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イエズス・キリストの「御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度である」(ベネディクト十六世)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世引退教皇様の言葉をよく聞いて黙想してください。

「現代文化 -- 現代文化が、文化である限りにおいて -- にとって、ひざまづきは異質でありうるかもしれない。何故ならこの文化は、信仰から遠ざかってしまったからであり、またこの文化は、その方の御前でひざまづくのが正しく、更に、本質的に必要な態度であるその御方をもはや知っていないからである。信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。そして、ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところでは、それが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」

It may well be that kneeling is alien to modern culture -- insofar as it is a culture, for this culture has turned away from the faith and no longer knows the one before whom kneeling is the right, indeed the intrinsically necessary gesture. The man who learns to believe learns also to kneel, and a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself."
https://books.google.co.jp/books?id=cW_MBQAAQBAJ&lpg=PA171&hl=ja&pg=PA171#v=onepage&q&f=false

(ベネディクト十六世『典礼の精神』)

その方の御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度であるその御方を、知らないから、ひざまづくことをやめてしまうのです。

「信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。」(ベネディクト十六世)

信じないものは、ひざまづくことを知りません。イエズス・キリストを知らない現代文明は、その御前ではひざまづくことが正しく、本来的に必要な態度であるイエズス・キリストを知りません。天主がどなたかを知りません。

「ひざまづきは、キリスト教文化の表現です。・・・ひざまづきとは、どこかの文化から由来したものではありません。これは聖書と、聖書が教える天主を認識することから由来するものです。」(ベネディクト十六世)。

「天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ人への手紙2:10)

ひざまづくことによって、私たちは使徒たちや、殉教者たち、イエズス・キリストと一致のうちに繋がることができます。

「人々との一致」のために、使徒たちや殉教者たちイエズス・キリストとの一致を断ち切らないでください。

かつて日本の殉教者たちは、御聖体に対する熱い信心を持っていました。たとえば、パウロ内堀作右衛門をはじめとする殉教者たちは、全員が宣教師の協力者や宿主であり、宣教師なき後は、代わって地元の教会を世話し、その教会のために命を捧げました。1627年2月21日、松倉豊後守の命により、キリシタンに対する拷問が始まった時、パウロ内堀たち16人は熱心に宣教を続けたため、雲仙に送られ、数時間の拷問のすえ雲仙の熱湯に投げ落とされて殉教しました。最後の言葉は「いと尊きご聖体は賛美されますように!」でした。

ベネディクト十六世教皇様の教えは、はっきりしています。ひざまづくことを知らないのは、イエズス・キリストが誰かを知らないからです。ご聖体が何かを知らないからです。信仰が病んでいるからです。聖書と、聖書が教える天主を認識していないからです。ひざまづかないのは、悪魔的だからです。イエズス・キリストを天主であると認めようとしないからです。信仰の本当の一致から離れているからです。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)


2000年間のカトリック教会の諸聖人たちと一致するために、天国の諸天使と一致してご聖体を礼拝するために、天地の創造主であり私たちの主であるイエズス・キリストを礼拝し賛美し感謝するために、また、罪の償いをするために、聖変化の時には必ずひざまづいてください。

聖伝のミサに与って、私たちの主イエズス・キリストをひざまづいて礼拝してください。永遠のローマに一致して、主に対してなされる冒涜を償ってください。

イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)

願わくは、愛する兄弟姉妹の皆様が典礼において心を込めてひざまづき、「祈りにおいて、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がる」ことができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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