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私たちが地獄の罰から逃れたいのなら、私たちは、罪と、私たちを罪に陥らせるすべてのものから、遠ざかっていなければならない

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罪の機会についての説教

2022年11月20日 ドモルネ神父

はじめに

今日のミサの福音には、西暦70年のエルザレム滅亡に関する、私たちの主イエズスの預言があります。エルザレムはローマ軍によって破壊され、数十万人のユダヤ人が殺されました。これは、私たちの主イエズス・キリストの神性を信じず、天主殺しの罪を犯したことに対する罰でした。イエズスはまた、終末の時代における世界の滅亡を預言されました。これは、地上の人間が犯す非常に多くの罪に対する罰です。これら二つの滅亡は、罪に対する罰であり、大罪を犯しても、心から悔い改めようとはしない人々を襲う恐ろしい罰、つまり地獄の、ごく小さな象徴なのです。

私たちの主は、弟子たちに、エルザレムの滅亡から逃れるために、そこから逃げるように忠告されました。「ユダヤにいる者は山に逃げよ」(マテオ24章16節)。私たちの主は、私たちにも、同じことを言われます。私たちが地獄の罰から逃れたいのなら、私たちは、罪と、私たちを罪に陥らせるすべてのものから、遠ざかっていなければならない、と。今日は、罪の機会から遠ざかっている、ということについてお話しします。

1.「罪の機会」という概念

この「罪の機会」という言葉は、どういう意味でしょうか? それは、私たちのうちに罪深い考えを起こさせたり、私たちが罪を犯すように仕向けたりする、あらゆる状況、あらゆる外的なもの、あらゆる人、あらゆる場所のことを意味します。例えば、私たちを欲望や中傷の罪へと導く人と一緒に時を過ごすことや、カトリックではない宗教に積極的に参加するように導く集会などがそうです。

罪の機会がすべて、同じ強さで、私たちを罪へと導くわけではありません。私たちを罪へと少し導くような、つまり、私たちが罪に陥る危険性が小さい、罪の機会もあります。私たちはそれを、「遠い罪の機会」と呼んでいます。例えば、宴会に出れば、時折、酒酔いの罪に陥ってしまう人のことを考えてみてください。そうすると、この人にとって、宴会に出ることは、「遠い罪の機会」になります。

罪の機会の中には、私たちを罪へと強く導くような、つまり、そのような機会にさらされると、私たちが罪に陥る危険性が高いものがあります。私たちはそれを、「近い罪の機会」と呼んでいます。例えば、ネットサーフィンをすると、そのうち、しばしば不純な映画を見てしまう人のことを考えてみてください。この人にとって、ネットサーフィンは、「近い罪の機会」なのです。

ある種の罪の機会は、誰にとっても、罪の機会となります。例えば、みだらな本や異端的な本は、誰にとっても、「近い罪の機会」です。またある種の罪は、当人の感じ方や性格によって、その人にとってのみ、罪の機会となります。例えば、自分のお金を浪費しなくてもギャンブルできる人もいれば、それができない人もいるのです。

2.罪の機会から逃れる必要性

罪の機会、特に私たちを大罪に導くような罪の機会から、いつも遠ざかっておくことが必要です。預言者エレミアは、「バビロンから逃げ、おのおの、その命を救え」と言っています。バビロンは不義の場所を象徴しています(エレミア51章6節)。預言者イザヤは、こう言っています。「外へ、外へ、そこを出よ、汚れたものに触れるな! その中から出よ」(イザヤ52章11節)。大罪より劇的なものはありません。大罪は、天主に対する重大な侮辱であり、私たちの主イエズスの恐ろしいご受難の原因であり、私たちを永遠に地獄に行かせるものです。ですから、私たちは、大罪を注意深く避けなければなりませんし、私たちを大罪に導くあらゆるものから遠ざかっておかなければなりません。罪の機会から遠ざかっておかないということは、罪を犯そうと間接的に望むことと同じです。ですから、「近い大罪の機会」から遠ざかっていることを望まない人は、その罪を、赦されることができません。その人は、自分の罪を、本当に悔い改めていないのです。例えば、同棲生活を送っていて、それを終わらせたくない人がそうです。

「遠い罪の機会」から遠ざかっていることは、厳格な義務ではありません。しかし、もちろん、そうすることが、強く勧められます。ですから、例えば、ある人にとって、宴会に出ることが酒酔いの遠い機会であるなら、その人は、宴会を避けることが勧められます。

「近い罪の機会」を避けることは、厳格な義務です。聖書の中で、聖霊はこのように警告されています。「危険を好む者は、その中で滅びる」(集会書3章27節)。「松やにに触れる者は、それで汚される」(集会書13章1節)。エワが、すぐに蛇から目をそらさなかったため、不従順の罪に陥ったこと、また、聖なるダヴィド王が、水浴びをするベトサベアから目をそらさなかったため、姦淫の罪を犯したこと、そして、最も賢明なソロモン王が、異教徒の女たちと結婚したため、偶像崇拝の罪を犯したことを、思い出してください。

3.罪の機会から逃れる方法

罪の機会は、速やかに、勇気をもって、絶えず、避けなければなりません。私たちの主の言葉を思い出してください。「右の目がつまずきになるなら、抜き出して捨てよ。あなたにとっては、全身が地獄に投げ込まれるより、体の一部を失う方がましである。右の手がつまずきになるなら、切り捨てよ、全身が地獄に行くより、体の一部を失う方がましである」(マテオ5章29-30節)。

ある日、ドミニコ会の聖なる修道女が、私たちの主の言葉に、文字通りに従いました。あるスペインの王が、この修道女を見て、恋に落ちました。王は、彼女の目の美しさに心を奪われたと、彼女に告げました。修道女は、自分の置かれている危機を理解し、英雄的な決断を下しました。彼女は、自分の両目を抜き出して、こう言って、それを王に送ったのです。「これが、あなたをそれほどまでにお喜ばした両目です。しかし、どうか、私が長い間、主にお捧げしてきた私の貞潔の宝を、私の主イエズスにお引き渡しください」。

結論

親愛なる信者の皆さん、この修道女は英雄的でした。何が、彼女にそのような行動をとらせたのでしょうか? イエズスとマリアへの激しい愛と、お二方を侮辱したくないという固い意志です。私たちが、私たちの主イエズスと、私たちの母マリアを心から愛しているならば、私たちのうちに罪深い思いを起こさせたり、私たちが罪を犯すように仕向けたりする、あらゆる状況、あらゆる外的な対象、あらゆる人や物や場所を、私たちの生活から排除すべきです。今日、自分の良心を調べ、私たちの生活の中に、「近い罪の機会」があるかどうかを確認しましょう。もしそのような機会があるなら、そこから速やかに、勇気をもって、絶えず、遠ざかっている決心を固めましょう。


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