ヴィガノ大司教「異教の近代性は大洪水を『はるかに上回る悲惨な』鞭を準備している」
真の箱舟、唯一の箱舟は、聖なる教会である。この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができる。この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと欺かれないようにしよう。
Abp. Viganò: Pagan modernity is preparing a scourge ‘far more disastrous’ than the Flood
「聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています」。
2023年2月13日 米東部標準時間午前10時43分
(LifeSiteNews)―昨日、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、厳粛な主日の説教(以下)を発表し、その中で、「私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵…」について考え、来る「鞭」、「古代の大洪水よりもはるかに悲惨な」ものからの避難所を、カトリック教会という救いの箱舟に見いだすようキリスト信者に助言しました。大司教は、偽物の箱舟に対して警告し、新世界秩序の計画を推進する人々を、タイタニック号で「酩酊してのんきに」踊っていた人々にたとえています。
大司教は、「私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、彼が邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです」と、教皇フランシスコの怠慢を指摘しています。それにもかかわらず、大司教は、真の救いの箱舟である教会の舵を「しっかりと」握っている舵取り人は、私たちの主イエズス・キリストであることを、キリスト信者に思い起こさせます。
VIRTUS IN INFIRMITATE PERFICITUR恩寵の力は弱さのうちに完成されるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の六旬節の主日の説教
地上の人間の罪悪がはなはだしくなり、その心に生まれる計画も、一日じゅう悪だけに向かっているのを主はご覧になった。創世記6章5節
六旬節の主日、復活祭の準備のための苦行と断食の時に近づいています。すでに一週間前から典礼ではアレルヤ誦が沈黙し、ミサでは詠誦に取って代わられています。そして、このほとんど悔悛的な主日に、教会は、朝課の朗読によって、天主が反抗的な人類を大洪水で滅ぼし給い、ノアの家族だけを救い給うに至った罪についての考察に、私たちを招いています。
聖書は人間の邪悪さを語っています。人間の心の中のあらゆる欲望は常に悪以外の何物でもありませんでした。人類が、過去において、今日私たちが目にするような悪を行うことができたとは信じがたいところです。古代のどの文化の中にも、私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵はありませんでした。虐殺、暴力、戦争、倒錯、窃盗、強盗、屠殺、冒涜、汚聖は、個々の人間によってだけでなく、国家のトップが法律で押し付け、メディアが称揚し、教師や判事が奨励し、司祭が容認し承認さえしています。私たちはこう自問します。現代人が、天主に対して、仲間の人類に対して、被造物に対して、あらゆる行為をさせようとする邪悪さのゆえに、大洪水よりももっとひどい罰を受けるに値しないのか、と。また、「mysterium iniquitatis」(悪の神秘)の明らかな勝利を目にして、私たちの堕落し背教した世界で悪がどれほど広く、深く根付いているかを見て、天主の御稜威(みいつ)は人間のいとわしいものをどれほど長く容認されるのか、と。私たちはほとんど、次の主の約束を信じることは難しいと感じています。「私はもう、人間のゆえに地をのろうことはすまい、人間の心の企ては、幼いときから悪に傾いているからだ。私はもう二度と、すべての生き物をうち滅ぼすことはすまい」(創世記8章21節)。
私たちを混乱させるのは、私たちが、【天主の】沈黙のうちに自分自身と自分の苦難に委ねられているということよりも、現在の犯罪と罪が罰せられていないことが、それ自体で、永遠の御父が私たちに送ることがおできになる罰よりさらに途方もなく厳しい罰であるかもしれないという事実です。異教化した近代は野蛮に陥り、古代の大洪水よりもはるかに悲惨な天罰の鞭を、自らの手で準備しているのです。その鞭は、悪人ではなくむしろ善人、すなわち主とその聖なる法に忠実な人々を地表から一掃することができると信じられている、はるかに巨大な人類の破滅です。そして、彼らが沈められることになるであろう嵐雲が暗黒と脅威を伴って集まってくる間、現代の人々は、自分自身と自分の愛する人々を救おうと求めて自分自身の霊的箱舟を準備している人々を軽蔑し、実際、彼らがそれを完成に至らせるのを妨げるために、あらゆることをしているのです。
聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています。
私たちは教会の献堂のための序誦で、こう歌います。「Hæc est arca quæ nos a mundi ereptos diluvio, in portum salutis inducit.」(これは、われらを世界の洪水から救い、救いの港に導く箱舟である)。しかし、救いの箱舟はどこにあるのでしょうか? 上に座す者たちの重みで沈む運命にある偽物と、どう見分ければいいのでしょうか? 悪人を救うために使われる一方で、舵取り人は善人の乗船を妨げ、さらには自分の子らさえも洪水から救い出すに値しない不法移民とみなして追い払っている模造物と、どう見分ければいいのでしょうか?
このような苦悩の思いは、今日、ペトロの玉座に座しているのが誰なのかと考えると、見当違いのことではありません。教会という箱舟は、実際に救われる資格のある人々だけは除いてそれ以外ならば誰でも歓迎したいように思えます。実際、逃げ出すべき洪水がないため、無用のように思われます。さらに悪いことには、天主の御怒りが引き起こすというよりは、人間の悪行が引き起こす巨大な洪水は、実は霊的な再生【霊的にもう一度生まれること】の瞬間であり、同時に、グレート・リセットの妄想的計画に従えば世界の人口を減らす機会であるともみなされているのです。ちょうどタイタニック号のように、乗組員や乗客が酩酊してのんきに踊っている間に、船は沈没させられる氷山に向かって全速力で進んでいます。この氷山は、自分たちは天主の正義から免れると信じている人々の高慢を示す、傲慢な記念碑です。私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、この男が、邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです。
しかし、一方で、このような人間的な考察により、私たちが絶望に陥り、生き残れるかを心配せざるを得ないとしても、他方では、真の救いの箱舟を認識することができます。なぜなら、その箱舟が、建てられたカルワリオ山の上に、そして、毎日私たちを待っている祭壇の神秘的なカルワリオの上に用意されているのを見ているからです。
私たちが信頼を置き、私たちを欺くはずのない人々によってさえも、私たちに別の箱舟が指し示されることは、ほとんど問題ではありませんし、箱舟を無用とみなし、その理由で私たちを馬鹿にしたり、私たちが気の狂ったかのように扱ったりする人々がいることも、ほとんど問題ではありません。差し迫った洪水を否定する人々がいて、その人自身が洪水の不敬な建築家であり、気候工学によって大気現象を制御することができるとまで愚かにも思い込んでいるとしても、ほとんど問題ではありません。
真の箱舟、唯一の箱舟が、聖なる教会であることを、私たちは知っています。そして、舵をしっかり握っておられる天主なる舵取り人である私たちの主のみ言葉によって、この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができると、私たちは信じています。このため、私たちは、この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと惑わされて、欺かれないようにしようと決心しています。
今日のミサの書簡の中で、聖パウロは、福音が教えている「種をまく人」のたとえの例に従って、天主のみ言葉をまく際に直面しなければならなかった試練を、すべて列挙しています。「しかし主は、『あなたには私の恩寵で足りる。恩寵の力は弱さのうちに完成されるからである』と答えられた」(コリント後書12章9節)。私たちの弱さを認識し、私たちの欠陥と無であることを自覚することによって、天主の御力は、私たちの謙遜と天主への信仰が大きければ大きいほど、さらに強く感じられるようになります。「Sufficit tibi gratia mea」(あなたには私の恩寵で足りる)。なぜなら、私たちは、恩寵によって、箱舟に避難所を見いだすに値する者とされるのであり、恩寵によって、大洪水の間そこに留まることができるのであり、恩寵によって、天国の港に到達することになるからです。
ですから、天主の恩寵を失わないようにしましょう。箱舟が私たちを待っている、天使のパンという霊魂のための栄養も見いだすことのできる箱舟が私たちを待っている、神秘の山に登りましょう。
アーメン。
2023年2月12日Dominica in Sexagesima六旬節の主日
英語版Abp. Viganò: Pagan modernity is preparing a scourge 'far more disastrous’ than the Flood - LifeSite
イタリア語版Mons. Viganò, Omelia in Sexagesima. L
真の箱舟、唯一の箱舟は、聖なる教会である。この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができる。この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと欺かれないようにしよう。
Abp. Viganò: Pagan modernity is preparing a scourge ‘far more disastrous’ than the Flood
「聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています」。
2023年2月13日 米東部標準時間午前10時43分
(LifeSiteNews)―昨日、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、厳粛な主日の説教(以下)を発表し、その中で、「私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵…」について考え、来る「鞭」、「古代の大洪水よりもはるかに悲惨な」ものからの避難所を、カトリック教会という救いの箱舟に見いだすようキリスト信者に助言しました。大司教は、偽物の箱舟に対して警告し、新世界秩序の計画を推進する人々を、タイタニック号で「酩酊してのんきに」踊っていた人々にたとえています。
大司教は、「私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、彼が邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです」と、教皇フランシスコの怠慢を指摘しています。それにもかかわらず、大司教は、真の救いの箱舟である教会の舵を「しっかりと」握っている舵取り人は、私たちの主イエズス・キリストであることを、キリスト信者に思い起こさせます。
VIRTUS IN INFIRMITATE PERFICITUR恩寵の力は弱さのうちに完成されるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の六旬節の主日の説教
地上の人間の罪悪がはなはだしくなり、その心に生まれる計画も、一日じゅう悪だけに向かっているのを主はご覧になった。創世記6章5節
六旬節の主日、復活祭の準備のための苦行と断食の時に近づいています。すでに一週間前から典礼ではアレルヤ誦が沈黙し、ミサでは詠誦に取って代わられています。そして、このほとんど悔悛的な主日に、教会は、朝課の朗読によって、天主が反抗的な人類を大洪水で滅ぼし給い、ノアの家族だけを救い給うに至った罪についての考察に、私たちを招いています。
聖書は人間の邪悪さを語っています。人間の心の中のあらゆる欲望は常に悪以外の何物でもありませんでした。人類が、過去において、今日私たちが目にするような悪を行うことができたとは信じがたいところです。古代のどの文化の中にも、私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵はありませんでした。虐殺、暴力、戦争、倒錯、窃盗、強盗、屠殺、冒涜、汚聖は、個々の人間によってだけでなく、国家のトップが法律で押し付け、メディアが称揚し、教師や判事が奨励し、司祭が容認し承認さえしています。私たちはこう自問します。現代人が、天主に対して、仲間の人類に対して、被造物に対して、あらゆる行為をさせようとする邪悪さのゆえに、大洪水よりももっとひどい罰を受けるに値しないのか、と。また、「mysterium iniquitatis」(悪の神秘)の明らかな勝利を目にして、私たちの堕落し背教した世界で悪がどれほど広く、深く根付いているかを見て、天主の御稜威(みいつ)は人間のいとわしいものをどれほど長く容認されるのか、と。私たちはほとんど、次の主の約束を信じることは難しいと感じています。「私はもう、人間のゆえに地をのろうことはすまい、人間の心の企ては、幼いときから悪に傾いているからだ。私はもう二度と、すべての生き物をうち滅ぼすことはすまい」(創世記8章21節)。
私たちを混乱させるのは、私たちが、【天主の】沈黙のうちに自分自身と自分の苦難に委ねられているということよりも、現在の犯罪と罪が罰せられていないことが、それ自体で、永遠の御父が私たちに送ることがおできになる罰よりさらに途方もなく厳しい罰であるかもしれないという事実です。異教化した近代は野蛮に陥り、古代の大洪水よりもはるかに悲惨な天罰の鞭を、自らの手で準備しているのです。その鞭は、悪人ではなくむしろ善人、すなわち主とその聖なる法に忠実な人々を地表から一掃することができると信じられている、はるかに巨大な人類の破滅です。そして、彼らが沈められることになるであろう嵐雲が暗黒と脅威を伴って集まってくる間、現代の人々は、自分自身と自分の愛する人々を救おうと求めて自分自身の霊的箱舟を準備している人々を軽蔑し、実際、彼らがそれを完成に至らせるのを妨げるために、あらゆることをしているのです。
聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています。
私たちは教会の献堂のための序誦で、こう歌います。「Hæc est arca quæ nos a mundi ereptos diluvio, in portum salutis inducit.」(これは、われらを世界の洪水から救い、救いの港に導く箱舟である)。しかし、救いの箱舟はどこにあるのでしょうか? 上に座す者たちの重みで沈む運命にある偽物と、どう見分ければいいのでしょうか? 悪人を救うために使われる一方で、舵取り人は善人の乗船を妨げ、さらには自分の子らさえも洪水から救い出すに値しない不法移民とみなして追い払っている模造物と、どう見分ければいいのでしょうか?
このような苦悩の思いは、今日、ペトロの玉座に座しているのが誰なのかと考えると、見当違いのことではありません。教会という箱舟は、実際に救われる資格のある人々だけは除いてそれ以外ならば誰でも歓迎したいように思えます。実際、逃げ出すべき洪水がないため、無用のように思われます。さらに悪いことには、天主の御怒りが引き起こすというよりは、人間の悪行が引き起こす巨大な洪水は、実は霊的な再生【霊的にもう一度生まれること】の瞬間であり、同時に、グレート・リセットの妄想的計画に従えば世界の人口を減らす機会であるともみなされているのです。ちょうどタイタニック号のように、乗組員や乗客が酩酊してのんきに踊っている間に、船は沈没させられる氷山に向かって全速力で進んでいます。この氷山は、自分たちは天主の正義から免れると信じている人々の高慢を示す、傲慢な記念碑です。私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、この男が、邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです。
しかし、一方で、このような人間的な考察により、私たちが絶望に陥り、生き残れるかを心配せざるを得ないとしても、他方では、真の救いの箱舟を認識することができます。なぜなら、その箱舟が、建てられたカルワリオ山の上に、そして、毎日私たちを待っている祭壇の神秘的なカルワリオの上に用意されているのを見ているからです。
私たちが信頼を置き、私たちを欺くはずのない人々によってさえも、私たちに別の箱舟が指し示されることは、ほとんど問題ではありませんし、箱舟を無用とみなし、その理由で私たちを馬鹿にしたり、私たちが気の狂ったかのように扱ったりする人々がいることも、ほとんど問題ではありません。差し迫った洪水を否定する人々がいて、その人自身が洪水の不敬な建築家であり、気候工学によって大気現象を制御することができるとまで愚かにも思い込んでいるとしても、ほとんど問題ではありません。
真の箱舟、唯一の箱舟が、聖なる教会であることを、私たちは知っています。そして、舵をしっかり握っておられる天主なる舵取り人である私たちの主のみ言葉によって、この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができると、私たちは信じています。このため、私たちは、この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと惑わされて、欺かれないようにしようと決心しています。
今日のミサの書簡の中で、聖パウロは、福音が教えている「種をまく人」のたとえの例に従って、天主のみ言葉をまく際に直面しなければならなかった試練を、すべて列挙しています。「しかし主は、『あなたには私の恩寵で足りる。恩寵の力は弱さのうちに完成されるからである』と答えられた」(コリント後書12章9節)。私たちの弱さを認識し、私たちの欠陥と無であることを自覚することによって、天主の御力は、私たちの謙遜と天主への信仰が大きければ大きいほど、さらに強く感じられるようになります。「Sufficit tibi gratia mea」(あなたには私の恩寵で足りる)。なぜなら、私たちは、恩寵によって、箱舟に避難所を見いだすに値する者とされるのであり、恩寵によって、大洪水の間そこに留まることができるのであり、恩寵によって、天国の港に到達することになるからです。
ですから、天主の恩寵を失わないようにしましょう。箱舟が私たちを待っている、天使のパンという霊魂のための栄養も見いだすことのできる箱舟が私たちを待っている、神秘の山に登りましょう。
アーメン。
2023年2月12日Dominica in Sexagesima六旬節の主日
英語版Abp. Viganò: Pagan modernity is preparing a scourge 'far more disastrous’ than the Flood - LifeSite
イタリア語版Mons. Viganò, Omelia in Sexagesima. L