ルフェーブル大司教を擁護する:【付録】ルフェーブル大司教の賢明の徳
In defence of Archbishop Lefebvre
付録1 ルフェーブル大司教の賢明の徳
ルフェーブル大司教は、司祭生活の最初から行動の人でした。アフリカで神学校校長、宣教責任者、モルタンの修練院長、教皇使節にしてダカール大司教として責任ある立場にあり、次に聖霊修道会総長、そして聖ピオ十世会の創立者にして初代総長でした。さて、指導者に求められる特別な徳は、賢明の徳です。ルフェーブル大司教の賢明さは、超自然の賢明さであり、自分の意志ではなく、天主の御摂理によって現れた天主のご意志に注意深く対応するものでした。大司教は祈り、助言を求め、信仰の原則に照らして状況を徹底的に分析し、次に勇気をもって決断し、実行しました。大司教がかかわったものはすべて繁栄しました。おそらくそれは、大司教が自分の意志ではなく、まさに聖なる天主のご意志を探し求めていたからでしょう。
大司教は、これまでの宣教で、「通常ではない」(extraordinary)状況に対処することに慣れていたのであり、これは、欧州では通常の司祭(あるいは司教)が直面することのなかったものでした。ですから大司教は、私たちの状況が【宣教地の状況に】いかに似ているものであるかを、エコンでよく私たちに説明してくれました。
さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、賢明には或る特別な徳、つまり賢明の「能力の部分」(potential part)があり、それはまさに、例外的な状況下で何をすべきかについて正しい判断を下す能力を扱うものです。
「さて、通常の行動規則が当てはまらないことをしなければならない場合が時に起こる。…それゆえ、通常の法よりも高度な原則に従って、そのような事柄を判断する必要がある。…そして、そのようなより高度な原則に対応して、より高度な判断の徳を持つ必要がある。それは、『明察』(gnome、γνώμη)と呼ばれ、判断におけるある種の洞察力(perspicacity)を意味する」。
洞察力とは、状況あるいは環境を機敏に評価して、健全な結論を引き出す能力と定義されています。ルフェーブル大司教にはその徳があったのです。ルフェーブル大司教が教会の通常の法に従わなかったことを非難する人々は、教会の危機という例外的な状況を無視または否定しているように思えます。このことは、重大な見落としであり、彼らが明察(gnome)を持っていないことを意味しています。
ルフェーブル大司教は、4人の司教を聖別するという決断のために、文字通り何年も費やして内省し、祈り、助言を求めました。これはおそらく、大司教の人生の中で最も重要な決断でした。大司教は「天主の御摂理のしるし」を待ち、それはやって来ました。つまり、アッシジの諸宗教の集会と、「疑問点」へのローマからの回答でした。こういった非常に重大な誤謬をもっていない聖職者を信者が切実に必要としていることを示していました。
大司教は、アッシジの後の教理上の混乱という非常に「通常ではない」(extraordinary)状況の中で、霊魂の善のために、聖伝の存続のために、その決断を下したのです。ですから、聖伝は生き延びました。結実によって、天主は大司教の決断の正しさを示され、いつの日か教会もその決断を認めることになるでしょう。そのとき、大司教に、「並外れた」(extraordinary)程度の、これらの徳があったことが、認識されることでしょう。
付録2 ルフェーブル大司教の遺書
「愛する兄弟の皆さん、私は最後に、私の遺言と呼ぶべきものを述べたいと思います。遺言とは非常に深遠な言葉ですが、その理由は、私はこれを、私たちの主の遺言『Novi et aeterni testamenti.』(新たにして永遠の契約【遺言】)をまねたものにしたいと思っているからです。
『Novi et aeterni testamenti』――尊き御血の聖変化の際にこの言葉を唱えるのは司祭です――『Hic est enim calix Sanguinis mei: novi et aeterni testamenti.』(これ、新たにして永遠の契約なる、わが血のカリスなればなり)。イエズス・キリストが私たちに与えられたこの遺産、それは主のいけにえであり、主の御血であり、主の十字架です。すべてのキリスト教文明を、救いに必要なすべてのものを醸成させるものなのです。
ですから、私も、同じように、皆さんにこう言います。
●至聖なる三位一体の栄光のために、
●私たちの主イエズス・キリストへの愛のために、
●童貞聖マリアへの信心のために、
●教会への愛のために、教皇への愛のために、
●司教、司祭、すべての信者への愛のために、
●世の救いのために、霊魂の救いのために、
●私たちの主イエズス・キリストのこの遺言を守りなさい!
●私たちの主イエズス・キリストのいけにえを守りなさい。
●全時代のミサを守りなさい!
そうすれば、皆さんは文明が再び栄えるのを見るでしょう。この世の文明ではなく、天であるカトリックの国へと至る文明です。この世のカトリックの国がつくられているのは、他の何物のためでもなく、まさに天のカトリックの国のためなのです。
ですから、私たちの主イエズス・キリストの御血を守り、主のいけにえを守り、このミサ――先人たちから私たちに遺言として残されたこのミサ、使徒の時代から今日に至るまで伝えられてきたこのミサ――を守ることによって、です。あと少しで、私はこの言葉を叙階式のカリスの上で発しますが、50年前にこの同じカリスの上で発した言葉以外を、叙階式のカリスの上で発するなどと、どうして考えることができるでしょうか――それは不可能です! 私にはこの言葉を変えることなどできません! したがって、私たちは、先人たちが教えてくれたように、また、私たちの教師であった教皇たち、司教たち、司祭たちが教えてくれたように、私たちの主イエズス・キリストが統治されるよう、私たちの天の良き母の御取り次ぎによって霊魂が救われるよう、この聖変化の言葉を発し続けるのです。
アーメン!」。
今から20年前の1989年11月19日は、ルフェーブル大司教様の司祭叙階60周年でした - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さIndefenceofArchbishopLefebvre2023年3月4日FSSP...