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無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア ”騎士",その4つの重要な意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。
聖マキシミリアノ・コルベ神父様はなぜ「騎士」と呼ぶのでしょうか?

 私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っています。

 朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。この第2回目は「天使の出現」について黙想させ、「あふれんばかりの天主の現存」と「天主の御稜威(みいつ)」を学ぶことを。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベが無原罪の聖母の道具を「騎士」と呼んだのには、重要なわけがあります。聖母が、この世でのご自分の道具となるよう私たちに呼びかけられるのは、死の闇と影の中に座したままの愛する子どもたちを救われるためです。聖母はその霊魂たちに改心と聖化の恩寵という大量の光を差し込ませたいと望まれており、私たちはその光を伝える橋または経路となるべきなのです。しかしながら、隣人を愛するということを、マリア様を通じてまことに行うことは、単に義務を果たしたり霊操や苦行を行ったりすることではありません。これは戦争であり、絶え間のない戦いなのです。それゆえに、聖マキシミリアノは、まさに軍隊の用語を使ったのです。恩寵が霊魂に出会うときはいつでも、聖母は不倶戴天の永遠の敵に出会うのです。この敵、悪魔は、原罪を通してこの世の支配者なのです。無原罪の聖母の役割は、再び征服することです。霊魂を贖って、サタンの暴政の国から私たちの主イエズス・キリストの永遠の国へと向かわせることです。

私たちはこの「騎士」という称号を軽々しく考えるべきではありません。私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っているのです。

第一に、この称号は、私たちが戦闘の教会に属しており、この地上で生きるということは不倶戴天の敵同士の絶え間のない戦いであることを思い出させてくれます。

私たちの主は言われます。「誰も二人の主人に仕えることはできない。…破滅に至る道はいかに広く、救いに至る道はいかに狭く通りにくいことか」。主についてはこう言われています。「彼が立てられたのは、イスラエルの多くの人の堕落と復活、そして逆らいのしるしとなるためである」。「私と共にいない者は、私に逆らう者である」。聖ヨハネは言います。「彼は世にあった。…世は彼を知らなかった。彼はご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。…この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先にわたしを憎んだことを忘れてはならぬ。あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。…私があなたたちを選んでこの世から取り去った」。さらにその第一の手紙の中で、ヨハネは基本原理を明確に述べます。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない。世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る」(ヨハネ第一2章15-16節)。

聖パウロと教会の教父たちは、これ以外の教理を知りませんでした。聖アウグスティヌスは特に、救いの歴史のことを、天主の国と悪魔の国の終わりなき戦いであると要約しました。キリスト教のこの基本的考えは、例外なくすべての聖人に見られます。

天主を否定するフリーメーソンの扇動行為を目撃した聖マキシミリアノはこう書いています。「では、私たちは何をすべきなのだろうか、無原罪の聖母の騎士である私たちは…今日、私たちは、どちらの側に立つのかを断固として、また毅然として宣言しなければならない。無原罪の御母の連隊の兵士としてキリストの旗の下に立つのか、サタンの旗の下に、天主を憎むという反乱と背教の旗の下に立つのかを。私たちの主イエズス・キリストご自身が『私の味方でない人は私に背き、私とともに集めぬ人は散らしてしまう』と言われるように、ここには和解や妥協はありえない」。

私たち無原罪の聖母の騎士は、すでに決定を下しているのです。

さて、私たちは皆、現代の時代精神によって影響を受けています。今日、平和主義が教会内を支配しています。私たちはみな兄弟姉妹だ、敵はもはやいない、と教会内の人々は言います。平和、それが第一にして主要な標語なのです。彼らは言います、天主は戦争をお望みではなく、平和を望んでおられる、と。それに続いて、私たちは異なる信仰を持つ人々を理解するようにし、彼らを受け入れ、彼らの価値を知り、彼らと一緒に活動するべきだと言います。いずれにしても、人はすべて善意の人であり、それが、私たちが平和と幸福の新しい世界を建設している理由なのだ、と。そんなスローガンは教会の不倶戴天の敵によって何世紀もの間使われてきたという事実はさておき、そんな「宣言」は霊魂に対して犯すことのできる最悪の罪です。戦争は継続中であり、敵は攻撃し続けています。しかし、私たちの軍隊の将軍たちは武器を捨てるだけでなく、この敵を友と呼んで抱きしめさえし、非常に練りに練られた方法で誰かが背後から自分たちを傷つけていることに気がつきません。これが教会の危機なのです。ほとんど抵抗することなく、教会は霊魂たちを渡して、サタンの奴隷の状態にしているのです。

それゆえに、騎士は「一人ですべての異端をことごとく滅ぼし給うた」女の方の旗の下に立たなければなりません。この方はまた、現代の無神論という怪物ヒドラと戦う私たちを助けることがおできになります。カトリック信者は今日、戦いの精神で満ちていなければなりません。そうでなければ滅びてしまうでしょう。この敵は確かに大変危険です。なぜなら、目に見えず、形のない影響力として動員されてきているからです。人々をやさしい風のように包み、最強の壁を通り抜ける波長のように包みます。素敵でもっともらしく思えるフレーズに満ち、「バランスがとれ」、友好的で、親しみがあり、魅力的で楽しさに満ち、共感を呼ぶ感情があります。これが、敵が今日使っている毒なのです。このどこにでもいる死をもたらす敵との戦いを宣言することは、危険だと知られている明白な攻撃者に対処しなければならないことに比べれば、比較にならないほど困難です。この戦いはどのようなものか、敵の戦術はどんなものか、どんな武器やどんな戦略を使うべきなのか、といったことを考える前に、今が戦闘状態、実際、生死をかけた絶え間のない戦闘状態にあることを確信しなければなりません。「兄弟たちよ、節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ第一5章8-9節)。無原罪の聖母の騎士会会則の第一条は、この戦いを強調しています。「彼女はおまえの頭を砕くであろう」(創世3章15節)。もちろん、これは天国の地獄に対する戦争の宣言の最初にして唯一のものであり、無原罪の聖母の騎士の生き方を決定づけるべきものです。

第二に、終わりのとき、この戦いが激しさを増すことと、「できるなら選ばれた人たちをさえ迷わすほど」(マテオ24章24節)悪魔が勝利に次ぐ勝利を収めるという事実について完全に意見の一致があることもまた重要です。

ですから、天主の御母が主なご出現、特にラ・サレットとファチマにおいて、この戦いの最終段階のことを述べられ、忠実な子どもたちに対して聖母が私たちにお与えくださった強力な武器を手に取るように呼びかけられているのは驚くに当たりません。結局、聖母がご出現になったのは、正確に言えば、この戦いにおいて私たちのそばにいて、勝利へ至る最も確実な方法を教えられるためだったのです。天主の御母がシスター・ルチアに話されたときに使われた表現である「決定的戦い」の時代である現代において、若きダヴィドが怪力のゴリアテに相対したように、無原罪の聖母の旗の下、敵に対して真っ向から戦いを挑む小さな軍隊を招集することは、これまで天を喜ばせてきています。この戦いはさらに激しくなりつつあるため、主はしもべたちを高めて、この戦いについて知るだけでなく、戦いの前線において、細心の注意を払ってしもべたちの心と姿勢を兵士の理想の状態に保ち、敵の目を真っすぐに見て、敵の仮面をはぎ、敵と戦うようにさせてくださいます。これが無原罪の聖母の騎士です!

第三に、騎士とは普通の歩兵ではなく、いわゆるエリートに属しています。

再び聖マキシミリアノの言葉を聞きましょう。「天主の教会の敵たちによってなされたそのような強力な行為に直面して、私たちは無駄に時間を過ごすことが許されるか? ただ単に不平を言ったり涙を流したりすることが許されるか? 否! 考えてもみよ。最後の審判の時、私たちは自分のしたことを説明するだけでなく、天主は、私たちができたであろうにもかかわらずなさなかったよい行いすべてを数え上げられる。私たち一人一人には、最前線に立って敵の攻撃をかわすという重大な義務が課せられている。よくこんな言葉を聞く。『でも、私に何ができるだろうか。敵は十分組織化されており、大きな力と富を持っている…』。そんな人は、聖パウロがこう言ったことを確かに忘れてしまっている。『私は、私を強めてくださる天主においてすべてができる』」。

ですから創立者の著作においては次のような言葉が繰り返し使われています。騎士の身分、戦い、攻撃、霊魂を勝ち取る、敵を打ち滅ぼす、弾薬、正しい武器を配備する、など。それは、彼が、キリスト教が眠りに落ち、悪魔との平和が宣言されてきているこの私たちの時代の危険を予見していたかのようです。「騎士、騎士の身分、戦い。すべてまさに戦争のように聞こえる。なぜなら、実際に戦争なのだから! ライフルや爆弾、戦車、毒ガスが使われる戦争ではないが、本当の戦争だ。私たちの戦略は何か? なによりも、祈りなのだ」、「私たちは自分の頑迷さに勝ち、この防衛的な態度から脱しなければならない。フリーメーソンや自由思想は天主と信仰に対して戦いを仕掛けており、人を聖なるものを破壊する卑しい動物や野蛮人にしてしまおうとしている。だから私たちも戦おう。もちろん許された手段をもって。私たちと隣人たちが異教徒になるのを防ぐだけでなく、マリア様がすべての人の心を統治し、それによって彼らにキリストの国がやって来るようにするために」。

第四に、しかしながらこの戦いを、私たちの人生における冒険的な段階、感傷的な映画、コンピューターゲームのように理解してはなりません。この戦いには、私たちの持てる限りの強さが求められます。戦いは地上における私たちの滞留のあらゆる面に影響を与え、敵を打ち負かすまでは、限界を知らず、終わりがありません。言い換えれば、この戦いには中途半端なものはありません。騎士は最高の理想によって絶えず霊感を与えられなければなりません。「このお方、無原罪の聖母が、可能な限り早く全世界の元后、すべての人の霊魂の元后、世界のすべての国々の元后になってくださるために、すべての心が例外なしに聖母への愛で満たされるために、それが私たちの最高の理想である」。

騎士にとって、凡庸、怠惰、無関心は無縁です。「だから、騎士は悪が広がることに無関心でなく、心を挙げてそれを嫌い、機会があるならば、どこであれいつであれ、霊魂に毒を与える悪なら何であっても追い詰めるのだ」。

ですから再び言います。朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

2015年10月27日、マニラにて。
カール・シュテーリン神父


ファチマ2017に向けて(2)

1916年春 ― ルチアに対する天使の第一の出現

フランシスコとヤシンタ

ファチマの偉大なるドラマは1916年、天使の三回の出現によって始まりました。私たちの人生において特別な出来事が起こるならば、特にその始まりと終わりについて考察しなければなりません。始まりは、私たちの人生に重要な変化をスタートさせ(たとえば、勉強の始まり、信仰への回心、将来の配偶者との最初の出会い、召命の最初のしるしなどです)、終わりは、その出来事を通じて私たちに起きたことすべての頂点、まとめのようなものです(司祭叙階、婚姻の秘跡、長い間の勉強の後の最終試験などです)。天主の現れにおいても同様で、始まりと終わりに特別な注意を払わなければなりません。その始まりは、その上にビル全体が建てられる土台にたとえられ、終わりはビルの完成に似ています。

1916年以来、フランシスコとヤシンタは、従妹のルチアを手伝って、自分たちの家とルチアの家の羊の群れの世話をする許可を両親から得ていました。ルチアは9歳、フランシスコはちょうど8歳、ヤシンタは6歳でした。

1916年の春のある日、子どもたちは羊たちと共に、生まれ育った村アルジュストレル近くのオリーブ園にいました。いつものように、正午のころロザリオを祈り、軽い昼食を取ったあと遊び始めました。

「私たちはしばらくの間、ゲームを楽しんでいましたが、そのとき、強い風が木々を揺らし始めました。何が起きたのか見ようとして、見上げて驚きました。その日は通常と違って静かだったからです。すると、オリーブの木の上に、私たちの方にやって来る人物が見えました。私が前に話をした人でした。ヤシンタとフランシスコは以前まったく見ていなかったし、私もそのことを彼らに言っていませんでした。その人が近づいてくると、私たちはその容貌を識別することができました。若い男性で、14歳か15歳ぐらいでした。雪より白く、太陽の光が通り抜けたとき水晶のように透明で、大変美しい姿でした。

私たちは驚き、心を奪われ、びっくりしてしゃべることができませんでした。

私たちのところに来ると、その人は言いました。 『恐れるな! 私は平和の天使である。私と共に祈れ!』

天使は地面にひざまずいて、ひたいが地面につくまで頭を下げました。

超自然の力に導かれて、私たちも同じようにし、天使が言う言葉を聞いて、その言葉を繰り返しました。

『わが天主よ、われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る! われ、御身を信ぜず、御身を礼拝せず、御身に希望せず、御身を愛さぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る!』

これらの言葉を三回繰り返してから、天使は立ち上がって言いました。
『このように祈れ。イエズスとマリアの聖心は、汝らの願い求める声をお聞きになる。』そして天使は姿を消しました」。

私たちも、この最初の天の介入について黙想しましょう。

1.いつもと違う強い風

聖書の中にある天主の現れを黙想すれば、突然吹く神秘的な風と関係あることがしばしばあることが分かります。例えば、ホレブ山の預言者エリア、聖霊降臨の日の高間の家での使徒たちです。また、ルルドで最初に無原罪の聖母がご出現になったとき、聖ベルナデッタは「突風のような音」に驚きました。

詩篇103章は言います。「あなたは風を使いとし、あなたは風の翼に乗って進まれる」。霊に当たるヘブライ語は「強い風」と訳すことができます。この最初の事実は、ファチマ(の出来事)をこの世での天主の出現に近いものとします。この風によって、天主は超自然の雰囲気をおつくりになり、それがあらゆる闇と悪を吹き払い、光と天国のような平和をもたらすのです。

2.最初の言葉「恐れるな! 私は平和の天使である」

この言葉は福音書にあるものとそっくりです。天使が神殿でザカリアに現れ、洗者聖ヨハネの懐胎を告げたときです。あるいは、お告げの日の後に聖母にあいさつしたとき、天使は言いました。「恐れるな、マリア」。天使が聖ヨゼフに現れたとき、あるいは、ご復活の日の朝にイエズスの墓にやって来た女たちに現れたとき、天使は言いました。「恐れるな!」

3.天使の出現

天使の出現について聞かれたとき、ルチアはしばしば「Era de luz―天使は光のようでした!」と言っていました。これもまた、福音書の言葉とそっくりです。主のご復活を告げた天使は稲妻のような外見を持ち、その服は雪のように白かったのです(マテオ28章3節)。また、この福音記者は、ご変容の主についてこう述べています。「主の顔は太陽のように輝き、服は雪のように白くなった」(マテオ17章2節)。「天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主がご自身を(天使や聖母を通じて)人間にお見せくださるときはいつでも、輝きと光をまとっておられます。光に関するこの神秘は、ファチマのご出現全体を通して、本当にしばしば言われています。

4.あふれんばかりの天主の現存

ルチアは天使の出現について述べています。「私たちを包んだ超自然の雰囲気が非常に強かったため、長い間われを忘れてしまい、天使が去っていっても同じ姿勢のままで、同じ祈りを続けて繰り返していました。天主の現存を、本当に心の底から強く感じたため、私たちは互いに話をしようなどとは思いもよりませんでした」。天主の現存は途方もないことであって、私たちの弱い人間の力にとっては、粉砕されてしまうほどのものでした。しかし、この「天主の現存の前での無力」は、この三人の子どもたちにとって、まず第一に天主が無限に聖であることと被造物が無であることをよく知るという、まことの謙遜を学ぶ上での最高の場となったのです。

私たちへの教訓

1.私たちの中の天使

ファチマは天使の出現によって始まります。天主は私たちに、「目に見えない世界」が存在することと、私たちにとってそれがどれほど重要かをよく考えて理解させようと望まれます。純粋な霊としての天使が私たちに思い出させてくれるのは、私たちが永遠のために創られたということです。天使は、天主の超越性、御稜威、聖性を反映しています。私たちの住むこの物質的な世界においては、五感で感じるものだけしか理解できませんが、天使の存在は(五感で感じられないものがあると分からせる)重要な治療薬です。天使は、物質に対する霊の優位性、一時的なものに対する永遠の優位性を明らかにしています。

天使はまた、天主の無限の美しさを反映しています。歴史上の天使の出現においてはいつも、彼らの輝きと光に満ちた信じられないほどの美しさが見られています。聖トマス・アクィナスによれば、「美は、真理と善を輝きと栄光によって表しているもの」ですから、天使は私たちに真理と善であるものを愛させ、崇めさせ、それと同時に、醜いあらゆるもの、偽りと悪であるあらゆるものに対する健全な嫌悪を私たちに与えるのです。

最後に、天使は天主の全能の力と強さの反映です。

大天使聖ミカエルはルシフェルとその追随者を天国から地獄へと投げ落としました。
ガブリエルという名の訳は、「天主の力」です。
ラファエルはトビアを導き、最も大きな悪から彼を守る大変な力を持っています。

特に私たちの時代においては、私たちは自分の極端な弱さと力不足を感じています。第一に、良心を調べればいつも、力強い世代だった先祖たちに比べ、私たちは自分が完全に退化していることが分かります。また、どこであれ「闇の力」の支配があるがゆえに、私たちの生きる限り、天使の現存と保護の下にいれば、私たちはあらゆる誘惑に簡単に勝つのです。

天主が天使を送ってくださったのは、私たちを守るため、私たちの世話をするため、私たちの守護天使とするためであることを忘れないようにしましょう。一般的に言って、私たちが生きているあらゆる状況の中で、天使たちに私たちを助けようとする力と望みがあることを私たちは過小評価しています。ファチマでは、天使が子どもたちに祈ることを教え、一緒に祈りました。一回一回のミサには天使がいて、ご聖櫃の前で絶え間なく讃美と礼拝をし、天の元后に対して大きな崇敬と愛を捧げていることを私たちが思い起こすなら、私たちの霊的生活はたちまち変わることでしょう。なぜなら、天使たちは、私たちの霊魂が天主に対して開かれるために適した雰囲気をつくり出すからです。

2.天主の御稜威(みいつ)

この大変高貴な天使、彼が子どもたちに何を言い、どのような動作をするのでしょうか? 天使は天主に祈るために、地にひざまずいて、ひたいを地面につけます。一位の天使がすでに、子どもたちがその前でほとんど息をすることができないほど高貴な存在であるのなら、数十億もの天使が天主の御稜威のまえで地にひれ伏しているというのなら、いったいなんと言えばいいのでしょうか?! 「天使たちはみな、玉座…の周りに立ち、玉座の前にひれ伏して天主を礼拝した」(黙示録7章11節)。

ファチマの偉大なる始まりは何ですか? 一つの祈りです。

その祈りはどう始まりますか? 「ああ、わが天主よ」

・天主の無限の御稜威と偉大さについての失われた真理。無限の大海。創造物は天主の前では無。

・私たちにとって、これが意味することは、始めであって終わりであり、必要なただ一つのこと、世と私たちの生活の中心、それは私たちではなく天主であるということです。ああ、わが天主よ。

・あらゆる被造物は天主の前ではちりです。ですから、ひれ伏すこと、ひざまずくこと、これらは、私たちが真理を認め、天主の支配と天主に服従することを理解することの目に見えるしるしなのです。(天主よ、)あなたは始めであって終わりであり、本源であって目的であり、土台であって頂上です。私はまったくの無です。私は、あなたのおかげで、あなたにおいて、あなたのためにのみ存在することができるのです。

3.本質的な徳:信仰、希望、愛―私たちのいのちの本質

この祈りは絶えず、私たちを天主と関係づけてくれます。天主がすべてであるなら、最も重要なことは、私たちが天主に対して正しい態度を取ることです。するとこうなります。「われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る」。

われ信じ奉る、われ天主の目に見えない世界を認め奉る、われ、わが周りの目に見える世界以上に、御身がわれに啓示し給うたことを確信し奉る。われ信じ奉る、われ天主の実在を認め奉る、われ、わが目を真理とただ一つのまことのいのち、天主の存在と活動に開き奉る。

礼拝は、天主の啓示に対して素早くお応えすることです。信仰によって、天主が私のすべてであり、私が天主に完全に依存していることを理解するなら、私はそれを行動で示さなければなりません。

礼拝は、天主が私の本源でありかつ最終の目的であること、つまり私のすべてであることを承認することです。そして自分自身を本当に理解することです。私は完全にあなたに依存しており、私はあなたのものです。

希望は天主のご意思を成就させたいという望み、天主のところに到達したいという望みです。

天主の偉大さ、幸い、愛を見た者なら誰でも、限りない喜びへ憧れを持つ以外のことはできません。しかし、希望はまた、天主の御約束への信頼です。私たちは至福を希望し、望むことしかできません。なぜなら、天主は私たちをそのようないのちへと招いて天主の子どもとしてくださるからであり、私たちに天国での居場所を用意してくださっているからです。

愛は心が一致することです。私たちを創り、救う天主の愛へ、私たちを天主ご自身のいのちに参与させようと望む天主の愛へ完璧にお応えすることです。私たちのいのちの頂点であり、私たちがすることのできることのうちで最も高貴で最も良いこと、実際に私たちの人生の中で唯一の価値あることなのです。

「私たちの人生の終わりに、私たちはどれほど愛したかについて裁かれるでしょう」と幼きイエズスの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは言っています。

4.罪という神秘―償いの必要性

「われ、御身を信ぜ…ぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。大変興味深く重要なことは、私たちの人生の本質(私たちの天主との関係)を述べたあとで、天使は子どもたちにまったく反対のこと、天主の実在を否定すること、つまり罪について教えるのです。

ですから、ファチマの一番最初から、今日では完全に忘れられているもう一つのテーマが現れるのです。世界と人間の歴史は、二つの対立する力、天の国と悪魔の暴政の国、天主への「はい」と天主への「いいえ」(信じない、礼拝しない、希望しない、愛さない)との間の戦いです。

「素晴らしい新世界、地上の楽園」での生活を想像し、普遍的な友情と愛で皆が結ばれるであろうと想像するならば、それは最悪の幻想となってしまうでしょう。

いいえ―まことの天主への「はい」と「いいえ」の間の戦争があり、主ご自身の明白な宣言によれば、最後まで「はい」の態度でいる人々だけが救われるのです。

しかし、天主の敵を信じる人々に対して、ルシフェルの「私は仕えない」に従う人々に対して、私たちはどんな態度を取ればいいでしょうか? 憎しみでしょうか? 無関心でしょうか? 怒りでしょうか? 不幸なことにそれが、私たちの周りにいる悪に対して、しばしば私たちが起こす反応です。

天使は違う言葉を教えています。「われ、…人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。この小さな一文を何度も何度も黙想しなければなりません。

第一に、これは痛悔の祈り、悔悛の祈りです。赦しを請い願うことです。
罪びとが行う第一の愛のわざは罪を悔やみ、赦しを請い願うことです。私たちはみな罪びとですから、私たちはみな赦しを請い願わなければなりません。

「信じない人々」とは誰ですか?
他の人々だけでなく、この私も「信じない人々」の一人なのです。人生において、いったい幾度、信仰や従順(礼拝)、天主への信頼、まことの望み、天主と隣人への愛に欠けていたでしょうか! 自分がいま「光」の中にいるという事実は、私の技能や寛大さのゆえではなく、天主の無限の御あわれみのゆえなのです。

それゆえ私は、現在信じない人々、私も含めてかつて(それはそれほど以前ではないかもしれません)信じない人であったすべての人々と一致して、赦しを請い願います! この連帯は、隣人へのまことの愛のわざなのです。まことの愛は私たちの隣人に「全ての最善のもの」を求めます。全ての最善のもののなかで一番のものは、それがなければ救いが得られない「罪の赦し」です。

第二に、この祈りは、本当の最高の善と、本当の究極の悪が何であるかを分からせてくれます。
ファチマの一番最初に、「われ赦しを請い願い奉る」の言葉があるのなら、私たちは「天主を信ぜず、…天主を愛さぬ…」ことはいかに恐るべきことかを理解します。ですから、私たちの人生において最も重要な任務の一つはこのことについて思いをめぐらすことです。これは次回述べる天使の出現によって確認されることになるでしょう。


*** 非常に重要 ***

新しいウェブサイト www.militia-immaculatae.asia があります。

私たちは喜んで皆さんにお知らせします。「アジアの無原罪の聖母の騎士会」の新しいウェブサイトがもうすぐ開設されます。
アジアのすべての国々の騎士が、その国々に無原罪の聖母のことを知らせるために、私たちと協力してこの使徒職を行っています。

このウェブサイトを自分のためにだけ使うのではなく、できるだけ広めてください。これは、無原罪の聖母の道具としての皆さんの聖なる義務であって、聖母のことを知らせ、可能な限り多くの霊魂が聖母を愛するようにさせるためです。

しかしながら、誰かに文章を読んでもらったり、黙想してもらったりするために、皆さんがこのウェブサイトへのリンクをその人に送信するのなら、
その前に無原罪の聖母の射祷を唱え、皆さんがそのリンクを送信する人の心に聖母が触れることがおできになるようにお祈りください。

でも、第一に皆さんにお願いするのは、聖母にノベナ(聖母の連祷)を唱えることです。この重要な使徒職に対する聖母の祝福と恩寵を請い求めるのです。

どうぞ、皆さんの知り合いに、誰もが次のEメール「 info@militia-immaculatae.asia 」を使って無原罪の聖母の騎士会の管理者に連絡できることを知らせてあげてください。
(了)

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