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一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願った。どのような道徳的な意味を持っているのか?

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2022年10月23日主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音では、一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願いました。今日のこの出来事が私たちにとってどのような道徳的な意味を持っているのか、一緒に黙想いたしましょう。
特に理性が霊魂の王であるということについて、また霊魂を病に至らせる情念passioということについて一緒に黙想いたしましょう。

聖トマス・アクィナスによると、今日の福音の箇所の道徳的な意味は次の通りだと言っています。聖書の道徳的な意味というのは、“頭(かしら)であるキリストが行ったので私たちもしなければならない”意味と言います。そのようなことを、道徳的な意味で解釈する、と言います。

(1)理性は人間の王

さて聖トマス・アクィナスによると、理性というのは、知性と意志のことです。理性は、霊魂の王です。何故かというと理性が人間の全てを支配するからです。人間の愛情も、何を愛するかということも、理性によって導かれています。霊魂の他の全ての力も理性に従います。ですから、もしも私たちが理性に従っているのならば、秩序が生まれ、人間全体といういわば「王国」が保たれることになります。しかし、理性ではなくて無秩序な情念に導かれてしまうならば、あるいはそのような情念に抵抗しない時、つまり理性が「王」として支配しない時、すると私たちの愛情、つまり「息子」も病に陥ってしまいます。善から離れて悪に傾いてしまうのです。

どこで息子が病気になったのか、どこで熱が出て死にそうかというと、カファルナウムでした。カファルナウムというのは、ヘブライ語では「豊かさ」とか「慰め」という意味です。つまり、物質的な豊かさが霊魂の情念をふるい起たせてしまって、そしてこの病気の原因となったと、聖トマス・アクィナスは説明しています。こういう意味に適応できると、説明しています。

(2)悪しき情念をコントロールする

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、理性が情念に抵抗しないと霊魂が死に至ってしまうということを教えて、私たちが情念をコントロールしなければならないということを説明しています。

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、情念それ自体は罪ではない、悪ではないと言っています。もっと正確に言うと、情念passioが理性に支配されている限り、これは霊魂にとって善を為すと言います。しかし、これがコントロールされていない時に、すべてが情念によって支配されてしまうので、善と悪との区別ができなくなってしまって、病に陥ると言います。そして私たちは情念の奴隷となってしまう。真理が暗んでしまう、と説明します。

どういうことかというと、理性が正しく情念を支配しない時、例えば「悲しみ」というのを例にとってみましょう。他人の善を「自分の悪」だと考える時に、他人の善を喜ぶ代りに悲しんでしまいます。するとこれは嫉妬です。

しかし情念を正しくコントロールするなら、よいことになります。たとえば、おなじ悲しみを例にとってみると、他人の悪をみて自分の悪として悲しむならこれは憐れみになります。あるいは自分の過去の罪を自分の現在の悪として悲しむのならば、これは痛悔です。ですから理性が情念を正しく支配しなければならないのです。

ではどのようにしたらよいのでしょうか。どのようにしたら情念の奴隷状態から抜け出せることが、あるいは情念の奴隷とならないようにすることが、できるでしょうか。

聖ヤコボはこう言います。「私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。」(ヤコボ3:3)

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、この言葉を引用して、私たちは情念を馬のように取り扱わなければならない、つまり悪い悪しき感情が、情念が出るや否や、理性の轡(くつわ)をはめてコントロールしなければならない、もしもその代わりに情念の要求のままに従ってしまうのならば、私たちは野獣のレベルにまで落ちてしまう、理性の賜物をいただいて生まれてきていながら、情念に従って野獣のようになってしまうのは、人間の品格を貶(おとし)めて、恥ずべきことである、といいます。

もしもそれを続けるのならば、つまり理性と天主とを軽んじて情念のままに従って生きてしまうのならば、天主はついには罰としてその邪欲のままに私たちをうち捨てておかれるだろう、といいます。
ローマ人への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「天主は、かれらのよこしまな心のままに、不当なことをおこなうにまかせられた。…」
これは最大の罰です。ですから私たちはこの状態からすぐに出なければなりません。

(3)「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服する

この悪しき情念というのは、聖アルフォンソ・デ・リゴリによると 自己愛から生じています。ですから自己愛という雑草を抜き取らなければなりません。どうして抜き取るかというと主は言われます。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)

聖アルフォンソ・デ・リゴリによると、「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服するならば、他のものも簡単に制御できると言っています。「主要な悪しき情念」とは人によっていろいろ異なっていますけれど、まず自分にとって一番強く感ずる悪い情念のことです。しかし、そのままにのさばらすと火が付いたように熱がでたようにますます燃え広がってしまいます。

聖アルフォンソ・デ・リゴリの指摘によると、ヘロデ王は、野心のままに子供たちの命を幼子たちのいのちを奪った。あるいはイギリスのヘンリー八世は、女性に対する情念から、国全体を教会から離れさせ、また聖なる人々を処刑した。そしてついには最期に信仰を失った。情念に目をくらまされて、自分の快楽だけを追求してしまった。

ですから私たちは小さなうちに、できるうちに、情念を制御しなければなりません。傷口もすぐに閉じないと治癒できない腫瘍になってしまいます。あるいは、木もまだ小さいうちならば簡単に引き抜くことができますが、根が張った大木になってしまえば、それを引き抜くのは非常に困難です。

(4)祈る

ではどうしたらよいでしょうか。自己愛を捨てて イエズスの十字架に従うほかには何をしたら良いでしょうか。
聖アルフォンソ・デ・リゴリは、その最高の方法は天主に祈ることであると教えています。特にこの情念が激しい時には、ますます祈るべきである、と教えています。

では遷善の決心を取りましょう。私たちにとって悪しき情念とはいったい何でしょうか?これを見いだして、私たちがすべてを理性でコントロールすることができるお恵みを請い求めましょう。いつも理性が制御している状態を請い求めましょう。

今日の王官のように、霊魂が死なないうちに主に来ていただいて癒してくださることを願わなければなりません。が、主がお望みになれば主が来ていただかなくても癒すことができます。でも私たちは主の方に馳せ寄り、これを請い願わなければなりません。

聖伝のミサに与ることによってイエズスのもとに馳せ寄り、主に祈りましょう。最後にロザリオを通して、いつも情念を理性の支配下におかれて罪の汚れをまぬがれていたマリア様に倣って生活することができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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