人一人の為に適用されます。
このイエズス様の聖心は、私たちの友です。どのような苦しい時があっても、悲しい時があっても、私たちの友としていつも傍にいて下さいます。友として、私たちを慰める。このような素晴らしい友は、世界に探してもいません。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。」(マテオ11:28)と招いておられます。
この愛に満ちる聖心に私たちは、この愛に愛を以って返さなければなりません。イエズス様の聖心の祝日はまさにこの為にあります。
ところで、このイエズスの聖心は、これほど私たちを愛する聖心は、愛されていません。愛の返答として、冷淡と、無関心と、侮辱と、冒瀆で返礼されています。
ですから今日、愛する兄弟の皆さん、少なくとも私たちは、このイエズス様の聖心に愛を以って、感謝を以って、お礼を致しましょう。御聖体を、愛を以って礼拝して、拝領致しましょう。
イエズス様は私たちを心から愛して下さって、もっと祝福したい、もっとあげたい、もっと恵みたいと、私たちを待っています。イエズス様をお愛しして下さい。
どうしたらイエズス様を愛することができるでしょうか?
罪を避けることで、イエズス様を愛することができます。更には、イエズス様を愛する為に、私たちがお父さんとお母さんの言うことを聞いたり、「はい!」あるいは、イエズス様を愛する為に自分の務めをちゃんと果たしたり、お祈りをしたりすることで、愛することができます。喜ばせることができます。
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも、主の聖心を愛して、そして私たちもマリア様に倣って、マリア様の心でその聖心をお愛しすることができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。