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なぜ私たちは、天主の御摂理に自分をおまかせすべきなのか?天主の全能と知恵と善性

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天主の御摂理への信頼についての説教

ドモルネ神父 2022年9月11日 聖霊降臨後第十四主日

はじめに

今日の福音で、私たちの主イエズスは、天主がどれほど私たちを愛し、私たちを気遣っておられるかを、感動的な心遣いをもって、確認してくださいます。今日は、天主の御摂理と、なぜ私たちが、その御摂理に自分をおまかせすべきなのかについて、お話しします。

1.天主の御摂理とは何か

私たちが「天主の御摂理」と呼ぶものは、天主の賢明です。少し説明させてください。賢明とは何でしょうか。賢明とは、良い目標を達成するために、誠実で適切な手段を選んで実行する、私たちの心の資質のことです。例えば、私が、自分の子どもたちに、カトリック教育を受けさせたい、としましょう。これが私の目標です。私は、賢明を用いて、この目標を達成するための方法を決めるために、三つの段階を踏みます。まず、私は、カトリック教育について、可能な選択肢を調べます。つまり、近隣のカトリック学校について、また家庭で教育をすることについて、などを調べるのです。次に、自分の人的・経済的資源に基づいて、私にとって最も良いものを選びます。最後に、私は、しようと決めたことを実行するのです。

私たちが、人間において「賢明」と呼ぶ完全性を、天主においては「御摂理」と呼びます。天主は、ある目的を持って、この世と私たちを造られました。「まず天主の国とその正義を求めよ」(マテオ6章33節)と、イエズスは私たちに言っておられます。天主の国とその正義とは、天主の栄光と私たちの永遠の幸福のことを意味します。天主は、この二重の目標を達成するために、すべてを準備され、時間をかけて少しずつ、その計画を正確に実現されるのです。この計画を実現されるための、天主の全宇宙に対する働きかけを、私たちは天主の御摂理と呼ぶのです。

私たちの主は、私たちに対して、天主の御摂理に、完全で、揺るぎない、冷静な信頼を持つように言われます。この信頼は、三つの原則に基づいています。

2.第一の原則:天主の全能

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第一の原則は、天主の全能です。この世に起こることはすべて、天主があらかじめそれを予見されて、それを望まれたか、あるいは少なくとも、それが起こることを許されたのです。天主が第一の存在であり、存在するものすべての源です。したがって、天主から逃れることのできるものはなく、不意に起こることもなく、すべては、天主の絶対的な支配の下にあるのです。この世にある善いことはすべて、天主がそれを積極的に望まれるのであり、この世にある悪いことはすべて、天主が、より大きな善へのきっかけとするために、それが起こることを許しておられるのです。

私たちの主は、私たちに天主の全能を思い起こさせられ、それを私たち人間の弱さと比較しておられます。「野のユリがどうして育つかを見よ。苦労もせず紡きもせぬ。しかし私は言う、サロモンの栄華の極みにおいてさえ、このユリの一つほどの装いもなかった」(マテオ6章28節)。つまり、天主はその御力によって、何の努力もなしに、全宇宙を創造し、その素晴らしい秩序を保っておられるのです。その反対に、最も力ある人間でも、野のユリのような単純なものさえ作ることはできません。ですから、天主の御力よりも自分の力を信頼するのは、なんと愚かなことでしょうか。

3.第二の原則:天主の知恵

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第二の原則は、天主の知恵です。天主が起こることを望まれ、あるいは起こるのを許されることはすべて、この世を創造されるに当たって天主が定められた目標を達成するために、そうされるのです。すでに述べたように、この目標は、天主の完全性の啓示を通した、天主ご自身の栄光と、私たちの永遠の幸福です。天主はすべてのことをご存じですから、この目標を達成する方法を、私たちよりもずっとよくご存じです。私たちの主は、鳥を例にして、天主がいかにすべてのものを賢明かつ効率的に導かれるかを教えておられます。「空の鳥を見よ。種をまきもせず、刈り取りもせず、倉に納めもせぬに、あなたたちの天の父はそれを養われる」。その反対に、人間の知恵には限界があります。「あなたたちがどんなに心配しても、身のたけを一尺さえ長くできぬ」(マテオ6章26-27節)。ですから、天主の知恵よりも自分の理性を信頼するのは、なんと愚かなことでしょうか。

天主の知恵は、私たちの主イエズス・キリストを、すべてのものの中心に据えられたことに注意してください。天主が、善性、正義、あわれみ、知恵、力などにおけるご自分の完全性をはっきりと示され、それによってご自分に無限の栄光を与えられるのは、私たちの主イエズスを通してです。天主が、私たちを永遠の幸福に到達させてくださるのは、私たちの主イエズスを通してです。ですから、天主の知恵は、私たちが私たちの主イエズス・キリストにますます従うようにするために、私たちの生活のすべてを取りはからってくださいます。聖パウロはこう言いました。「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した」(コリント前書2章2節)。

4.第三の原則:天主の善性

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第三の原則は、天主の善性です。天主は、ご自分を愛する人々の善のために、すべてのものを取りはからってくださいます。天主は、その人々を聖化して、永遠の命を得させるために、すべてのものを取りはからわれます(ローマ8章28節参照)。聖性とは、奇跡を起こすことでも、特別な神秘体験をすることでもありません。聖性とは、私たちの主イエズスが示された模範に従って、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、天主を愛し、隣人を自分と同じように愛することです(マテオ22章37節参照)。このような愛を実現するためには、私たちの利己主義や、天主のみ旨に逆らう自己意志を完全に捨てることが必要であり、謙遜とすべての聖徳を実践することが必要であり、私たちの罪の完全な償いをすることが必要です。このようなわざは、私たち人間の力を超えています。でも、天主が私たちを助けてくださいます。天主は、私たちに幸せな出来事と不幸な出来事を経験させられ、それらの出来事を通して、そのわざを遂行されるのです。天主は、私たちの人生から苦しみを取り除かれるのではなく、その苦しみに耐えるための内的な力を、私たちに与えてくださるのです。聖人たちは、最悪の試練や苦しみに直面しても、決して天主に逆らいませんでした。なぜなら、彼らは、これらの試練を通して、天主が自分たちを聖化してくださっていることを理解していたからです。

私たちの主イエズスは、穏やかなとがめをもって、私たちに、天主の善性を思い起こさせてくださいます。「野のユリのことを考えよ…今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる草をさえ、天主はこのように、装わせてくださる。それなら、まして、あなたたちに対して、よくしてくださらないはずがあろうか。信仰うすい人々よ」(マテオ6章28-30節)。聖パウロとともに、私たちも、次のように言うことができます。「天主の御子は、私を愛し、私のためにご自身を渡された」(ガラツィア2章20節)。ですから、私たちに対する天主の善性を疑うのは、なんと愚かなことでしょうか。

結論

親愛なる信者の皆さん、天主の御摂理に対する私たちの信頼は、この三つの現実に基づいています。天主は、すべてのことを行うことがおできになること。天主は、すべてのことをご存じであること。天主は、私たちを愛しておられ、私たちの善だけを望んでおられることです。

しかし、私たちなしに私たちを創造された天主は、私たちなしには私たちを救われることはない、ということを忘れないでください。天主の御摂理が私たちを見守ってくださっていますが、それは、私たちには何もすることがない、という意味ではありません。天主は、私たちが、天主の御摂理の働きに協力することを望んでおられるのです。ですから、私たちは、掟を守り、家庭や仕事上の義務を果たし、人生のあらゆる場面で天主のみ旨に従い、隣人に善を行う努力を、全力でするようにしましょう。私たちができる範囲で、これらすべてのことを行いましょう。しかし、私たちの力の及ばないことについては、天主の御摂理に、絶対の信頼を置きましょう。

東京での9時ミサの追加部分

[最後に、今日、私には、初聖体を授ける喜びがあります。聖体拝領を通して、私たちの主イエズス・キリストは、ご自身を物理的に私たちに与えられます。私たちの霊魂に、聖化のみわざを実行されるために、来られます。私たちに天主の愛を伝え、私たちを天国に導くために、来られるのです。聖体拝領は、私たちに対する天主のご配慮を最も感動的に証明するものであると同時に、私たちを天国に導くために天主が与えてくださる最も強力な手段です。ですから、私たちの毎回の聖体拝領が、天主の御摂理に対する私たちの絶対的な信頼を強めてくれますように。]

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