2022年12月25日 東京 ミサ説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹姉妹の皆様、私たちの主、イエズス・キリストのご降誕の喜びを申し上げます。
今日お生まれになった、イエズス・キリストの黙想を一緒にいたしましょう。
ある王国で王子様が、初めての王子様がお生まれになった、王国を継ぐ方が生まれになったとすると、その国ではどれほどの喜びがあることでしょうか。これでこの王国も安定する、ついに王子さまが与えられた!人類は4000年間、救世主の到来を待っていました。ついに天地の創造主、全世界の所有者、星々も支配しており、動物も支配して、全宇宙を統治しておられる御方の御ひとり子が、私たちのもとにお生まれになった!人間としてお生まれになった!天から降(くだ)って来られた!私たちのために来られた!何と喜ばしい知らせでしょうか。
天の大群は、このことを牧場(まきば)の羊飼いたちに知らせて、「天のいと高きところには天主に栄光、地には善意の人には平和あれ!」と大きな歌を歌いました。
ところで、主が初めて私たちのもとに来られた時、人間として来られた時のそのご様子は、私たちの想像するものと全く違っていました。
王様ですから、きっと立派な御殿や宮殿、きれいな寝台で、清潔なお部屋で、おつきの者もたくさんいて、豪華な金と銀のまばゆきのあるお部屋で、暖か-くスヤスヤと羽毛の中にくるまってお眠りになっていられるのではないか。
でもそうではありませんでした。預言の通り、主は、旅人として、まぐさ桶の中に置かれてお生まれになりました
天使は、羊飼いたちにこう言いました。「キリストがお生まれになったそのしるしはこれである。布に包まれて、まぐさ桶に寝かせてあるみどりごだ」と。
布に包まれておられました。よく絵を見ると、イエズス様が真っ裸で~というのがありますが、それは本当ではありません。マリア様は、イエズス様を布に固く包んで置かれました。なぜでしょう。
なぜかというと、イエズス様は、私たちが罪と悪魔と地獄の鎖に繋がっているので、それを解放するために、あえて御自分が包まれていたのでした。身動きできないようにされていたのでした。なぜかというと、私達が自由を乱用して悪く使って天主に逆らったからです。イエズス様は従順に従いました。
ちょうどこの布に包まれているイエズス様をご覧になると、きっとイエズス様の人生をさまざまと思い浮かべるかもしれません。
あぁイエズス様はゲッセマネの園にて逮捕されて手足を縛られた時のことを、すでにこうやって準備されているのかなぁと。イエズス様が鞭打たれたときに柱に縛りつけられた時、やっぱり幼子の時から準備されているのかなぁと。十字架に釘付けにされて手も足も動くことができない時、あぁ幼子の時から手足を縛られているのかなぁと。また世の終わりまで御聖櫃の中に御聖体としてじっとして留まっている時、私たちを待っておられる時に、あぁイエズス様はすでに布に包まれて御聖体としておなりになる準備をされているのかなぁ、と思われるのかもしれません。
私たちには、二つに一つしかありません。
イエズス様と一緒に包(くる)まれて一緒に結ばれているか、そして、悪魔と切り離されている。
あるいは、悪魔の奴隷となって鎖につながれて、イエズス様と離れているかです。
イエズス様は自分が包まれることによって「さぁ私と一緒にこちらにおいで」と招いておられます。
マリア様はどうして、ご自分の胸にイエズス様を抱いておられずに、堅いまぐさ桶に動物の餌が置かれているところに置かれたのでしょうか。
聖人たちはこのことを黙想して「これは本当に深い神秘だ、きっと聖霊がマリア様にこのことを教えたに違いない」と言っています。
ベトレヘムというのは、つまりパンの家と言う意味です。ベト・レヘム。まぐさ桶は、動物が食べる餌が置かれる場所です。イエズス様は、ご自分が御聖体となって私たちのために食べられるものとなるということを、すでに幼い時から暗示していたかのようです。イエズス様のためには堅い心地の悪い痛かった藁屑の上しかベッドがありませんでした。動物の餌の上でした。何という屈辱でしょうか、天主に対して!
アシジの聖フランシスコは、イエズス様がこのまぐさ桶の上に置かれたというのを食事中に聞いて、いきなり涙を流して立ち上がって、そして自分は床の上に身を投げ出して、残ったご飯を少し食べ、食事を終えたそうです。イエズス様がこんなにも苦しんでおられるのにどうして私は椅子に座ることができようか、と言ったそうです。そして、イエズス様の苦しみを想って涙に明け暮れていたと、伝記に書いてあります。
では、いったい何でイエズス様はこんなに小さな赤ちゃんになったのでしょうか。それは私たちを偉大なものとするためです。私たちを、天主のような、天主の命に与らせるためでした。私たちが恐れずにイエズス様に近寄ることができるために、かわいい何もすることができない何も言うこともできない赤ちゃんとなって、ちっぽけな赤子となって、お生まれになりました。
ですから、どんなに貧しいもの、どんなに罪人も、どんな人でも、子供も大人も恐れることなくイエズス様の近くに行って「イエズス様、お愛ししています」ということができるためでした。
イエズス様は、何でこんなに貧しくなられたのでしょうか。それは私たちを本当に豊かにするためでした。同時に、私たちに、本当の宝がどこにあるかということを教えるためでした。
なぜかと言うと、この地上のものはあっという間に過ぎ去ってしまうからです。この地上のものに愛着するがために、この地上のものを欲しがるがために、多くの人は罪を犯します。嘘をついたり、盗んだり、あるいは他の人に害を与えたり…。しかしイエズス様は「そんなことは重要ではない、主を愛することのほうがもっと重要だ、その主を愛するがために苦しみを捧げることの方が重要だ」と教えています。
この幼いイエズス様、貧しいイエズス様を見て、「全能の天主が私達を富ますために、これほど謙遜になられたのならば」と、多くの人々がイエズス様を倣った生活をしました。
聖ベネディクトという有名な修道士がいます。青年真っ盛りの時に、お父さんの家の莫大な財産を、快適な生活を全て放棄して、モンテカッシーノという山の洞窟に行って、祈りの生活を始めました。イエズス様に倣いたい…と。
アシジの聖フランシスコもそうでした。お父さんには自分の財産を全て与える、着ていた服も返して、イエズス様と同じようになりたい…と修道生活を始めました。
大修道院長聖アントニオという人も、祖先からの莫大な財産を全て売り渡して、そして貧しい人に配って、自分は砂漠で祈りの隠遁生活を始めました。
聖フランシスコ・ボルジアという人もいます。スペインの宰相でした。首相でした。スペインの女王様の死を見て、あー人間は死ぬとみんな蛆虫になるんだな、と自分の地位と財産をすべて捨ててイエズス会に入りました。
皆、イエズス様のベトレヘムでのこの幼子を真似して、このような生活をしたのでした。
そのような人々は世界中にたくさんいます。そしてそこに、イエズス・キリストのうちに、本当の喜びと宝を見出したのでした。なぜかと言うと、地上のことに愛着をして、地上のことでいっぱいの人には、イエズス様が入る余地がなくなってしまうからです。ちょうどベトレヘムの家には、聖ヨゼフとマリア様を受け入れる場所がなかったのと同じです。
愛する兄妹姉妹の皆さん。ですから、主が、どれほどこのような私たちをお愛ししてくださっているか、私たちをどのように富ませようとしているか、どのように力あるものとするのか、偉大なものとしようとされるかを、そのためにご自分はますますちっぽけな赤ちゃんになられたことを黙想して感謝いたしましょう。ここに三位一体の究極の愛があります。私たちがどれほど愛されているかということの証拠があります。
では、マリア様にお祈りしましょう。マリア様こそが、私たちに主を与えてくださいました。マリア様を通さなければ、私たちはイエズス様を受けることができません。イエズス様の富を受けることができません。是非マリア様に、このお恵みを今日お求めいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。