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札幌での講話のメモ「ミサとは何か」その一:旧約時代の出来事はミサ聖祭の前兆であった

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2023年2月23日、札幌で聖伝のミサを捧げましたが、その後で講話「ミサとは何か」をお昼の休憩をはさんで行いました。愛する兄弟姉妹の皆様に「ミサとは何か(その一)」のメモをご紹介いたします。メモで、語調が統一されていません。その一では、旧約時代の出来事が、ミサ聖祭の前兆であったということを示そうとしています。聖伝のミサこそ、旧約の全ての律法と預言の完成であることを、ここで垣間見ようとしています。

ミサとは何か(その一)

1)ミサの核心:始めに
イエズス・キリストの犠牲は、教会の中心、私たちの救いの中心、全人類の歴史の中心、私たちの霊魂の中心。
ミサの犠牲、ミサ聖祭に関わることは、私たちに深くかかわる。
旧約は、ミサ聖祭を予告していた。前兆であった。
ミサ聖祭は、私たち一人ひとりに個人的に深い関係がある。
私たちの霊魂の救いのために主の犠牲に、ミサ聖祭に与らなければならない。
秘跡を受けることは、主の贖いの御血の功徳を受けること。
洗礼を受けることは、主の御血で罪が洗われること。
御聖体を受けることは、主の御体をうけること。

四旬節は、主の贖いの業を思い起こして一致する聖なる時期。
ミサ聖祭に与ること、御聖体を拝領することは、最高の手段。
ミサ聖祭のことを考えることは、御聖体を拝領するための最高の準備。
イエズス・キリストの犠牲は、人類の歴史において、最大の愛徳の業。これ以上はありえない。
無限に聖なる天主が、罪人の私たちのために人となって、罪人の私たちの代わりに苦難と死を受けた。「愛するもののために自分の命を与えるよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

イエズス・キリストの御托身の目的は、十字架の上でご自分を捧げることだった。それ以外の何物でもなかった。
ミサ聖祭は、十字架の継続、続き、延長。イエズス・キリストはミサ聖祭を通して、世の終わりまで十字架の犠牲を続ける。ミサ聖祭こそ最高の祈り、最高の信心業、最高の行い、教会の最も主要な基礎的な信心。
イエズス・キリスト御自身が私たちに下さる最高の贈り物、プレゼント。
十字架のいけにえに取って代わりうるものはない。ミサ聖祭に代わるものはありえない。

1)ミサは旧約の完成

旧約聖書の前兆:イエズス・キリスト
聖パウロはこう言います。「アダムは、来るべきお方の前兆であった。」(ローマ5:14)イエズス・キリストは旧約の全てを解き明かし、完成されました。
旧約の意味、人類の歴史の意味を知る鍵は、イエズス・キリストです。まずイエズス・キリストという本物・原型があって、それを映し出すシルエットとして、旧約が成立しました。「はじめにみことばがあった」(ヨハネ1:1)のです。聖ヨハネはこう言います。「万物はかれ(みことば)によってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1:)

例えば人祖アダムについていえば、イエズス・キリストこそが実体であり、アダムはその影にすぎませんでした。言い換えるとイエズス・キリストが典型であり、ひな形です。アダムはその写し、劣化コピーです。
歴史的には、人祖アダムが最初に来ました。イエズス・キリストは歴史的には第二のアダムと呼ばれています。私たちの主は、御自分のことを「人の子」と呼びます。つまりヘブライ語によれば「アダムの子」です。しかし、天主の創造の順序としては、意向・設計図・ブループリントであるイエズス・キリストがまずあり、それに従ってアダムが造られたのです。

【アダム】
イエズス・キリストは実体であり、アダムはその影にすぎませんでした。イエズス・キリストこそが典型であり、原型であり、ひな形です。アダムはその写し、劣化コピーです。
なぜ天主はエワをアダムと同じように土から造らなかったのか。天主は、アダムが起きていたとしても、もしも必要ならば、痛みもなく肋骨をとることができたではないか。なぜアダムは眠りにつかなければならなかったのか、…聖ボナヴェントゥラは言います…これはキリストの死を意味するためにわざと天主がそうしたのだ。なぜエワがこのあばら骨から取られたかというと、十字架の上で死の眠りについた、そして三日目に目をさます、第二のアダムのわき腹から水と血が出て、それが第二のエワ、キリストの花嫁だ、教会を意味するためにわざとそうしたのだ、教父たちは説明しています。
人となったみことばであるイエズス・キリストがなさろうとする人類の贖い、愛と従順による御受難と死とを通した人類救いの事業を映し出すイメージとして、裸のアダムは眠りにつかされました。十字架の上で死の眠りにつくイエズス・キリストの心臓(つまり聖心)が貫かれた時、わき腹から、水(洗礼)と血(御聖体)がでて、キリストの唯一の花嫁である教会が生まれました。カトリック教会です。教会の唯一性を表すために、天主は眠るアダムの脇の骨からエワを造ります。天主は男と女とに作りました。それ以外ではありません。創世記には、男と女としかないことが、何度も繰り返してそれが強調されています。今のエキュメニズム運動は、自然界のレベルにおけるLGBTQ+推進運動に対応しています。
アダムが最初の罪を犯した時から、全宇宙は人間に逆らい始め、大地さえも逆らいました。大地からは茨が生え出て、そして額に汗をして、労苦して、糧を得なければならなくなりました。その茨をイエズス様は自分の頭(かしら)に、額に受けました。イエズス・キリストはまさに茨の冠を被ることによって、贖いの王となるべきでした。
かつて楽園にいた王、第一のアダムは、罪によってその王国を失ってしまいました。エデンの園から追放されてしまいました。地獄に落ちる身となってしまいました。第二のアダムは、その王国を回復するために十字架の木を使います。十字架の木によって王として私たちを支配します、統治します。王国へと導きます。

【カインとアベル】
カインは大地の恵み労働の実りをささげ、アベルは小羊を捧げた。しかし天主はアベルの犠牲だけを嘉された。カインは嫉妬してアベルを殺害する。

【ノエ】
イエズス・キリストは、御父に従順でした。「私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らねばならない。」(ヨハネ14:31)「私は父の掟を守り、その愛にとどまった」(ヨハネ15:10)「父よ…、私はあなたがおこなわせようとおぼしめしたわざをなしとげて、この世にあなたの光栄をあらわしました。」(ヨハネ17:7)このイエズスの従順と柔和を映し出すイメージとして、旧約のノエは「天主が彼に命じたことを全て行った」(創世記6:8, 22, 7:5)のです。
イエズス・キリストは、まことのぶどうの木です。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。」(ヨハネ15:)キリストが教会を造るという原型を表すコピーとして、ノエは、箱船を作り、大洪水の後に箱船から出て、ぶどう畑を作ります。聖イエロニモによると、この箱船もぶどう畑も、来るべき教会を意味します。
イエズス・キリストが御受難というブドウ酒に酔い、自分の民族であるユダヤ人たちの手にかかり、天主の本性ではなく人間の本性の弱さを見せて裸になって苦しまれます。それのあらかじめ示す影として、前兆として、ノエは自分のぶどう畑から作ったブドウ酒に酔って自分の天幕の中で裸になって寝てしまいました(聖アウグスチヌス De Civitate Dei XVI, 2)。ノエの三人の子供たち(セム、カム、ヤフェト)は、全人類を表しています。ノエの二人の息子は、後ろ向きに歩いて裸の父親のノエに被せます。過去となったキリストの御受難は、御聖体というベールに隠される、という意味です。ノエの裸の眠り(キリストの十字架における御受難)を大切にするか、あるいはあざ笑うかによって、祝福を受けるか、あるいは呪われるかが決まります。

【メルキセデク】
アブラハムの願いによって、大司祭メルキセデクがパンとブドウ酒を主に捧げました。これはイエズス・キリストにおいて成就します。キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10:14)にすることができる、「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」だからです。

【アブラハムとイサアク】
アブラハムが、ヤーヴェからイサアクを生贄に捧げるようにと命じられた時に、その通りにしました。アブラハムがイサアクを屠(ほふ)ろうとしたその瞬間、ヤーヴェからストップの声が掛かります。その代わりに茨に頭が絡まっていた雄羊がみつかり、これを代りに捧げろと、言われました。


私たちの代わりに捧げられる子羊には茨の冠が被せられなければなりませんでした。天主の小羊である主が茨の冠を被るべきことは、すでに予告されていたのです。
尊者ベーダによると、イサアクはキリストの御神性を意味し、雄羊はキリストの御人性を意味していた。イサアクは屠られなかったが、雄羊だけが屠られた。キリストの御人性だけが苦しまれた。

【ヤコブ】
キリストは御托身により人間となり、天から地上に降りて来られました。地上では、ベトレヘムで御降誕され、エルサレムで御受難を苦しまれ、御昇天されました。この地上での旅路は、御自分の唯一の花嫁である教会を作るためでもありました。それを映し出すかのように、ヤコブは、花嫁を探してベエルシェバからハランに行きます。アブラハムは、天主から呼ばれてハランからベエルシェバに行きますが、もしこれがキリストの御托身を意味するとすれば、アブラハムの孫であるヤコブの道のり(ベエルシェバ→ベトレヘム→エルサレム→ベテル)は、御降誕→御受難→御昇天(ベテル)を意味していると言えます。この旅の途中、ヤコブは或るところ(後にベテルと名づけられる)で、石を枕にして眠りにつきます。すると夢の中で天に上る階段を見ます。階段には天使たちが天に昇ったり天から下りたりしています。ヤコブが頭を置いた岩は祭壇と同時にキリストご自身を意味します。聖イレネオは、階段は十字架の前兆を意味すると言います。十字架だけが天国に行くことを許す階段だからです。

【ヨゼフ】
旧約の太祖ヨゼフを見てみます。ヨゼフは父親のイスラエルから特別に愛された子供でした。天主御父は、イエズス・キリストの洗礼の時、またタボル山でも、証言しています。「これは私の愛する子である」と。

ヨゼフの前で「だれもが跪かなければならない」(創世記41:43)。ヨゼフは「計り知れなく寛大に」(創世記41:49, 54-55)パンを与えて、「多くの人びとを救った」(創世記50:20)ので、「世の救い主」(創世記41:45)とも言われています。
イエズス・キリストも、「救い主」(マテオ1:21)と呼ばれ、「イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわす」(フィリッピ2:10)のです。主は私たちに「日用のパン」(マテオ6:11)として御自分の体を「この世の命のために」(ヨハネ6:52)御聖体として与えます。

ヨゼフは、兄弟たちの嫉妬により井戸に投げ入れられ(殺害)ます。
エジプトではポチファルの妻は、ヨゼフを誘惑します。「私と一緒に寝よう」と。しかしヨゼフはそれを拒絶して、つかまれた服をそのまま脱ぎ去っても彼女から逃げ去ります。しかし正にヨゼフは、彼女に拒否したそのことを理由に、偽証の陥(おとしい)れるところとなり投獄されます。
イエズス・キリストもユダヤの衆議所(サンヘドリン)から誘惑を受けます。衆議所は世俗の国家権威であるローマ当局(ポチファル)のもとにありました。衆議所と一緒になって、ユダヤがローマから独立するように、政治的な王とならないか、と。イエズス・キリストはローマ皇帝に政治的に対抗して反乱することを拒否します。しかし、まさに、御自分が拒否したそのことを理由に、十字架につけられます。衆議所は、イエズスがモーゼの律法を破り、また、神殿を破壊すると言ったとして、イエズスを告発します。しかし、衆議所自身が、イエズスを裁判にかける時モーゼの律法に背いて行い、イエズス・キリストの体という本当の天主の神殿を破壊します。

ヨゼフは、子供のころ父親のもとにいて高価な「色とりどりの服」を着ていました。次に奴隷の服を着せられ、これさえも奪われます。最後にはファラオから「絹の服」を与えられます。これは、イエズス・キリストが、最初天主御父の懐におられたとき、天主の栄光を楽しんでおられます。次に「本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。」(フィリッピ2:7)最後に、主は復活され、昇天され、人間として最高の栄光を受けられます。主の体は、腐敗せず栄光に輝いています。

イエズス・キリストは十字架の上で死の眠りにつきます。イエズス・キリストの太祖ヨゼフは父のもとで眠って夢を見ます。また牢屋で夢を解釈します。ヨゼフだけが見る夢であり、ヨゼフだけが夢を解釈することができました。

【モーゼ】
キリストの制定するミサ聖祭の前兆として、イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげられた旧約の過越(出エジプト記12:1以下)が命じられました。

私たちの主イエズス・キリストは、二人の盗賊の間に十字架につけられ、十字架の上で両手を広げて祈りつつ、私たちのために御自分をお捧げになりました。十字架の功徳によって、私たちは罪と悪との戦いに勝つことができます。それを映し出すかのように、ヨズエがアマレク人と戦っているとき、モーゼは両腕を広げて祈りました。モーゼが(あたかも十字架につけられて)両手をあげて祈っている間は、ヨズエの軍隊は勝ちますが、モーゼがつかれて手をおろしてしまうと、ヨズエは負け始めます。そこで、アアロンとフルの二人は、モーゼの両手を支えて十字架の姿を取り続けるようにさせます。ヨズエはキリスト者である私たちの前兆です。ヨズエの大勝利の後、モーゼは自分の立っていたところに記念として祭壇を作ります。これはミサ聖祭を意味する遠いイメージです。

【サムソン】
イスラエルの判事であるサムソンは、イエズス・キリストの御誕生、御生涯、御死去を映し出す影です。サムソンの母親は、天使のお告げにより奇跡的な懐妊が告げられました(判事13:3)。最高に強い男で民の救いのために敵に対して必ず勝利していました。生涯の最期に敵は彼を殺害することを企み、サムソンの眠っている間に討とうとします。しかしサムソンは眠りに打ち勝ち目覚めて、自分が付けられていたドアや門や柱(みな木でできていました)を、全て肩に背負って丘の上まで持っていきます。

【ヨナ】
嵐でもまれる船の中で眠る人がいるとすれば、それはイエズス・キリストと旧約のヨナだけです。イエズスは嵐を叱って「静まれ!」とひとことで凪にさせます。ヨナは自発的に海に投げ入れられることによって嵐を静めます。イエズス・キリストは、人類を沈没させる死の嵐を、御自分の自発的な御受難によって克服しますが、ヨナはその原型の写しでした。
「ヨナは三日三晩、海の怪物の腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる。審判の日に、ニニヴェの人は、今の代の人とともに立ちあがり、今の代を罪に定めるだろう。なぜなら、かれらは、ヨナのことばをきいてくいあらためたからである。しかも、ヨナにまさる者が、ここにいる!」(マテオ12:39)

【マラキア】
マラキア預言者を通じて予告したいけにえ、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない清い捧げ物が、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1:11参照)とも予告されていました。


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