異教徒に洗礼を授けるために必要な条件についての説教
ドモルネ神父 2023年4月16日
はじめに
復活祭には、私たちの主イエズス・キリストの御復活をお祝いします。また、イエズスが御受難と御復活の効果を私たちに伝えてくださる洗礼の秘跡もお祝いします。洗礼を受ける前、私たちは、霊的に死んでいます。すなわち、私たちの内に天主の命はありません。天主が私たちを創造されたとき、私たちはこの命を持っていましたが、原罪によってその命を失ってしまったのです。洗礼を通して、私たちは霊的に復活させられます。つまり、私たちが失ってしまった天主の命が、イエズス・キリストを通して私たちに再び与えられるのです。洗礼を通して、私たちは天主の子として復活させられます。永遠の幸福に入るためには、洗礼を受けることが絶対に必要です。私たちの主はニコデモに、はっきりとこう言われました。「まことにまことに私は言う。水と聖霊によってもう一度生まれぬ者は、天主の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。
今日は、異教徒に洗礼を授けるために不可欠な条件についてお話しします。次のような状況を想像してください。皆さんの家族の誰かが死の危険にあって、その人は洗礼を受けておらず、司祭は来られない、というものです。皆さんは、その人に洗礼を授けることができるのでしょうか? どのような条件のもとでなら、できるのでしょうか?
1)同意の必要性
第一の条件は、その人が、洗礼を受けることを受け入れることです。本人の意思に反して洗礼を授けることは、決してできません。そうするならば、洗礼は無効になってしまいます。これには二つの理由があります。第一に、私たちの主イエズスは、私たちを天国に招待しておられるのであって、それを強制されるのではありません。主は、私たちが進んで主の招待を受け入れることを期待しておられるのです。聖アウグスティヌスの有名な言葉を思い出してください。「あなたなしであなたを創造した天主は、あなたなしであなたを救うことはない」。第二に、洗礼は秘跡です。秘跡とは、イエズス・キリストが霊魂に恩寵を伝えるために制定なさった手段です。秘跡は神聖なものであり、敬意をもって扱わなければなりません。ですから、敬意をもって扱うためには、それを進んで受けなければなりません。イエズスはこう言われました。「聖なるものを犬にやってはならぬ。真珠を豚に投げ与えてはならぬ。そうすれば相手は足で踏みつけ、向き直ってあなたをかみ裂くであろう」(マテオ7章6節)。
大人や、理性を行使できる子どもに洗礼を授けるためには、その人が洗礼に同意することが絶対に必要です。このため、洗礼の儀式では、求道者に洗礼を授ける直前に、司祭は言葉に出して、こう尋ねます。「あなたは洗礼を望みますか?」。ですから、もし皆さんが人に緊急に洗礼を授けようとするならば、同じ質問をして、その答えが肯定でなければなりません。
その人が意識を失っていて、もう質問に答えられなくなっている場合は、どうすればいいのでしょうか? もしその人が、以前からカトリック信者になりたい、洗礼を受けたいという真面目な意思を表明していたのであれば、洗礼を授けることができます。しかし、その人がそのような意思をまったく表明したことがない場合は、洗礼を授けることはできません。
もしその人が理性を行使できなかったような人であって、そのために私たちの質問に答えられない場合は、どうでしょうか? もし、切迫した死の危険がある場合には、たとえ両親や保護者が洗礼に反対していても、その人に洗礼を授けることができます。しかし、切迫した死の危険がない場合は、その人の両親や保護者の同意がなければ、洗礼を授けることは許されていません。
2)信じることが必要
洗礼を受けるための第二の条件は、信じることです。実際、私たちの主はこう言われました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。洗礼を受けるためには、少なくとも、どんなことを信じなければならないのでしょうか? 少なくとも次の四つの真理を、明示的に信じなければなりません。
●第一の真理は、天主が存在し、唯一の天主が存在する、ということです。私たちは、第一存在のことを「天主」と呼んでいます。第一存在とは、自分自身で存在と命を持っている者、誰からも何も受けずに、自分自身ですべての完全性を有する者、存在するすべてのものに存在と命を与える者のことです。
●明示的に信じるべき第二の真理は、天主は善人に報いを与え、悪人を罰せられるということです。天主は、人間の生活における道徳的な法を設けられました。善と悪の境界線を決めるのは、この法です。したがって、死んだ後、天主は、天主の法に従った者に報いを与え、逆に従わなかった者を罰せられるのです。
●明示的に信じるべき第三の真理は、天主がイエズス・キリストの御名の下に、人となられたことです。天主が人となられたのは、ご自分の御苦しみと死を通して私たちの罪を償い、それによって私たちを清め、私たちが天主の命にあずかることができるようにするためでした。
●明示的に信じるべき第四の真理は、天主には御父、御子、聖霊と呼ばれる三つのペルソナが存在することです。この三つのペルソナは唯一の天主であり、互いに完全に等しく、それは、正三角形の三つの辺が等しく、それらが唯一の三角形を形づくるのと少し似ています。人となられてイエズス・キリストの御名を取られたのは、子なる天主です。
この四つの真理を、明示的に信じることが必要です。このことは、みなさんが誰かに洗礼を授ける前に、司祭が洗礼を授けるときのように、言葉に出して質問しなければならない、ということを意味します。司祭はこう質問します。
○「天地の創造主、全能の父なる天主を信じますか?」
○「その御ひとりごにして、この世に生まれ、われらのために苦しみを受け給うた、われらの主イエズス・キリストを信じますか?」
○「聖霊、罪の赦し、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じますか?」
これらの質問に対して、その人が心から「はい」と答えた場合にのみ、私たちは洗礼を授けることができるのです。
3)罪の痛悔の必要性
洗礼を受けるための第三の条件は、自分の罪を心から悔い改めることです。洗礼は原罪とすべての自罪を取り除きますから、洗礼の前には告解をする必要はありません。しかし、自分の罪をすべて悔い改めることは必要です。もし私たちが悔い改めをせず、罪深い習慣を捨てないならば、天主は私たちをお赦しにはなりません。例えば、同棲している人は、洗礼を受ける前に同棲を解消しなければなりません。別の例えをあげれば、他人に不当で深刻な損害を与えた人は、できるだけ早くその損害を償う意志を持っていなければなりません。自分の罪を悔い改めていない人、あるいは罪深い態度を捨てたがらない人は、洗礼を受けることができません。
結論
親愛なる信者の皆さん、司祭がいない場合、切迫した死の危険にある人に洗礼を授ける前に、皆さんは次の三つの条件を確認しなければなりません。その人に洗礼を受ける意思があること、その人が先に述べた四つの真理を明示的に信じていること、そして、その人が人生のすべての罪を心から悔い改めていることです。
もし、その人がこれらの条件の一つでも拒否するならば、皆さんはその人に洗礼を授けることはできません。そのような悲しい状況では、せめてその人に不思議のメダイを渡し、その人と一緒に童貞聖マリアに祈るようにしてください。聖ベルナルドは、こう言ったからです。「マリアの御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取り次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざる」。