アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年12月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年12月6日 待降節第2主日
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月6日、待降節第2主日のミサを捧げています。
今日のこの御ミサの前にニュースがあります。このミサの前に1人、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんが、天主様の娘となる洗礼の御恵みを受けました。どうぞ、赤ちゃんマリアちゃんが、天国に行く道を、清く、真っ直ぐに歩む事ができますように、聖なる姉妹となりますように、マリア様にも、娘として生き抜く事ができますように、皆さんのお祈りをお願いします。
また私たちの中には、洗礼の志願者の方が2人、今準備をしているので、どうぞその方々の為にもお祈り下さい。そして私たちの信徒の方々の中に、たくさんの子宝の恵みが与えられますように、お祈り下さい。
14時半から公教要理の勉強があります。16時からは、主日の第2晩課があります。明日は、朝7時からこの御ミサがあります。
次のミサは、12月27日の主日、それから1月は、1月3日と17日です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の元に、洗者聖ヨハネから2人の使者が送られて、公式に、「イエズス様、あなたは一体誰ですか?」という話を、質問をされました。それは、聖ヨハネが殉教する直前の事でした。こうやって公式に弟子たちを、2人の証人を送って、「イエズス様が誰であるかはっきり宣言して、そして私の弟子たちを全てイエズス様に与えよう。さあ、救い主はこの方だ。」との意図の元に、弟子たちを送りました。もちろん洗者聖ヨハネは、イエズス・キリスト様がどなたかをよく知っていました。イエズス・キリストこそ、天主の子羊、私たちを救うべき世の贖い主です。
私たちの主は、そのような質問を受けて、非常に御謙遜に、「俺がそうだ。」とは言わずに、「周りをよく見てほしい。」と答えます。
「一体何が起こっているだろうか。聖書の予言が全て成就しているではないか。さあ、結論はお前たちが取れば良い。」と、非常にご謙遜に、答えながらも、御自分がまさに約束されたメシアである、救い主である、キリストである、という事をはっきりと言われました。「そのこれらの奇跡を見てほしい。予言された通りではないか、キリストに関する御言葉が全て成就している。」
そこで弟子たちは、ヨハネの元に帰って、それを報告するのです。イエズス様は、やはりヨハネについても、「この男こそ、聖書に書かれたその男である。預言者以上の預言者であって、女の腹より生まれた者でこれ以上の者はない。」という、ヨハネでも、「洗者ヨハネも、予言を成就した者である。」という事を宣言されます。
そこで今日、待降節、イエズス様の御降誕を準備する為に、この「聖書の言葉の、聖書の予言の成就」という事と、そして「洗者聖ヨハネ」というこの2つのキーワードを黙想しつつ、この2つに共通するものは何かを探って、そして良き待降節を過ごす為の、送る為の決心を立てる事に致しましょう。
聖ヨハネは、予言された、「主の道を整えるべき為に送られた者。再び来ると言われたエリアである。」と、言われています。ではこの洗者聖ヨハネは、どうやって準備されたのでしょうか?
洗者聖ヨハネは、マリア様によって準備されました。まだ聖エリザベトの胎内に居た時に、その6ヶ月後、懐妊して6ヶ月後、マリア様の訪問を受けるのです。マリア様は、大天使聖ガブリエルから、「エリザベトが子供を身ごもった。」という事を知らされて、すぐに駆けつけたからです。そしてマリア様の挨拶を以って、そのマリア様の言葉を以って、ご胎内に居たイエズス様が、奇跡を起こしました。その奇跡の為に、洗者聖ヨハネの原罪は赦されました。
そしてそれ以後、罪というものは全く知らずに、厳しい生活をして、そして荒れ野に行って、祈りと苦行の生活をして、多くの人々を、「罪の回心の為に、罪の悔悛の為に、罪の償いの為に、痛悔するように」と招きかけて、悔い改めの洗礼を施していました。「私たちは罪を犯した、救世主が必要だ。だから、私たちは罪を悔い改めて、その為に祈りを捧げなければならない。」と呼びかけていました。その罪の償いの為に、どれほど厳しい生活をしなければならないか、という事を、身を以って実践していたのでした。断食と祈りの生活です。これは全て、マリア様によって準備された、マリア様によって準備されたからこそ、すべての預言者よりも偉大な先駆者となりました。
実は聖書には今日、聖パウロが言うには、書簡の中に言うには、「全ての事は、聖書に書かれている全ての事は、私たちの教えの為に書かれている。」と、あります。この洗者聖ヨハネを準備するべきこの女性については、アダムとエヴァが罪を犯したその最初の瞬間、「救い主を送る」と言った、その最初の瞬間から予言されていました。「私は、お前(蛇)と女の間に敵対を置く。この女性は、このお前の末と、女の末とに敵対を置く。この彼女は、お前の頭をかかとで踏み砕くだろう。お前に徹底的な勝利を収めるだろう。お前はこの彼女に何もする事ができない。攻撃するだろうが、お前は踏み砕かれる。」
そこで聖書の中には、この洗者聖ヨハネを準備した女性、第2のエヴァ、マリア様について、色々な予言があります。そこで今日是非、この洗者聖ヨハネを準備したマリア様について、少し見る事にします。
今回、特に待降節ですから、私たちがどうやって、マリア様に近付く者とマリア様に近付かない者との区別があるか、という事を見てみたいと思います。一体そんな話が聖書にあるのでしょうか?
実は、教父たちによると、聖書の中には、「マリア様に近付く者、マリア様に愛を持つ者と、マリア様に愛を持たない者との2人がいて、そしてそれが前兆として、将来来たるべき者たちの影として現れている。」と言うのです。
それは何の話かというと、イザアクの子供たちの話です。イザアクには子供たちが2人いて、1人はお兄さん、長男で、エザウと言います。その次はヤコブで、以前から、エザウは長男ですから、イザアクからとても愛されていました。何故ならば、予言によれば、救い主は、このイザアクの子孫から来なければならないからです。そしてエザウがその長子権を持っているので、その「この子から、救い主が生まれるべきだ。」と、いつもイザアクは目をかけていました。イザアクはもちろん、有名なアブラハムの子で、この救い主の約束を受けた者です。
すると、ある日エザウは、とても頭が良く、腕力もあって、そしてスポーツ神経が抜群で、とても賢く、何でもこう狩りをすれば、走るのは得意だし、運動能力は長けているし、狩りをすればどのような動物でも仕留める事ができて、非常に有能な男でした。ところがある日、狩りをしていて、「お腹が空いた。」と言って、この弟の元に来るのですけれども、弟は、その時に大豆の豆のスープを食べているのですが、「スープが欲しい。」と言うと、ケチな事に、「嫌だ。」と言うのです。「お前の長子権をくれたら、これを売ってあげる。」と言うので、「こんな腹が減っているのに、長子権が何だ。さあ、スープをくれ。」と言って、売り飛ばしてしまうのです、スープ1杯に。
エザウは、確かに能力があったのですけれども、非常に感覚的で、この世の事だけを、この世の快楽だけを追っていて、超自然的な長子権や、メシアの事などは、あまり関心のない男でした。
そこで、ある時イザアクは、「もうこれで年も取って、もう弱って来た。さあ、私の残る全ての祝福を、愛する子供に与えて、そして救い主の来たるべき準備をしよう。」と言って、エザウに呼びかけて、「エザウや、お前は我が愛する長男だ。だから今から狩りに行って、私の好きな料理を、何か食べる物を作って欲しい。」と言うと、「今そうしたら、それを食べたら、私はお前に祝福を与えるから。最高の祝福を与えよう。」と言うと、エザウは、「そうですかお父さん。では、私が腕によりをかけて、狩りに行って、一番おいしい動物を仕留めて、そしてお父さんに素晴らしいごちそうを作ってあげましょう。さあ、待っていて下さい。私は早い足と、私の強い腕で、一番良い動物を仕留めて来ますから。」という話をしていました。
それを、レベッカ、お母さんは聞いていると、レベッカは弟のヤコブの事が好きでした。何故かというと、ヤコブはいつも家に居て、お母さんの真似をしていて、お母さんの言う事をよく聞いて、お母さんを非常に愛して、お母さんの為にいつもお世話をしていたからです。もしかしたらヤコブは、外に向かって働くほどの体力がなかったのかもしれません。でも、お母さんのお手伝いだけはよくしていました。お母さんも、そのようなヤコブの事を非常に目をかけていて、「さあ、ヤコブや、お父さんが祝福を与えてくれる、と言うから、さあヤギを、小さなヤギを2頭群れから取って来て、私に持って来なさい。私はお父さんの一番好きな料理を作って、お父さんに食べさせてあげるから。」と言うと、ヤコブはその時に、疑問も持たずに、「あぁ、そうですかお母さん。じゃあ、ヤギを2頭取って来ます。」
小さなヤギを2匹取って来て、そしてお母さんは料理して、そしてそれをお父さん、イザアクに与えると、お父さんは非常においしいおいしいと言って、涙を流しながら、「こんな美味しいものは、これはない。」と言って、食べるのです。その間に、お母さんのレベッカはヤコブに、エザウの服を着せて、そしてこの取って来たヤギの毛を刈り取って上に付けて、そして首にも巻いて、「お父さん、さあ食べて下さい。」「おぉ、声はヤコブだけれども、この毛がフサフサしているのや、この服の香りは、エザウだ。うんおいしい、料理もおいしい。」と言って、ヤコブが、そのエザウに与えるべきその祝福を全て、天の祝福と地の祝福を全て、受けてしまいます。「ヤコブを呪う者は呪われよ。」とまで言います。
そしてその後、一生懸命猟をして、自分の力でやってきた、と言って帰って、「こんなすごいのが獲れた。」と言って帰って来て、「あぁ、さあこれから料理をしよう。」と言うと、お父さんがもう満腹でもう食べられない、という事を見て、あぁ、お父さん、どうかしたんですか?」「あっ?エザウや、何を今頃?あっ?さっき来たのはエザウじゃないのか?」「えっ?お父さん、私は今狩りから帰って来たところですよ?」「えっ?さっき来た子に、祝福を全部やってしまった。」「ええ!?私の分はもう何も残ってないのですか?そんな事はない!」と、泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣きじゃくると、仕方がないので、この地上での祝福を与えて、「私がやれるのはこれだけだ。」と、少しだけ祝福を受けて、それで終わってしまったのです。
教父たちによると、「これは、マリア様に信心を持つ者と、持たない者との違いである。」と、言います。
何故かというと、マリア様、レベッカというのは、マリア様の前兆である。マリア様は、エザウも、子供たちを、エザウもヤコブも子供たちですから、愛しているのです。しかし残念な事に、エザウはマリア様の事を気にかけないのです。マリア様の為には何の奉仕もせずに、してもほんの少し、挨拶位で、口先だけで、そして狩りに行って、外の事に一生懸命なのです。外の事に一生懸命という事は、内的な生活の事は全然おかまいなしで、天主様の事や、救い主の事や、霊魂の事はおかまいなしで、食べたり飲んだり踊ったり遊んだり、おもしろおかしく過ごしたり、という事だけしか関心がない、という事です。そして帰って、マリア様にいつも従順で、マリア様の言う事を聞いているこの選ばれた者に対して、非常に嫉妬と憎しみを抱いています。
教父たちによると、「レベッカ、マリア様は私たちに、『さあ、天主様の祝福を得る事ができる為に、小さなヤギを2つ取って来なさい。』と言うのです。ヤギは、2頭で、羊ではないのです。ヤギ、これは、私たち自身の事であって、私たちの霊魂と肉体、その2つをマリア様に与えて下さい。という事だ。」と言います。
すると、マリア様は、私たちがマリア様に与えた霊魂と、ヤギの様な強情な霊魂と強情な体でも、マリア様が非常にうまく料理すると、天主御父の心に非常に適う、おいしい、もう食べて涙が出るほどおいしい、ほっぺたがもう落ちるほどおいしい料理に変わるのです。
マリア様は、しかも私たちに、このヤギの皮を、毛皮を私たちの腕と首に付けて、そしてエザウの服を着せて、御父の前に行かせるのです。これは何を意味するかというと、「エザウの服」というのは、これは長男なので、教父によればこれは、「イエズス・キリストの聖寵の服だ」と言います。私たちは天主の養子であって、長男ではありません。本来の長男ではありません。しかし、イエズス・キリストの服を、長男の服を着る事を、マリア様によってできる。何故かというとマリア様は、イエズス様の服を、受けた全ての功徳を管理している倉庫であるから。
マリア様が私たちにイエズス・キリストを着せて下さって、そして私たちのとった、奉献した業を私たちの腕に付けて下さると、天主は、「あぁ、声は罪人だけれども、服と匂いはイエズス・キリストだ。私の御子だ。」として、錯覚して、私たちに祝福を下さる、と言うのです。長子権を持つ者だけが受けるべき祝福を、私たちも受ける事ができるのです。
そこで、では待降節にどんな決心を立てたら良いでしょうか?私たちがイエズス・キリストを受ける為には、天主様は1つの事を条件にしました。それは天主御父が、「マリア様であるならば、御子を委ねる事ができる。」イエズス・キリストも、天主御子も、「マリア様の元であるならば、自分を委ねて、この世に救い主に来る事ができる。」天主聖霊も、「マリア様のご胎内であれば、救い主を形作る事ができる。」という事です。洗者聖ヨハネも、旧約の教えも、そして天主三位一体も、皆、マリア様を示しています。マリア様に近付けば近付くほど、私たちがイエズス・キリストの祝福を受けて、イエズス・キリストを受ける事ができる、という事です。
最初の奇跡、洗者聖ヨハネの聖化も、マリア様の御声、挨拶によって起こりました。肉体的な奇跡、カナでの婚宴でも、水がブドウ酒になる時に、「あの人たちにブドウ酒がありません。」と、マリア様が仰ったからこそ、イエズス様は、「婦人よ、それがあなたと私の間に、一体何の関係があるのでしょうか。私の時はまだ来ていません。」と言って、それでもマリア様が、「この方の言う通りになさりなさい。」と言うので、奇跡が起こりました。
イエズス様は、いつも必ずマリア様を通して私たちの元に来ますし、マリア様を通して奇跡を行いますし、マリア様を通して、私たちに恵みを下さいます。これが聖書の教えです。これが天主様がなさるやり方です。イエズス・キリストがなさったやり方です。洗者聖ヨハネがそうやって教えています。
そこで今日は、待降節ですから、良きクリスマスになりますように、マリア様に特にこの待降節の間お祈りなさって下さい。マリア様の元にいつも心を上げて、たくさんお祈りをなさって下さい。マリア様と共に犠牲を捧げて下さい。そしてヤコブの様に、マリア様に私たちの心も体もお捧げ下さい。マリア様がそれを、良い料理に、美味しい料理にして、天主に捧げて下さいます。マリア様が私たちにイエズス・キリストを着させて下さいます。そしてそれのみならず、私たちのみならず、私たちの友人や知人方も、イエズス・キリスト様を受ける事ができるように、マリア様にお祈りなさって下さい。多くの方が、イエズス・キリストの御恵みを、このクリスマスに受ける事ができるように、どうぞお祈りをお願いします。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年12月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年12月6日 待降節第2主日
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月6日、待降節第2主日のミサを捧げています。
今日のこの御ミサの前にニュースがあります。このミサの前に1人、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんが、天主様の娘となる洗礼の御恵みを受けました。どうぞ、赤ちゃんマリアちゃんが、天国に行く道を、清く、真っ直ぐに歩む事ができますように、聖なる姉妹となりますように、マリア様にも、娘として生き抜く事ができますように、皆さんのお祈りをお願いします。
また私たちの中には、洗礼の志願者の方が2人、今準備をしているので、どうぞその方々の為にもお祈り下さい。そして私たちの信徒の方々の中に、たくさんの子宝の恵みが与えられますように、お祈り下さい。
14時半から公教要理の勉強があります。16時からは、主日の第2晩課があります。明日は、朝7時からこの御ミサがあります。
次のミサは、12月27日の主日、それから1月は、1月3日と17日です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の元に、洗者聖ヨハネから2人の使者が送られて、公式に、「イエズス様、あなたは一体誰ですか?」という話を、質問をされました。それは、聖ヨハネが殉教する直前の事でした。こうやって公式に弟子たちを、2人の証人を送って、「イエズス様が誰であるかはっきり宣言して、そして私の弟子たちを全てイエズス様に与えよう。さあ、救い主はこの方だ。」との意図の元に、弟子たちを送りました。もちろん洗者聖ヨハネは、イエズス・キリスト様がどなたかをよく知っていました。イエズス・キリストこそ、天主の子羊、私たちを救うべき世の贖い主です。
私たちの主は、そのような質問を受けて、非常に御謙遜に、「俺がそうだ。」とは言わずに、「周りをよく見てほしい。」と答えます。
「一体何が起こっているだろうか。聖書の予言が全て成就しているではないか。さあ、結論はお前たちが取れば良い。」と、非常にご謙遜に、答えながらも、御自分がまさに約束されたメシアである、救い主である、キリストである、という事をはっきりと言われました。「そのこれらの奇跡を見てほしい。予言された通りではないか、キリストに関する御言葉が全て成就している。」
そこで弟子たちは、ヨハネの元に帰って、それを報告するのです。イエズス様は、やはりヨハネについても、「この男こそ、聖書に書かれたその男である。預言者以上の預言者であって、女の腹より生まれた者でこれ以上の者はない。」という、ヨハネでも、「洗者ヨハネも、予言を成就した者である。」という事を宣言されます。
そこで今日、待降節、イエズス様の御降誕を準備する為に、この「聖書の言葉の、聖書の予言の成就」という事と、そして「洗者聖ヨハネ」というこの2つのキーワードを黙想しつつ、この2つに共通するものは何かを探って、そして良き待降節を過ごす為の、送る為の決心を立てる事に致しましょう。
聖ヨハネは、予言された、「主の道を整えるべき為に送られた者。再び来ると言われたエリアである。」と、言われています。ではこの洗者聖ヨハネは、どうやって準備されたのでしょうか?
洗者聖ヨハネは、マリア様によって準備されました。まだ聖エリザベトの胎内に居た時に、その6ヶ月後、懐妊して6ヶ月後、マリア様の訪問を受けるのです。マリア様は、大天使聖ガブリエルから、「エリザベトが子供を身ごもった。」という事を知らされて、すぐに駆けつけたからです。そしてマリア様の挨拶を以って、そのマリア様の言葉を以って、ご胎内に居たイエズス様が、奇跡を起こしました。その奇跡の為に、洗者聖ヨハネの原罪は赦されました。
そしてそれ以後、罪というものは全く知らずに、厳しい生活をして、そして荒れ野に行って、祈りと苦行の生活をして、多くの人々を、「罪の回心の為に、罪の悔悛の為に、罪の償いの為に、痛悔するように」と招きかけて、悔い改めの洗礼を施していました。「私たちは罪を犯した、救世主が必要だ。だから、私たちは罪を悔い改めて、その為に祈りを捧げなければならない。」と呼びかけていました。その罪の償いの為に、どれほど厳しい生活をしなければならないか、という事を、身を以って実践していたのでした。断食と祈りの生活です。これは全て、マリア様によって準備された、マリア様によって準備されたからこそ、すべての預言者よりも偉大な先駆者となりました。
実は聖書には今日、聖パウロが言うには、書簡の中に言うには、「全ての事は、聖書に書かれている全ての事は、私たちの教えの為に書かれている。」と、あります。この洗者聖ヨハネを準備するべきこの女性については、アダムとエヴァが罪を犯したその最初の瞬間、「救い主を送る」と言った、その最初の瞬間から予言されていました。「私は、お前(蛇)と女の間に敵対を置く。この女性は、このお前の末と、女の末とに敵対を置く。この彼女は、お前の頭をかかとで踏み砕くだろう。お前に徹底的な勝利を収めるだろう。お前はこの彼女に何もする事ができない。攻撃するだろうが、お前は踏み砕かれる。」
そこで聖書の中には、この洗者聖ヨハネを準備した女性、第2のエヴァ、マリア様について、色々な予言があります。そこで今日是非、この洗者聖ヨハネを準備したマリア様について、少し見る事にします。
今回、特に待降節ですから、私たちがどうやって、マリア様に近付く者とマリア様に近付かない者との区別があるか、という事を見てみたいと思います。一体そんな話が聖書にあるのでしょうか?
実は、教父たちによると、聖書の中には、「マリア様に近付く者、マリア様に愛を持つ者と、マリア様に愛を持たない者との2人がいて、そしてそれが前兆として、将来来たるべき者たちの影として現れている。」と言うのです。
それは何の話かというと、イザアクの子供たちの話です。イザアクには子供たちが2人いて、1人はお兄さん、長男で、エザウと言います。その次はヤコブで、以前から、エザウは長男ですから、イザアクからとても愛されていました。何故ならば、予言によれば、救い主は、このイザアクの子孫から来なければならないからです。そしてエザウがその長子権を持っているので、その「この子から、救い主が生まれるべきだ。」と、いつもイザアクは目をかけていました。イザアクはもちろん、有名なアブラハムの子で、この救い主の約束を受けた者です。
すると、ある日エザウは、とても頭が良く、腕力もあって、そしてスポーツ神経が抜群で、とても賢く、何でもこう狩りをすれば、走るのは得意だし、運動能力は長けているし、狩りをすればどのような動物でも仕留める事ができて、非常に有能な男でした。ところがある日、狩りをしていて、「お腹が空いた。」と言って、この弟の元に来るのですけれども、弟は、その時に大豆の豆のスープを食べているのですが、「スープが欲しい。」と言うと、ケチな事に、「嫌だ。」と言うのです。「お前の長子権をくれたら、これを売ってあげる。」と言うので、「こんな腹が減っているのに、長子権が何だ。さあ、スープをくれ。」と言って、売り飛ばしてしまうのです、スープ1杯に。
エザウは、確かに能力があったのですけれども、非常に感覚的で、この世の事だけを、この世の快楽だけを追っていて、超自然的な長子権や、メシアの事などは、あまり関心のない男でした。
そこで、ある時イザアクは、「もうこれで年も取って、もう弱って来た。さあ、私の残る全ての祝福を、愛する子供に与えて、そして救い主の来たるべき準備をしよう。」と言って、エザウに呼びかけて、「エザウや、お前は我が愛する長男だ。だから今から狩りに行って、私の好きな料理を、何か食べる物を作って欲しい。」と言うと、「今そうしたら、それを食べたら、私はお前に祝福を与えるから。最高の祝福を与えよう。」と言うと、エザウは、「そうですかお父さん。では、私が腕によりをかけて、狩りに行って、一番おいしい動物を仕留めて、そしてお父さんに素晴らしいごちそうを作ってあげましょう。さあ、待っていて下さい。私は早い足と、私の強い腕で、一番良い動物を仕留めて来ますから。」という話をしていました。
それを、レベッカ、お母さんは聞いていると、レベッカは弟のヤコブの事が好きでした。何故かというと、ヤコブはいつも家に居て、お母さんの真似をしていて、お母さんの言う事をよく聞いて、お母さんを非常に愛して、お母さんの為にいつもお世話をしていたからです。もしかしたらヤコブは、外に向かって働くほどの体力がなかったのかもしれません。でも、お母さんのお手伝いだけはよくしていました。お母さんも、そのようなヤコブの事を非常に目をかけていて、「さあ、ヤコブや、お父さんが祝福を与えてくれる、と言うから、さあヤギを、小さなヤギを2頭群れから取って来て、私に持って来なさい。私はお父さんの一番好きな料理を作って、お父さんに食べさせてあげるから。」と言うと、ヤコブはその時に、疑問も持たずに、「あぁ、そうですかお母さん。じゃあ、ヤギを2頭取って来ます。」
小さなヤギを2匹取って来て、そしてお母さんは料理して、そしてそれをお父さん、イザアクに与えると、お父さんは非常においしいおいしいと言って、涙を流しながら、「こんな美味しいものは、これはない。」と言って、食べるのです。その間に、お母さんのレベッカはヤコブに、エザウの服を着せて、そしてこの取って来たヤギの毛を刈り取って上に付けて、そして首にも巻いて、「お父さん、さあ食べて下さい。」「おぉ、声はヤコブだけれども、この毛がフサフサしているのや、この服の香りは、エザウだ。うんおいしい、料理もおいしい。」と言って、ヤコブが、そのエザウに与えるべきその祝福を全て、天の祝福と地の祝福を全て、受けてしまいます。「ヤコブを呪う者は呪われよ。」とまで言います。
そしてその後、一生懸命猟をして、自分の力でやってきた、と言って帰って、「こんなすごいのが獲れた。」と言って帰って来て、「あぁ、さあこれから料理をしよう。」と言うと、お父さんがもう満腹でもう食べられない、という事を見て、あぁ、お父さん、どうかしたんですか?」「あっ?エザウや、何を今頃?あっ?さっき来たのはエザウじゃないのか?」「えっ?お父さん、私は今狩りから帰って来たところですよ?」「えっ?さっき来た子に、祝福を全部やってしまった。」「ええ!?私の分はもう何も残ってないのですか?そんな事はない!」と、泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣きじゃくると、仕方がないので、この地上での祝福を与えて、「私がやれるのはこれだけだ。」と、少しだけ祝福を受けて、それで終わってしまったのです。
教父たちによると、「これは、マリア様に信心を持つ者と、持たない者との違いである。」と、言います。
何故かというと、マリア様、レベッカというのは、マリア様の前兆である。マリア様は、エザウも、子供たちを、エザウもヤコブも子供たちですから、愛しているのです。しかし残念な事に、エザウはマリア様の事を気にかけないのです。マリア様の為には何の奉仕もせずに、してもほんの少し、挨拶位で、口先だけで、そして狩りに行って、外の事に一生懸命なのです。外の事に一生懸命という事は、内的な生活の事は全然おかまいなしで、天主様の事や、救い主の事や、霊魂の事はおかまいなしで、食べたり飲んだり踊ったり遊んだり、おもしろおかしく過ごしたり、という事だけしか関心がない、という事です。そして帰って、マリア様にいつも従順で、マリア様の言う事を聞いているこの選ばれた者に対して、非常に嫉妬と憎しみを抱いています。
教父たちによると、「レベッカ、マリア様は私たちに、『さあ、天主様の祝福を得る事ができる為に、小さなヤギを2つ取って来なさい。』と言うのです。ヤギは、2頭で、羊ではないのです。ヤギ、これは、私たち自身の事であって、私たちの霊魂と肉体、その2つをマリア様に与えて下さい。という事だ。」と言います。
すると、マリア様は、私たちがマリア様に与えた霊魂と、ヤギの様な強情な霊魂と強情な体でも、マリア様が非常にうまく料理すると、天主御父の心に非常に適う、おいしい、もう食べて涙が出るほどおいしい、ほっぺたがもう落ちるほどおいしい料理に変わるのです。
マリア様は、しかも私たちに、このヤギの皮を、毛皮を私たちの腕と首に付けて、そしてエザウの服を着せて、御父の前に行かせるのです。これは何を意味するかというと、「エザウの服」というのは、これは長男なので、教父によればこれは、「イエズス・キリストの聖寵の服だ」と言います。私たちは天主の養子であって、長男ではありません。本来の長男ではありません。しかし、イエズス・キリストの服を、長男の服を着る事を、マリア様によってできる。何故かというとマリア様は、イエズス様の服を、受けた全ての功徳を管理している倉庫であるから。
マリア様が私たちにイエズス・キリストを着せて下さって、そして私たちのとった、奉献した業を私たちの腕に付けて下さると、天主は、「あぁ、声は罪人だけれども、服と匂いはイエズス・キリストだ。私の御子だ。」として、錯覚して、私たちに祝福を下さる、と言うのです。長子権を持つ者だけが受けるべき祝福を、私たちも受ける事ができるのです。
そこで、では待降節にどんな決心を立てたら良いでしょうか?私たちがイエズス・キリストを受ける為には、天主様は1つの事を条件にしました。それは天主御父が、「マリア様であるならば、御子を委ねる事ができる。」イエズス・キリストも、天主御子も、「マリア様の元であるならば、自分を委ねて、この世に救い主に来る事ができる。」天主聖霊も、「マリア様のご胎内であれば、救い主を形作る事ができる。」という事です。洗者聖ヨハネも、旧約の教えも、そして天主三位一体も、皆、マリア様を示しています。マリア様に近付けば近付くほど、私たちがイエズス・キリストの祝福を受けて、イエズス・キリストを受ける事ができる、という事です。
最初の奇跡、洗者聖ヨハネの聖化も、マリア様の御声、挨拶によって起こりました。肉体的な奇跡、カナでの婚宴でも、水がブドウ酒になる時に、「あの人たちにブドウ酒がありません。」と、マリア様が仰ったからこそ、イエズス様は、「婦人よ、それがあなたと私の間に、一体何の関係があるのでしょうか。私の時はまだ来ていません。」と言って、それでもマリア様が、「この方の言う通りになさりなさい。」と言うので、奇跡が起こりました。
イエズス様は、いつも必ずマリア様を通して私たちの元に来ますし、マリア様を通して奇跡を行いますし、マリア様を通して、私たちに恵みを下さいます。これが聖書の教えです。これが天主様がなさるやり方です。イエズス・キリストがなさったやり方です。洗者聖ヨハネがそうやって教えています。
そこで今日は、待降節ですから、良きクリスマスになりますように、マリア様に特にこの待降節の間お祈りなさって下さい。マリア様の元にいつも心を上げて、たくさんお祈りをなさって下さい。マリア様と共に犠牲を捧げて下さい。そしてヤコブの様に、マリア様に私たちの心も体もお捧げ下さい。マリア様がそれを、良い料理に、美味しい料理にして、天主に捧げて下さいます。マリア様が私たちにイエズス・キリストを着させて下さいます。そしてそれのみならず、私たちのみならず、私たちの友人や知人方も、イエズス・キリスト様を受ける事ができるように、マリア様にお祈りなさって下さい。多くの方が、イエズス・キリストの御恵みを、このクリスマスに受ける事ができるように、どうぞお祈りをお願いします。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。