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【参考資料】ヴィガノ大司教、御公現について:世俗と教会両方の指導者を「回心させてくださるよう私たちは幼子なる王に願う」

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【参考資料】ヴィガノ大司教、御公現について:世俗と教会両方の指導者を「回心させてくださるよう私たちは幼子なる王に願う」

Abp. Viganò on Epiphany: “We Ask the Child King to Convert” Both Civil and Church Leaders
カルロ・マリア・ヴィガノ 2023年1月9日

VIDIMUS STELLAM EIUS IN ORIENTE
東方で彼の星を見た
私たちの主イエズス・キリストの御公現についての
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教

Et adorabunt eum omnes reges terræ;
omnes gentes servient ei.
Ps 71:11
地の王たちはみな、彼を拝み、
異邦の民はみな、彼に仕えるだろう。
詩篇71篇11節

イエズス・キリストに讃美

この荘厳な日は、三つの奇跡によって聖化されています。それは、東方の博士たちの礼拝、カナの婚礼での水をぶどう酒に変えること、そしてヨルダン川でのキリストの洗礼です。これらの奇跡のしるしは、私たちの主の神性と、宇宙や自然、私たちに対する主の普遍的な主権を示しています。天使に呼ばれて、Verbum caro factum(肉体となり給うたみ言葉)を認識するのは、もはや羊飼いたちだけではありません。全人類、全被造物が、天主ご自身の声によって、天主を礼拝し、天主の声に耳を傾け、天主に従うように呼ばれているのです。この主権を、謙遜な信仰をもって認める者もいれば、高慢から拒否する者もいます。

クリスマス前日のローマ殉教録では、secundum carnem(肉による)救い主のご誕生の告知が、正確で詳細な年代を示す数多くの文献とともに歴史の中に位置づけられていることが歌われるのを聞きました。先唱者が、キリストのご誕生という救いの出来事が歴史的に現実であることを示すために声の調子を上げる直前に荘厳に発する Toto orbe in pace composito(全世界が平和であったとき)は、ローマ帝国の権威であり平和をもたらす者であるアウグストゥスの三つの勝利に言及しています。確かに人間的で異教的な勝利ではありましたが、それは Rex pacificus(平和の王)であり不滅の皇帝かつ征服されざる太陽の永遠【イエズス・キリスト】の凱旋を準備するように意図されていたのです。このため、1月6日は、ローマの人間的な栄光を祝う世俗の祝日として制定されましたが、教会によって王の王、主の主であるキリストの不滅の栄光を祝うために選ばれました。

今の背教の時代は、天主への反逆によって引き起こされた戦争や紛争を特徴としているので、皇帝の地上の権威が、御摂理の計画で主の来臨に必要な前提条件となるのは、理解しがたいことです。私たちにとって、もっと「普通」に思えるのは、ヘロデのいわゆる凶暴で冷酷な反応です。彼は、幼子なる王を殺すという狂気の試みにおいて、数日前に典礼で記念したベトレヘムの子どもたちを皆殺しにしました。生と死、平和と戦争、光と闇、聖寵と滅び。私たちは常に自分自身、家族、世俗社会にとって二つの大きな選択肢を目前にしています。そして、キリストこそが、私たちの生命、平和、光、すべてとして彼を認め、私たちに道徳的選択をするよう求める基準点として、つまずきの石として、立っておられるのです。もしそうでなければ、つまり、この選択を放棄するなら、天使の軍勢が地獄の権力に対して戦っているのを前にしつつ自らは中立にあると宣言したいのなら、私たちは依然として、私たちの救いと全世界の救いを左右する選択をしていることになるのです。

私たちは今日、それを見ています。キリストの御旗のもとで戦場に出ない者は、必然的にキリストの敵の味方となってしまい、罪のない者たちがヘロデによって殺されるのを傍観し、また、天主の主権を否定または沈黙する、転覆させられた自由の概念と世俗主義の名において、まぐさ桶の前で主を礼拝することを拒否するのです。

しかし、まさにこの至聖なる日の神秘を観想することによって、教会は、イエズス・キリストの神性の表明である御公現の必要性を私たちに教えています。星が異教徒の学者たちを聖寵の光へと、そして真の天主への回心へと導くことができるのならば、その必要性のために御摂理は躊躇せずに星でさえも動かしてくださいます。

実際、羊飼いたちの素朴で忠実な礼拝は、内面が謙遜で貧しいため、十分ではありませんでした。その礼拝は個人、私たち一人一人の信仰の行いを思い起こさせますが、もしそれが、地上で権威を持つ者たちの公の公式な礼拝を伴わなければ、その礼拝は、この世の運命にとっては不完全なままなのです。何故ならこの権威は、最高の立法者にして審判者である天主の権威を反映しているからです。詩篇がこう預言しているとおりです。Et adorabunt eum omnes reges terræ; omnes gentes servient ei.(王たちはみな、彼を拝み、異邦の民はみな、彼に仕える)[詩篇71篇11節]。

幼子なる天主に敬意を払うのが東方の博士であり、帝国の権威の代表者がいないことは驚くべきことです。主を裁き、死刑を宣告する上で決定的な役割を果たしたイスラエルの王も大司祭も姿を見せないのと同じです。彼らは、死の瞬間にはいるのですが、生の瞬間にはいないのです。ガスパール、メルキオール、バルタザールが幼子の前にひざまずき、贈り物を捧げようとする姿を私たちは見ますが、まぐさ桶の周りにローマ総督、ヘロデ、アンナ、カヤファ、最高法院(サンヘドリン)の幹部、民の中の律法学士たちが見られないのはなぜでしょうか?

その答えは、まったく単純に明らかです。羊飼いたちは、自分自身と、日常生活やつつましい仕事による貧しい物以外には何も持っていない素朴な者の、信頼に満ちた自己放棄によってキリストを礼拝したのです。博士たちは、星の流れの中にキリストの奇跡的な現れを見たおかげでキリストを礼拝し、彼らの人間的な知恵、宇宙を覗き見る能力は、彼らを永遠の太陽【イエズス・キリスト】のもとへと導きました。なぜなら、彼らも、謙遜によって、天主【キリスト】のこの世への誕生を知っていたからです。前者【羊飼いたち】は天使の告知によって、後者【博士たち】は天のしるしによって、どちらも聖寵によって照らされたのです。しかし、ヘロデと大司祭たちは、イスラエルが持っているメシアの預言をよく知っていたはずでしたが、彼らの第一の関心事は権力であったため、見ることも信じることもできませんでした。一方で、現世的権力は異教のローマの支配下にあり、ユダヤの君主とは実はイスラエルの唯一の王――万軍の主である天主――の代理者にすぎないことを忘れていました。他方、霊的権力は、今日私たちが言う「自己参照性」、すなわち自己保身と民を無知のままにしておくことに関心を持っていただけだったのです。

このことは、預言者たちの厳しい叱責と警告によって裏付けられ、主は預言者たちの口によって、司祭たちにその義務を思い起こさせられました。しかし、司祭たちは、いけにえの肉の一部を自分のものとするために持つ熊手の先を長くしたり、神殿に招き入れられた両替商や商人の取引で利益を得たりするのに忙しくしていました。聖寵に耳を貸さなかったのです! 幼きイエズスが自分の権威を承認してくれるのを見るべきだったヘロデは、耳を貸さなかったのです。イエズスにおいて、約束のメシア、国々の民にとって待ち望める者(ハガイ2章7節)を認めるべきだった大司祭たちも、耳を貸さなかったのです。両者とも、重大にも、その御手に世界と時代の運命を握るお方に頭を垂れるのではなく、侵略者に服従することを好んでいたのです。Non habemus regem nisi Cæsarem(私たちの王はチェザルのほかにはありません)[ヨハネ19章15節]。

この点で、現在の状況は当時とあまり変わっていません。今日でも、世俗および教会の権威者は、自分たちの権力を失うことを恐れて、イエズス・キリストを礼拝することを拒み、あるいは、イエズス・キリストの殺害を企てながら、言葉だけで礼拝しています。今日でさえ、私たちは、素朴な人々や遠い国の指導者たちが救い主を認め、私生活や公的生活を救い主に合わせるのを見ますが、一方で、世界の指導者たちはグローバリズムの行動計画(アジェンダ)のためにダボスに集まることを好み、ベルゴリオのセクトの高位聖職者たちは自分のスキャンダルを隠し、シノダリティーを広め、本当に言葉にできないほどの悪徳を奨励することだけを考えているのです。両者とも、お互いを支え、お互いの正当性を認めています。両者とも、イエズス・キリストを、自分たちの権力と支配の計画を追求するための不快な障害物とみなしています。しかし、御公現の賛歌で歌われているように、non eripit mortalia qui regna dat cœlestia(われらに天の国を与えてくださるお方は、地上の王国を略奪されることはない)のです。

しかし、一方では、賢者たちが信仰の貢ぎ物をもって、王の王を公に礼拝することができ、自分たちの権力にとって恐れるものは何もなかったとすれば、他方では、天主に反抗的で不従順な支配者は、自分たちの行使する権力が天主に由来することを認めず、天主の主権に対抗するとともに、自分たちの民にも対抗して、賢明で正しい政府を憎むべき専制の道具に変えているのです。預言者エレミアは、彼らに対抗して、次のように表現しています。

私の民の中には悪人がいて、待ち伏せする狩人のように、見張っていて、わなをかけるが、彼らがとらえるのは人間である。鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は偽りに満ちている。だから彼らは偉い者となり、裕福になり、こえ肥(ふと)り、あぶらぎり、悪の境界を越え、訴訟も、みなし子の訴えごともとりあげない。それなのに栄えて、貧しい者の肩を持たない。こういうことを罰しないでいられようか? 主のお告げ。こういう民に、仇を討たないでいられようか? 恐ろしくいとわしいことが、この地に行われている。預言者は偽りの名を借りて預言し、司祭は、彼らの指図を受けて支配するのに、私の民はそれを好んでいる。だが、終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?(エレミア5章26-31節)。

この聖書の言葉を聞いていると、この世の権力者たち、グローバリストのエリートたちと、臆病で利己的で卑屈な共犯関係から彼らに仕える者たちに向けられたものではないかと思えてきます。また、主から託された群れを養うために教会の権威者に立てられながらも、権力を濫用して、自らがその冷酷な設計者であるパンデミックや緊急事態を預言する新世界秩序の預言者たちの承諾のもとに統治しているのです。

〈終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?〉と主は問われます。おまえたちは、新たな非常事態、新たな危機、新たなパンデミック、新たな戦争を起こして、人々を服従させ続けるのか? 罪のない子どもたちを皆殺しにし、父親と母親を不妊症にし、労働者から報酬を奪い、若者を堕落させ、病人や老人を自分たちの下劣な利益には役立たないとみなして殺し続けるのか? 天主の御怒りと正当な懲罰から逃れたいと思って、自分の砦に立てこもるのか? グレートリセットのしもべたちよ、おまえたちの主人たちが隠れ家に逃げ込み、地の底に隠れなければならなくなったら、おまえたちはどうするだろうか? 今までのように、新しい所有者に自分を売り渡すことができるとでも思っているのか? あわれな、惨めな、欺かれた者たちよ。恐ろしい主の日は、すべての人に、そしておまえたちにもやって来るのだ。まず私審判があり、次に公審判がある。

地上の正義がおまえたちに従属するがために、おまえたちの犯罪を傍観しているとしても、天主の正義は、その代わりに、天主の御稜威(みいつ)に対する罪、そして天主がご自分の像と似姿として創造され、ご自分の血をもって贖われた人間に対する罪、おまえたちの公の罪が、罰を受けないことがないように、容赦なく、恐ろしいものになるであろう。そして、もしわれわれの貧弱な力がおまえたちの陰謀に打ち勝てなかったとしても、われわれ一人一人、聖なる教会の一人一人の信者、一人一人の善き霊魂が祈り、断食し、償いをして、おまえたちが認め、礼拝し、仕えることを拒んでいる諸国の王である主のご介入を願っていることを知っておくのだ。〈終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?〉。

私たちの主イエズス・キリストの天主の王権が公に表明され、賢者たちが主の普遍で永遠の主権に公の貢ぎ物を捧げたことを祝うこの御公現の日に、私たちも新たに捧げ物をしましょう。それは、御摂理が与えてくださったもの以外に何も持っていない私たちからのものですから、粗末で惨めな捧げ物です。しかし、御子の玉座において私たちの代願者である王の御母である聖母、至聖なるマリアによって贈られるならば、それは尊い捧げ物となります。その捧げ物が、ミサの聖なる犠牲で十字架の犠牲を更新する永遠の教皇である大司祭、清く聖なるいけにえの御手を通して御父の御稜威(みいつ)に昇るとき、それは無限の捧げ物となります。私たちの償いを、祭壇のふもとに置きましょう。それが王の黄金となりますように。私たちの祈りを、祭壇のふもとに置きましょう。それが、司祭が天主のために焚く香のごとく天に昇りますように。私たちの断食を、祭壇のふもとに置きましょう。聖なるミサがそれを犠牲の没薬に変えてくれますように。そして、私たちは、幼子なる王に願います。世俗社会と教会の両方で権威を持つ人々、今日、星の後を追ってベトレヘムに行き天主を礼拝するか、あるいは、天主のご誕生を無視し、天主のみ旨を避けて天主に戦争を仕掛けるかの選択を迫られている人々を回心させてくださいますように。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年1月6日
私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日

英語版 Abp. Viganò on Epiphany: "We Ask the Child King to Convert" Both Civil and Church Leaders - Catholic Family News

イタリア語版 Mons. Viganò, Omelia per l’Epifania. Il Giorno Tremendo del Signore Verrà…


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