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聖トマス・アクィナスの教え(神学大全第III部 第47問)によると、キリストを死に追いやった人々が誰か、彼らがそうした理由は何か

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キリストを死に追いやった人々についての説教

ドモルネ神父 2023年3月26日

はじめに

ご受難節が始まりました。この時期は、一年のうちで、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと死について黙想するのに特に適した時期です。私たちがその黙想をする助けになるように、今日は、聖トマス・アクィナスの教え(神学大全第III部 第47問)に従って、キリストを死に追いやった人々と彼らがそうした理由についてお話ししたいと思います。

イエズス・キリストを死に追いやった者たち

私たちの主イエズス・キリストは、ひどい苦しみを受けられた後、十字架上の死に追いやられました。ユダは、自分の主人を裏切って、その敵であるユダヤ人たちに渡しました。ユダヤ人たちは私たちの主を虐待し、不当にも断罪し、そしてローマ総督ポンシオ・ピラトに主の十字架刑を要求し、それを実現させました。ユダは金のためにイエズスを裏切り、ユダヤ人たちは妬みの憎しみからイエズスの死を要求し、ピラトは臆病さからイエズスを断罪し、兵士たちは無慈悲な残酷さをもってその刑を実行しました。これらの人々はみな、イエズスの死に責任があります。彼らは、イエズスの死を望み、そのために必要なすべてのことを行いました。このため、イエズスは福音の中で、ご自分について次のように告知なさったのです。「彼らは彼を鞭打ち、そして彼を死に追いやるであろう」(ルカ18章33節)。

しかし、ある意味では、イエズスが、ご自分の死の原因であると言うこともできます。実際、イエズスがユダヤ人たちやローマ人たちからの攻撃を受けて死なれたのは、イエズスが進んでそれに同意なさったからです。イエズスは天主ですから、あらゆる敵を難なく追い払うことがおできになり、ご自分に対するすべての攻撃を止めることがおできになったはずなのです。オリーブ園でのイエズスを思い起こしてください。ユダヤの民兵たちがイエズスを逮捕しに来たとき、イエズスは一言で彼らを全員後ずさりさせ、地面に倒れさせられました。聖トマスはこう言っています。「暴力によって受けていた受難が、彼の霊魂を引き裂くものではないことを示すために、キリストは、その肉体の本性の力を、完全に維持された。このため、キリストは最後の瞬間に、大声で叫ばれたのである。これは、キリストの死にかかわる奇跡のひとつである」。イエズスが死なれたのは、この死に同意なさったからです。そのため、イエズスはこう言われたのです。「私の命は、私から奪い取るものではなく、私がそれを与えるのである」(ヨハネ10章18節)。

イエズスが自分の死に同意された理由

論理的に言えば、次の質問はこうなります。なぜイエズスは、ご自分のご受難と死に同意されたのでしょうか? それは、御父への愛と従順からでした。父なる天主は、イエズス・キリストのご受難と死によって人間が贖われることを、永遠の昔から計画しておられたのです。ですから、御父は、御子のご受難の時に御子をお守りにならず、御子を迫害者たちの手に渡されたのです。そして、このため、イエズスは、十字架上でこう言うことがおできだったのです。「私の天主よ、私の天主よ、なぜ私を見捨てられたのですか」(マテオ27章46節)。

しかし、なぜ「天主は、ご自分の御子を惜しまずに、私たちすべてのために渡された」(ローマ8章32節)のでしょうか? なぜ父なる天主は、イエズスの聖心に、苦しみへの望みを置かれたのでしょうか? なぜイエズスは、父なる天主に、これほど完全に従われたのでしょうか? なぜなら、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでのイエズスの従順は、アダムとエワの不従順にふさわしい償いだったからです。聖パウロは、ローマ人に対してこう言いました。「あの一人の人の不従順によって多くの人が罪人とせられたように、あの一人の従順によって多くが義とされた」(ローマ5章19節)。また、イエズスの従順は、天主と人間に対する最も崇高な愛をはっきりと表しています。聖パウロはエフェゾ人にこう言いました。「イエズスは、私たちのために、芳しい香りのいけにえとして、天主にご自身を渡された」(エフェゾ5章2節)。

ユダヤ人とローマ人の罪

天主が、ご受難を人類を贖う手段とお決めになり、またイエズスご自身が、ご自分のご受難と死に同意されたのですから、ユダヤ人たちやローマ人たちを、イエズスに対する全ての不正や罪から放免させたいと思っている人々がいます。この理屈は、まったく間違っています。聖トマスはこう答えています。「キリストは、天主が望まれたように、自らの受難を望まれたのは事実であるが、ユダヤ人の悪行を望まれたのではない。そして、この理由から、キリストを殺した者たちは、不正を免れないのである」。

おそらく、皆さんはこう自問なさることでしょう。ユダヤ人たちが一つの罪も犯さずに、イエズスのご受難と死は、どのように起こるべきだったのでしょうか? それは、父アブラハムによるイサクのいけにえのように、起こるべきだったのです。アブラハムは、独り子のイサクを死なせることに同意し、イサクは、自分の父によって自分がいけにえとされることに同意しました。それは、命の究極の主である天主が、それをお命じになったからです。アブラハムとイサクは、互いに憎しみ合っていなかったどころか、その反対に、心から互いを愛していました。しかし、二人は自分たち自身よりも天主を愛していたため、このような非常につらい命令においても、天主に従ったのです。イサクは、私たちの主イエズスのかたどりであり、アブラハムは、ユダヤの民のかたどりでした。ご受難の間、イエズスはイサクのように、さらにはイサクよりも素晴らしい振る舞いをされました。一方、ユダヤ人たちは、先祖のアブラハムのように振る舞うことは全くありませんでした。ユダヤ人の指導者たちは、妬みと憎しみからイエズスを死に追いやり、最も基本的な正義を踏みにじり、イエズスを天主の御子、メシアとして認めることを、悪意から、拒否しました。彼らは、イエズスの最も驚くべき奇跡を目の当たりにしても、自ら進んで盲目となったのです。彼らは、考えうる最大の罪、すなわち天主殺しで、真に有罪となりました。そして、この罪の結果は、今日までユダヤの民に重くのしかかっているのです。

天主殺しに参加したユダヤの民は、自分たちの指導者たちに欺かれました。したがって、彼らの方が、指導者たちよりは罪が軽いのです。イエズスが十字架上で次のように言われたのは、この民と異邦人についてです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。しかし、ユダヤの民は、イエズスに対する告発が偽りであることを簡単に見抜くことができたのですから、非常に深刻な罪を犯したのです。たとえイエズスをメシアと認められなかったとしても、彼が無実であり聖人であることは、簡単に理解できたのです。

ローマ人たちは、モーゼの律法を全く知らず、イエズスを他の者たちと同じ囚人の一人にすぎないとみなしていたのですから、最も罪が軽いのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ご受難節の初めにあたって、私たちの主イエズスが、私たちの罪を償うために十字架上で死なれたことを、もう一度思い起こしましょう。私たちはみな罪人ですから、私たちもこの死に対する責任の一部を負っています。ですから、自分の罪に対する心からの痛悔を新たにしましょう。そして、十字架上のイエズスのいけにえを通して私たちが罪の赦しを得ることが天主のみ旨であり、また、ミサは十字架のいけにえの継続なのですから、アブラハムが自分の子イサクを捧げたときと同じ気持ちをもって、ミサでイエズスをお捧げしましょう。マリアが十字架のもとでなさったように、ミサでイエズスをお捧げしましょう。


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