Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」の持つ深い意味

$
0
0

「だから、刈り入れの主に…祈れ」についての説教

ドモルネ神父 2023年4月23日

はじめに

今日は、司祭の召命がテーマです。福音の中で、私たちの主イエズス・キリストはご自分を良き羊飼いに例えておられます。良き羊飼いがしっかりと自分の羊の世話をし、保護するように、イエズスも霊魂の世話をされ、保護されるのです。私たちの主は、ご自分がお選びになる人たちを通して、霊魂の世話をなさいます。その人たちが司祭です。福音の他の箇所で、イエズスは、霊魂を畑の収穫物に例え、ご自身をその収穫物の所有者に例えておられます。実際、イエズスは、すべての人の贖いのために十字架上で亡くなられ、それによって、すべての人に対する所有権を獲得されました。そして、イエズスは、ご自分の名によって霊魂の世話をするために遣わされる司祭を、畑で働く人に例えておられます。ですから、イエズスはこう勧めておられます。「刈り入れは多いが、働く人は少ない。だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」(マテオ9章38節)。今日は、この言葉の意味についてお話しします。

1.第一の意味:司祭の力すなわち司祭の謙遜を増大させること

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。イエズスが、「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われた後、それにもかかわらず、使徒たちの数に、誰一人も加えられなかった。使徒たちは、12人のままであった。主は、使徒たちの数を増すのではなく、使徒たちの力を増すことによって、彼らを何倍にも増やされたのである。したがって、働き人を刈り入れに遣わすということは、霊魂の救いのために働く司祭の力を増すということを意味します。

しかし、司祭の力とは何でしょうか? 奇跡を起こす能力でしょうか? 違います。うまく説教することでしょうか? 違います。有名になり、社会的エリートの人々と知り合いになることでしょうか? 違います。司祭は私たちの主の代理人であり、道具です。司祭の力とは、司祭の内にあるイエズス・キリストの力なのです。司祭が力を発揮するのは、自ら障害を置かず、イエズスが司祭を通して行動してくださるようにするときです。ですから、司祭が謙遜になればなるほど、また、自分の弱さを自覚すればするほど、自分の意志を空しくすればするほど、そして、すべてにおいて、私たちの主のご意志につながればつながるほど、司祭はもっともっと力を発揮するようになるのです。これこそ、聖パウロが、次のように述べて示した真理です。「だから私は特に喜んで自分の弱さを誇りにしよう。そうすれば、キリストの力は私に住まわれるであろう」(コリント後書12章9節)。

アルスの聖なる司祭、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーを思い出してください。彼は、人として平凡な教育しか受けなかった司祭で、田舎にある小さな村の教区司祭でした。彼は、ほとんどお金を持っていませんでした。彼は、他人からは、少し軽蔑されていました。しかし、彼の謙遜、清貧の精神、私たちの主への愛のために、彼の力があまりにも十分に発揮されたため、ある日、悪魔は彼にこう言いました。「おまえはどれほど俺を苦しめていることか! もしおまえのようなやつがこの世に3人いたら、俺の王国は滅びてしまうだろう!」。アルスというちっぽけで貧しい村の小さな司祭は、自らの謙遜によって、その力を余すことなく発揮したため、世界中の教区司祭の守護聖人となりました。

ですから、私たちの主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次のような意味なのです。「私の司祭たちが、自分たちを空しくして、私の力を、自分たちを通して、障害なく、霊魂の上に行使できるように、謙遜、清貧、貞潔、愛徳の力強い恩寵をお与えください、と私に願いなさい」。

2.第二の意味:司祭の数を増大させること

ここで、イエズスの御言葉の第二の意味について見てみましょう。聖ヒエロニムスはこのように説明しています。「大いなる刈り入れとは、数多くの人々のことを意味しており、働き人の数が少ないということは、宣教すべき人が乏しいことを意味する」。また、聖レミギウスはこう言っています。「使徒の数は、これらの膨大な刈り入れに比べれば、実にわずかであった。さて、救い主は、宣教者たち、すなわち使徒たちとその後継者たちに、彼らの数が増大することを日々願うようにと、勧められる」。ですから、働き人を刈り入れに遣わすということは、この世で司祭の数を増やすということを意味します。

司祭の数は、召命を通して、つまり呼びかけを通して増大します。呼びかけには、二つの側面があります。呼ぶ人と、呼ばれる人です。ですから、人が司祭になるためには、この二つの側面のことを考えなければなりません。

呼ぶ人は、私たちの主イエズスです。主は霊魂の救い主であり、主だけが人の心を動かし、回心させ、天主の愛のうちに成長させられます。私たちの主は、ご自分の恩寵を霊魂に与えるという使命のための代理人を、自由に選んで呼ばれます。イエズスが使徒たちに言われた言葉を思い出してください。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行くためである」(ヨハネ15章16節)。ですから、主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次の意味です。つまり、「もっと多くの人に、私が司祭職の恩寵を与えるよう、私に願いなさい」ということです。なぜ、イエズスは、私たちがこのようなことを願うように望まれるのでしょうか? それは、司祭職の恩寵が、特別な恩寵であって、人が受けるに値しえないものであり、天主の無限の善意と御あわれみに訴えることによってのみ得られるものであることを、私たちが理解するようになるためです。この恩寵を願わない人たちは、自分たちがその価値を理解していないことを示しています。ですから、その人たちは、その恩寵に値しないのです。

召命には、呼ぶ人がいて、呼ばれる人がいます。もし呼ばれる人が呼びかけを聞かなかったり、呼びかけに応じたくなかったりすれば、その呼びかけは無駄になってしまいます。ですから、主が「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」と言われるのは、次のような意味でもあるのです。「私の呼びかける人たちが、私の呼びかけを聞き、それに寛大に応じることができるように、彼らに力強い恩寵をお与えください、と私に願いなさい」。実際、呼ばれた人の中には、完全な貞潔という犠牲を払いたくない人もいます。十字架にかけられたイエズスについて宣教することよりも、この世的な野心を満たすことを好む人たちもいます。福音に出てくる金持ちの青年のように、自分の物質的な財産を犠牲にしたくない人たちもいます。イエズスに呼ばれた人たちが、その呼びかけに応じることができるためには、特別で力強い恩寵を必要としています。ですから、私たちはその人たちのために、この恩寵を願わなければならないのです。

しかし、言葉による祈りだけでは、そのような恩寵を願うには十分ではありません。真の祈りとは、具体的な行動へと広がるものです。そうでなければ、単なる口先だけのものになってしまいます。私たちは、呼ばれた人たちが、私たちの主の呼びかけに積極的に応じることができるよう、彼らを助けなければなりません。何をすればいいのでしょうか? 一般的に言えば、私たちの主は、司祭を、幼少期から十代にかけて呼び始められます。ですから、子どもたちや十代の人たちが、この呼びかけを聞き、それに応えられるようにすることが、とても重要です。どのようにすれば、それが可能になるのでしょうか? それは、真にキリスト教的な雰囲気の中で生活させることです。両親は、イエズスとマリアが真に王と元后である家庭の根底から、私たちの主を不快にさせるものをすべて追い出す家庭生活を、子どもたちに与えましょう。カテキスタは、生徒たちに、カトリックの信仰を確信をもって指導し、日々の徳の実践を指導しましょう。司祭は、ミサと秘跡、説教と会話を通して、父としての配慮、主への奉仕における熱意と喜びを通して、若い信者たちに、天主の栄光と霊魂の救いのために自分を捧げたいという願いを伝えましょう。

子どもや若者が深いキリスト教的な雰囲気に包まれることで、私たちの主の呼びかけに、簡単かつ寛大に応じる心構えができるようになります。このような雰囲気がなければ、この世の誘惑がイエズスの呼びかけを抑え込んでしまう可能性があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主のこの簡単な御言葉「だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わしてくださるように祈れ」の持つ、深い意味を見てください。それが意味するのは、主の司祭たちが謙遜と聖性のうちに成長できるようイエズスに恩寵を願うこと、この世のもっと多くの人たちに司祭職の賜物を与えてくださるようイエズスに願うこと、呼ばれた人たちがイエズスの呼びかけに寛大に応じることを助けてくださるようイエズスに願うこと、子どもたちや若者たちに真にキリスト教的な生活の手段を与えるために私たちが最善を尽くすことをイエズスに約束することです。

大司祭の御母である聖母が、御子とともに取り次いでくださり、私たちのためにこれらすべての恩寵を獲得してくださいますように。



Rogate ergo Dominum messis, ut mittat operarios in messem suam.


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles