2022年8月7日(主日)聖霊降臨後第十主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
お知らせがあります。8月15日は聖母の被昇天です。8月15日は月曜日ですが、主日のようにミサがあります。
日本では残念ながらそうではないのですけれども、世界中で8月15日聖母の被昇天は守るべき祝日となっています。できるだけミサに与るようになさって下さい。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は先週の主日の続き、聖霊の七つの賜物の最後、最上位の賜物である「上智」の賜物について黙想しましょう。
人となった永遠の知恵、私たちの主イエズス・キリストが私たちに対して知恵の言葉を仰って、今日の福音で仰っておられる主の御言葉を一緒に黙想して、遷善の決心を立てることに致しましょう。
聖霊の七つの賜物、それは「主への畏れ」「孝愛」それから「知識」「剛毅」「賢慮」「聡明」「上智」の七つで、聖書によると、「知恵の始まりは、主への畏れから始まるのである」と言っています。
私たちは主を畏れる、主に対して罪を犯さないように、主を悲しませることを恐れる、主への畏れ、畏敬の賜物から黙想を始めて、遂に「上智」の賜物にと到達しました。
「上智」は、別の言葉では「知恵」とも訳されています。「知恵」というのは、最も深い原因にまで辿り着いて物事を見る、ということです。
例えば医療の元でいうと、誰かが「歯が痛い」と言ったら、「もしかしたら、歯が黒くなっているから、ご飯が腐ったんじゃないか」と昔の人は思ったかもしれません。
しかし、もっと深い原因は何かというと、「実は、歯にはバイ菌が付いていて、その細菌が歯のエナメル質を溶かして、神経にまで行って、そして歯神経を腐らせて、あるいは…」等と説明をすることができるかもしれません。「最もその深い原因は何か、そこを解決すれば、実は虫歯は治る」と歯医者さんは言うかもしれません。
しかし医学に限らず、一体、人間は何でここに存在しているのか?一体私たちのここにいる理由は何なのか?その原因は何なのか?一体何の為に?ということを深く追求すれば追求するほど、私たちは究極の原因に辿り着きます。それが、その原因にまで辿り着くように考えることが「知恵」ということであって、知恵を愛するということです。
知恵の深い人は、究極の原因、つまり最高の善である天主にまで辿り着きます。そして全てを天主において見て、それにおいて全ての問題を解決しようとします。これこそ知恵のある、本当の知恵のある人です。もしもその目的を間違ってしまったとしたら、それは本当の知恵ではありません。偽物であって、本当の解決にはならないからです。
ですから、真に知恵のある人は、全てを天主において、真の本当の原因である本当の善において解決しようとするので、本当の秩序を生み出すことができます。「本当の秩序」というのは、これこそが「平和」のことです。
さて、私たちの主は、第二のモーゼと言われています。何故なら前兆であったモーゼを主イエズスが完成させたからです。
モーゼはシナイの山に登って、そして天主から教えを受けて、それをまた山から降って人々に伝えました。その時モーゼの顔は、天主の光を輝かせて反射させて、とても見ることができないほどだった、と旧約聖書には書いてあります。
ところが、天から降った永遠の知恵であるイエズス・キリストは、人となって、私たちに御自分の本当の知恵を伝えようとされました。そして主がなさったことは、山に登ったまま人々に教えたことです。山上の垂訓です。
「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものだからである。」
「柔和な人は幸いである。彼らは地を譲り受けるであろうから。」
「泣く人は幸いである。彼らは慰めを受けるであろうから。」
「正義に飢え乾く人は幸いである。彼らは飽かされるであろうから。」
「憐れみのある人は幸いである。彼らも憐みを受けるであろうから。」
「心の清い人は幸いである。彼らは天主を見るであろうから。」
「平和をつくる人は幸いである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。」
「正義の為に迫害される人は幸いである。天の国は彼らのものだからである。」
永遠の知恵であるイエズス・キリストは、山上の垂訓で至福八端を教えました。この最初の七つの至福は、聖霊の七つの賜物とピタリと一致して、対応しています。
主は永遠の知恵を以って、「平和をもたらす者は幸いである。彼らは天主の子と呼ばれるであろうから」と言われます。
つまり「永遠の知恵であるイエズスを持つ人、上智の賜物を持つ人こそが、平和をつくる者であって、彼らこそ天主の子と呼ばれるであろう」ということを伝えています。
では今日、私たちに、永遠の知恵は福音で何を仰っているでしょうか? イエズス様は、今日の福音では涙を流されています。
光は闇に輝いたのですが、闇はこれを受けようとしなかったからです。イエズス・キリスト、永遠の知恵は、天主の御言葉は、全てを創って、その元に来て、永遠の知恵を伝えようとしたのです。
しかし“エルサレム”「平和のヴィジョン」と訳されるこの街は、イエズス・キリストを受け入れようとしませんでした。その代わりにイエズス・キリストを除外しようと、殺害しようとさえしました。
そこで、本当の平和をもたらすイエズス・キリストを受け入れないのであれば、一体その結果、その結論として、その論理的な結論として何が起こるかということを、エルサレムは体験しなければなりませんでした。
そのことを御存知であったが故に、イエズス様は今日は涙を流されます。もしも、平和をもたらすはずのことを気が付いて知っているならば。この訪れの時を活用したならば。この御恵みを受け取って、それを利用したならば。しかし、彼らはそうしなかった。だからそれの論理的な結果が待っているだろう。恐ろしいものが待っているだろう、と仰いました。
今日、私たちにも、主は同じことを仰っています。もしも私たちが主を拒むなら、エルサレムに類する不幸な結果が待っているだろうということです。たとえば、ロシアとウクライナの衝突がエスカレートするかもしれません。核戦争なのかもしれません。全世界の共産化なのかもしれません。恐ろしいことです。不幸なことです。
では、今日は私たちはどのようにすれば良いでしょうか?
私たちには可能性が残されています、私たちには多くの希望があります、なぜかというと、私たちは主を受け入れることができるからです。
エルサレム、これは都市ですが、しかしそれと同時に、私たちの霊魂のことでもあります。私たちの霊魂が主を受け入れるか受け入れないか、私たちにはまだその可能性が残されています。エルサレムはまた私たちの隣人たちのことでもあります。私たちの愛する祖国のことでもあります。この世界のことでもあります。まだ、可能性が残されています。
アブラハムの時代には、アブラハムは天主にこう交渉しました。「もしもこの街に、ソドマとゴモラに50人の義人がいたら、その50人の為に、どうぞこの街を容赦してあげて下さい。」
すると天主は、「その50人の為に、私はこの街を罰しはしない。」つまり、エルサレムのような崩壊から免れるだろう、ということです。アブラハムは10人まで値引きを試みました。「もしも義人が10人いたら、この街は滅ぼさない。」しかし、それ以上の値引きはアブラハムはしませんでした。
私たちもですから同じように、義人がどこかで天主に祈っておられることでしょう。「主よ、この全世界をご覧下さい。もしも10人の義人がいたならば、どうぞこの世界を滅びから救って下さい」と。
私たちは、この10人の中に入ることができるように、お祈り致しましょう。そしてできる限り、私たちに憐れみを乞い求めて、更にもっと多くの人が主の憐れみに値することができることとなりますように、お祈りしましょう。これが10人でなくて、20人であれば、30人であれば、もっと効果があります。
一体、その為にはどうしたら良いでしょうか?
ファチマのマリア様は私たちにこう仰いました。
「天主はこの地上に、汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでいる。もしもそうすれば、世界には平和がやって来る」と。
ですから私たちも、できる限り聖母の汚れなき御心に対する信心を実践致しましょう。初土の信心を行ないましょう。そしてマリア様の汚れなき御心への信心を良くする為に、聖母の被昇天のミサに与るようになさって下さい。8月22日の聖母の汚れなき御心の祝日に与るようになさって下さい。また主日にはミサに与って、聖伝のミサに与って、聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、御聖体を拝領なさって下さい。
そして私たちだけでなく、私たちの家族や隣人や知っている人々に、ぜひ聖伝のミサのことを、汚れなき御心への信心のことを、そして今この世が、この世界が直面している危機のことを伝えてあげて下さい。この世界が今までの通りにそのまま行くか行かないかは、私たちがマリア様に対する信心をするかしないかにかかっています。
今日、主は涙を流してエルサレムについて訴えています。「もしもこの訪問の時を知っていたならば、助かったのに。」しかしエルサレムはその涙を無視しました。この訴えを無視しました。そしてイエズス・キリストをあくまでも排除しようと殺害しようとしました。
私たちは彼らを真似してはなりません。何とかして、イエズス様のその涙に耳を傾けて、そして何とかしてこの世の為に、この世界の多くの方々の為にも、この世に迫り来る危険をストップをかけなければなりません。その為には、ほんの少しの人数が集まれば良いはずです。より多くの人数が集まれば集まるほど良いはずです。
ですから、どうぞ愛する兄弟の皆さん、この8月は是非、マリア様の汚れなき御心への信心の為によく時間を使うようになさって下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。