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ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

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ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似ていない。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠く。

Benedict XVI exposed the ‘destructive’ lies of gender ideology and the LGBT movement

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ヨゼフの祝日おめでとうございます!

今日の混乱の危機において、ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向(sexuality)に関して切実に必要とする明瞭さを与えています。この記事の日本語訳が、日本におけるカトリック教会の司教さま方と、カトリック新聞を編集される方々と購読者の皆さまの参考資料としてお役に立てれば幸いです。

ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の

「破壊的な」嘘を暴露する

レイモンド・ウルフ

2023年1月23日(月曜日) 米東部標準時間午後9時間54分

(LifeSiteNews)―ジェンダーと性のイデオロギーは、社会のほぼすべてのレベルでかつてないほど飽和状態に達しており、それにどう対処するかについての指針はほとんどないように思えます。

カトリック教会においてさえ、LGBTに好意的な高位聖職者たちがバチカンを支配しており、以前は疑いようのなかった性倫理に関する教理を、公然と否定する司教が増えています。

人間の本性と道徳という最も基本的な事実に関するこの混乱の危機において、教皇ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向に関して切実に必要とする明快さを与えています。

ベネディクトは、1963年には早くもジェンダー・イデオロギーがもたらす脅威を認識していました。当時、ミュンスター大学での【教授】就任講義で、「男と女の違いの廃止」や、「最初から備わっていた人間の本性」に対する攻撃を断罪しました。

教皇聖ヨハネ・パウロ二世の下での教理省(CDF)のトップとして、同性愛に関する書簡(1986年)や、同性同士の結合に対する断罪(2003年)フェミニズムに対する断罪(2004年)など、性的指向に関する聖伝のカトリックの教えを擁護する、今でも適切な文書をいくつか書きました。

ベネディクト十六世は、教皇として、真理の擁護および生きる権利の擁護と並んで、結婚とキリスト教人間学の推進を教皇職の主要な優先事項としていました。

このバイエルン人の教皇ほど、ジェンダー・イデオロギーやLGBT運動に対抗して雄弁に、そして情熱的に世界を舞台に語った人はほとんどいません。この事実は、国際的左翼の不滅の憎しみを買ったのです。

「男女の正しい関係という問題は、人間存在の本質的な核心に根ざしています」と、彼は教皇選出直後の激しい演説で述べました。その問題に対する間違った答えの中には、同性「結婚」や、「肉体の発見で通用するものの、実際には肉体を卑しいものとする二元論」であるその他の形態の「性的放縦」があります。

ベネディクトは、ジェンダーと性的指向に関する自分の教えの根拠を、創世記にある記述、自らが「創造主の結婚に関する計画の三つの基本的要素」と呼ぶものに置きました。それは、天主は人を男と女に創造し、彼らの間に婚姻を成立させ、生命を伝達する使命を与えた、というものです。

彼は、これらの基本的な真理を損なうイデオロギーは、文明の未来と「人類社会全体の善」に対する重大な脅威だとみなしました。これらのイデオロギーを打ち負かし、結婚と家族の聖性を促進するための戦いにおいて、彼の教えはかけがえのない資源です。

ベネディクト十六世:ジェンダー・イデオロギーは「存在という概念そのものを攻撃している」

ベネディクト十六世は、男女の実在を否定するジェンダー論を、人間を真理から切り離し、「自己破壊」に導く相対主義の一形態であると特定しました。

ベネディクトは教理省長官だったとき、世界のカトリック司教たちに宛てたフェミニズムに反対する2004年の書簡で、ジェンダー論の主張を解体しました。

「この観点によれば、人間の本性は、それ自体で絶対的な形で特性を持つわけではないとされる。すべての人は、その本質的な構成に関連するあらゆる事前決定から自由であるため、好きなように自分を構成できるし、そうすべきだ、とされる」と、彼は書いています。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放する試みだと分かる」。

ベネディクト十六世は、左翼メディアのヒステリックな反発を招いた2008年のローマ教皇庁でのクリスマスの発言のように、教皇としてジェンダー論への批判を新たにしています。

「教会が人間の本性を男と女として語り、この創造の秩序を尊重するよう要求するとしても、これは時代遅れの形而上学ではありません」と、彼は宣言しました。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放しようとする試みだと分かります。人間は自分自身の主人になろうと欲し、自分に関することはすべて自分一人で、常にかつ独占的に、決定しようと欲しているのです」と述べました。

しかし、これは不可能なことだとベネディクトは説明しました。自分が創造された本性をもっているにもかかわらず、自分自身を「決定」しようとするならば、人間は「真理と対立し、創造主の霊と対立して生きる」のであり、最終的には「人間自身の自己破壊」という結果になるからです。

それは、先見の明がある観察でした。数年のうちに、欧米では「性別移行」(gender transitions)が爆発的に流行し、何万人もの子どもたちが「性別の肯定、確認」(gender affirmation)の名の下に去勢し、肉体を切除することになるからです。

性別とジェンダーに関する混乱が急増する中、ベネディクトは2012年のクリスマスに行った別の力強い講話で、ジェンダー論が「存在という概念そのもの」を攻撃していると非難し、その断罪をさらに強めました。

彼は、性別が「もはや与えられた自然の要素ではない」とする「この理論の明白」かつ「深い虚偽」を非難しました。彼は、フェミニスト作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女として生まれるのではなく、女になる」という宣言を取り上げました。

ボーヴォワールのフェミニズムには過激な「人間学的革命」が含まれており、人間からその本性を奪い取り、人間を単なる「抽象的な人間存在」に貶めてしまっている、とベネディクトは述べるのです。

「人々は、自分には肉体のアイデンティティーによって与えられた、人間を定義する要素となる本性を人々が持つという考え方に、異議を唱えます。彼らは自分の本性を否定し、それは以前から与えられていたものではなく、自分自身で作り出したものだと決めつけます。(…)【彼らによると】創造された現実としての男と女、人間の本性としての男と女は、もはや存在しない、とされます。人間は、自分の本性に疑問を投げかけます。これからは、人間は単なる精神と意志にすぎないとされます。今日、私たちの環境に関する分野で、私たちは自然の操作を嘆いています。しかしこの自然の操作こそが、今や、人間自身に関する分野では、基本的な選択となっているのです」。

二つの性別は現実のものであり、霊魂と肉体の両方を定義する

ベネディクト十六世は、ジェンダー・イデオロギーという嘘に対抗して、二つの性別という現実を、啓示された真理として強調しました。両性は、流動的な「社会的に作られたもの」ではなく、不変で内在的に異なるものであり、人間生活のあらゆる面を形作っていると、説きました。

「男と女は創造の最初の瞬間から別個の存在であり、永遠にそうあり続けるでしょう」と、ベネディクトはフェミニズムに反対する書簡の中で書きました。

彼は、「天主はご自分にかたどって、人間をつくり出された。人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された」(創世記1章27節)という、創世記の「すべてのキリスト教的人間学の不変の基礎」を引用しました。

男であることと、女であることは「存在論的に創造に」属する、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で永続する」

「それゆえ、正に最初から、人類は男性と女性の関係で明確に表現されている」と彼はコメントしています。「これこそが人類であり、性によって区別され、これが『天主のかたどり』と明確に宣言されている」。

ベネディクトはまた、性別は、肉体だけではなく、霊魂にも適用されることを明確にしました。

性別による差は、「肉体的なレベルだけでなく、心理的、精神的にも男女を特徴づけており、表現の一つ一つにその痕跡を残している」と、彼はバチカンの指針を引用して書いています。「それは、単なる重要性のない生物学的な事実に矮小化することはできず、むしろ『人格の基本的な構成要素であり、存在、発現、他者との意思伝達、感情、表現、人間愛を生きる様式の一つである』」。

男性であるか女性であるかは、「人間という被造物の本質に付随する。この二元性は、天主によって定められたように、人間であるということのすべてに関する本質的な側面の一つである」と述べました。

性の区別は、人間の本性に非常に深く刻まれているため来世でも存在する、とベネディクトはさらに説明します。男であることと女であることは「存在論的に創造に」属するものであり、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で存続する」と述べ、黙示録にある「小羊の花嫁」である女性的エルザレムのイメージを指し示しました。

ベネディクト十六世が宣言した性別に関するキリスト教の真理は、ジェンダー・イデオロギーに矛盾対立します。しかしこの真理は、事実、生物学的な現実と一致しています。

現代の生物学は、性別は受胎時に決定され、個人のDNAと全身の何兆個もの細胞にコード化されることを示しています。性別による差は、「神経科学のあらゆるレベルで」脳に影響を与え、病気のリスクから、認知プロセスや感情のプロセスに至るまで、あらゆる面で男女間の相違点をもたらしていると示しています。

米国小児科医師会によると、「遺伝性疾患を除いて、女性は、有核体細胞中に2本のX染色体を有し、男性は有核体細胞中にX染色体とY染色体を有しています」。「人の性的な外見を変えても、その人の遺伝情報を変えることにはなりません」。

男性と女性:互いのために造られた

ベネディクトは、二つの性による違いを強調する一方で、その基本的な補完性も強調しました。これもジェンダー論やその関連イデオロギー、特にLGBTイデオロギーによって脅かされている人類学上の基本的な事実です。

性による補完性を否定することが、結婚に性別は関係ない、男女は充足のためにお互いを必要としないという前提に基づく同性間の「結婚」の考えの支えとなっています。

ベネディクトは、このような誤謬に対して、自らの教えの中で反論し、男女は同性同士ではなく、明確に互いの完成のために創造されたということを強調しています。


天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」を持っている

彼は、最初の回勅「神は愛」(Deus Caritas Est)の中で、男女の補完性を再確認し、再び創世記に言及しました。創世記で、天主はこう宣言しています。「人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう」(創世記2章18節)。

「他のすべての被造物の中には、人間が必要とする助け手となることができるものは誰もいない」と、ベネディクトは書いています。「そこで天主は、人間のあばら骨から女をつくられた。アダムは、自分が必要としていた助け手を見つけた。『これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉』」(創世記2章23節)。

ここで、聖書の中には「異性との交わり(communio)においてのみ、人間は『完全』になりうるという思想」があると教皇は述べました。

ベネディクトは、フェミニズムを糾弾する書簡の中で、同じテーマを長く論じています。

「天主によって形作られ、自分が耕さなければならない園に置かれ、今でもアダムという総称(種の表現)で呼ばれる男は、動物たちが存在していても克服できない孤独を経験した。男には、自分のパートナーとなる伴侶(helpmate)が必要である。ここで、この言葉(伴侶)の意味は、劣った者ではなく、不可欠な助け手のことだ。これは、アダムの人生が、自分との不毛な出会いとなり、最後にはそれが破滅の出会いにならないためである」。

「同じ『肉』からつくられ、同じ神秘に包まれた女だけが、男の人生に未来を与えることができる」と、彼は記しました。

天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」【男と女の二人は補完しあって一つとなる】を持っており、その結果、「『一致・二元性』(uni-duality)という調和のとれた関係」をもたらしている、とベネディクトは述べています。原罪は、その関係に不調和と欲情をもたらしましたが、その関係の本質的な秩序と善を破壊するものではありませんでした。

ベネディクトが中心となって発展させた「カトリック教会のカテキズム」も同様に、「男と女は『相互のために』造られ」、天主の意志によって「相互の交わりのため」、「男性、女性としては補い合うものです」と教えています【同カテキズム372】。

結婚の真理は「人間の精神」の中に刻まれている

互いを完成させるために天主によって造られた男女は、気軽で表面的な関係のためでもなく、結婚のため、つまり、自分を完全な贈り物とし、精神と肉体が一体となって解消のできないようになるために造られています。

ベネディクト十六世は、一人の男と一人の女の間でなされ、出産を目的とする結婚の本性を断固として擁護しました。彼の結婚についての神学は、再び、結婚が男女の本性に固有のものであると断言する創世記から始まります。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、二人は一つの肉となる」(創世記2章24節)。

「神は愛」の中で、このことについてベネディクトはこう書いています。「アダムは女性を見つけるために『母と父を捨てる』探究者であり、二人が一緒になって初めて完全な人間を表し、『一つの肉』となる」。

「創造の立場から、性愛(eros)は人間を結婚に向かわせ、唯一で決定的な絆に向かわせます。こうして、またこうすることによってのみ、その最も深遠な目的を果たす」と彼は付け加えました。

創世記はまた、結婚が基本的に出産に向けられていることを明らかにしている、とベネディクトは説明しました。

「天主は、男と女の結合を、天主の創造のみわざに特別にあずからせることをお望みになった。こうして、天主は『産めよ、増えよ』という言葉で男と女を祝福された(創世記1章28節)。それゆえ、創造主の計画では、性的な補完性と出産をもたらすことは結婚の本性に属する」。

子どもの多い結婚も同様に、両性の本性に属する。ベネディクトは、性別による差は「聖書にあるように、男女が一つの肉となることによって、生命の伝達に開かれた人々の真の交わりを実現し、それによって、新しい人間の出産のために天主と協力するという愛の形を表現している」と書いています。

「天主は、私たちを男と女に造られた。両者は、尊厳においては平等だが、同時に、それぞれの補完的な特徴を持っており、それは、両者が互いのために贈り物となり、互いを大切なものとし、愛と命の共同体を実現させるためである」と、彼は2012年の世界家庭会議の説教で述べています。

最近では、名誉教皇として、「男女の共同体と生命の伝達に開かれていることが、結婚と呼ばれるものの本質を決定する」と、彼は書きました。

社会運動やイデオロギーが結婚の原理を攻撃することはできても、人間の本性からそれらを根絶することはできない、とベネディクトは主張します。

「いかなるイデオロギーも、結婚は一組の男女の間にのみ存在するという確信を人間の精神から消し去ることはできない。男女は、固有で排他的な互いの個人的な贈り物によって、互いの人格の交わりに向かう傾向がある。このようにして、彼らは、新しい人間の命の出産と育成において天主と協力するために、互いに完成させる」。

同性の間の結合は、自然法と、天主の結婚の設計に「絶対的に」反する

結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである、とベネディクト十六世は教えました。

枢機卿として、そしてローマ教皇として、彼は、同性の肉体関係が本質的に悪であり、無秩序であることを再確認しました。彼の言葉によれば、その関係は、決して結婚や結婚に「ほんのわずかであっても」似たものを構成することはできない、です。

「同性間の結合を、天主の結婚と家族に関する計画と似ているもの、あるいは、ほんのわずかであっても類似していると考える根拠は全くない」と、彼は同性の結合の法的承認に対する2003年の教義信仰省の厳しい断罪文書の中で書いています。

同性の関係は「結婚と家族の生物学的、人類学的要素」や「人間的で秩序ある形の性のありかたを表す夫婦の次元を欠いている」と、彼は付け加えました。

ベネディクトは、「結婚は聖なるものであり、一方、同性愛の行為は自然の道徳律に反し」、「出産と人類の生き残りに適切な形で貢献する」ことはできない、と強調しました。

言い換えれば、同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似てはいないのです。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠いている、と言います。

母親や父親を奪われ、そのような環境で子どもを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と彼は書きます。

そのような関係は当然、本物の愛を反映することはできません。それは「本質的に身勝手(self-indulgent)」であり「本当の愛情と性的補完性とから出るものではない」のです。ベネディクトは、1986年に出された教理省の「同性愛者の司牧に関する書簡」の中で「同性愛の行為は生命を伝達することのできる補完的な結合ではない。従って、福音がキリスト教的生き方の本質であると述べている自己犠牲的な形の生活への呼びかけを妨害するもの」と書いています。

そのため、ベネディクトは、同性同士の「結婚」を、「正当な家族」とは対照的な「疑似結婚」であるとしました。そのような環境で、母親や父親を奪われた子どもたちを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と書いています。

また、同性愛の傾向そのものも、賞賛すべきものとは程遠く、「客観的に見れば、無秩序なもの」であると明確にしました。

ベネディクト十六世は教皇在位期間中、同性間の関係を法的に認めることに反対して厳しい言葉で警告し、この関係を「重大な誤謬」であり、「共通善に対する今日の最も陰湿で危険な脅威」の一つであると非難しました。

ベネディクトは2008年の世界平和の日のメッセージの中で、「たとえ無意識であっても、家族という制度を避ける者は、国内的であろうと国際的であろうと、社会全体の平和を弱めているのです」と述べています。

ベネディクトはまた、同性愛とジェンダー・イデオロギーの間にある明確な関連性を指摘し、両者とも、人間の本質の基盤そのものを攻撃し、壊滅的な結果をもたらすものであるとしました。

同性愛という生活様式は、それを実践する人々を「破壊しようと常に脅かしています」と、1986年の教理省の書簡で書き、同性愛の生命を脅かす危険性とともに、重大な罪による霊的な害を指摘しました。

LGBT活動家グループが反映しているのは「唯物論的イデオロギー」であり、これはジェンダー論とは異なり「人間の人格の超越的な性質と、各個人の超自然的な召命を否定する」と教皇は述べました。

ベネディクトは、ジェンダー論が、LGBT運動を生み出し、LGPT運動の「多様な形態の性別を持つ新しいモデル」を実際に生み出した、と述べ、このモデルは、同性愛と異性愛とを「事実上同等」としている、と指摘しました。

「もし、創造において、あらかじめ定められた男女という二元性がないとすれば、家族もまた、もはや創造によって確立された現実ではなくなってしまいます」と、彼は2012年のクリスマス講話の中で述べました。

また、ジェンダー論と同様に、同性愛は、「人間が自分自身に対して好きなことをすることができる」という自由についての誤った感覚を反映している、とベネディクトは2005年のローマ教区大会の講話で述べました。「この疑似的自由は肉体を貶めることに基づいており、それには人間を貶めることが伴うのは避けられません」。

今日、カトリックの反体制派が同性愛に関する教理の変更を求めて騒いでいますが、ベネディクトは、この問題に関する教会の教えが決定的に定まっていることを繰り返し明らかにしました。

「教会は、天主の計画に従って(マテオ19章3-9節参照)、結婚と家庭はかけがえのないものであり、他の選択肢を許さないということを宣言するのをやめることができません」と、ベネディクトは教皇としての最初の書簡の一つの中で宣言しました。

同性愛に反対する現代のカトリックの教えは、「聖書の観点および自らの不変の聖伝と有機的に連続している」と、同性愛に関する1986年の教理省の書簡の中で、彼は書きました。

「カトリック教会のカテキズム」は、これを繰り返して、こう述べています【同カテキズム2357】。「同性愛行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、『同性愛の行為は内在的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました」。「どのような場合であっても、このことを認めることはできません」と付け加えています。


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