【書評】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(1)
「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」という本については、その存在を知っていた。菊地大司教の書いたコラムについて言及したこともある。
しかし谷口神父はそれの書評を書いていた。谷口神父の書評について知ったのは、日本カトリック正義と平和協議会の「声明文」のおかげだ。谷口神父は自分のブログで「問題」の書評の全文を公開し、紹介している。それを読むと、この書評では問題を深く取り扱っていることがわかる。何故、日本で働いている二人の司教がこの書評を断罪しなければならないのかわからない。
書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで(上)」には、〈不都合なケース〉が紹介されている。
女性たちや子供たちはどう身を護ればいいのか?
谷口神父が指摘しているのは、「客観的で生物学的な基準に基づく外見上の男性(あるいは女性)」がなんであろうと、「自己申告による自認男性(あるいは女性)」に従って、社会も行政も「自認」に従って取り扱わなければならず、そうしないと罰せられる法律が生まれている、ということだ。
つまり「見た目は男性の自認女性」が、「見た目も女性の自認女性」の更衣室やシャワー室、温泉の女風呂に裸で闖入(ちんにゅう)し、レイプ事件が頻発している現実がある。
スポーツの世界では「見た目は男性の自認女性」が「見た目も女性の自認女性」に勝ち、優勝する。
さらにひどい被害者は子供たちだ。アメリカなどでは、子供たちにジェンダー・イデオロギーを押し付け、「男の子でも女の子でも、どちらでも好きなほうになれる」誘導して、その子の「自認した性」に誘導し、手術を含めて固定化しようとすることが行われている。
性自認の法律ができた場合、女性と子供たちにとっては、自分を守ってくれるものがなくなってしまう。
そればかりか、トランスジェンダーだったその人たちが、トランスジェンダーしたことを苦しみ後悔し自殺率が増加している。彼らは元に戻って幸せになっているという事実がある。
ヨーロッパの一部の国では、法律は、父、母ではなく「親1」「親2」と呼ばれている。父あるいは母だと自認している人々でさえ、自分たちのアイデンティティが認められなくなっている。
客観的な基準で判断するのは差別か?
男女を外見や遺伝子で判断すると差別とされるならば、その論理に従うなら、年齢による区別も差別になるだろう。なぜ未成年は結婚できないのか、なぜ老人だけが定年があるのか、「年齢自認」も認めなければならなくなる。年齢だけではない。学歴も差別だ。資格も差別だ。入試も差別だ。「自認医者」にも開業させろ。俺は「自認国会議員」だ、「自認聖徳太子の子孫」だ、という話に発展する。なぜ「自認女性」は認めて、ほかの「自認」は認められないのか?
まちがった原理を認めるならば、その論理的な結果も全て受け入れなければならなくなるからだ。
外国では、15歳の少女を自認する31歳トランス男性が他の女子と一緒にシャワー浴びる事を許可されたそうだ。これも受け入れなければならなくなる。
「埼玉県LGBT条例基本計画案に対するパブコメ」では、ほとんどの声が反対だった。しかしそれらは全く無視された。つまり「パブコメ」は形式だけで、LGBTの声だけを聞くためにあり、女性の声をきくためにあったのではなかったのだ。
富士見市議会議員 加賀ななえは、安全を求める女性の声が「差別」とされたのに驚き、女性の人権、生存権が尊重されていないことに声を上げた。https://twitter.com/Nanaekaga/status/1629798035726409734?cxt=HHwWjIDR8bWrmp4tAAAA
(続く)
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