大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3)
DIE GROSSE WUNDE
Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder
9.この危機を克服する
2023年の今日(ここに戻りたいと思います)、教会は、歴史上最大の危機の一つの中にあります。それは、教会内部の危機です。それは、宣教、典礼、他者への奉仕、指導力など、教会生活のあらゆる分野に及んでいます。それは、深刻な信仰の危機です。それが私たちの理解したことです。
では、問題は「どのようにすればこの危機を克服できるのか」です。率直に申し上げましょう。危機を脱する方法はただ一つ、見捨てられた価値観に戻ること、軽視したり、不法に捨てたりした価値観や信念に立ち返ることです。その目的は、過去70年間に起こったことを処理し、それを見直しの対象とするためです。教会は、トップもメンバーも刷新することが必要です。特に、位階階級の刷新、司教たちの刷新、そして緊急に秘跡的かつ典礼的な生活へ緊急に回帰することが必要です。秘跡的な生活と司祭職(つまり位階階級)は、密接な関係にあります。1990年代に底を打ったと思われていたこの危機は、過去10年で急速に、ほとんど予想もしなかった深淵に達しました。しかし、文書「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を発表した2007年は、特に希望に満ちた年でした。その一方で、私たちはこう言わなければなりません。それは大きく燃え上がった火でした。しかし、その火はあっという間に消え去り、今日、危機はかつてないほど大きくなっています。
この時点で、私たちは、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」について、いや、むしろその廃止について、一言説明を加えなければなりません。なぜなら、この教皇文書は、私にとっては、聖ピオ十世会との対話に、非常に重要なものだったからです。教皇ベネディクト十六世の長年の仲間であるゲオルク・ゲンスヴァイン大司教は、次のように語っています。「2021年7月16日、ベネディクト十六世は『オッセルバトーレ・ロマーノ』で、聖伝のローマ典礼の使用に関する『トラディティオーニス・クストーデス』(Traditionis Custodes)の発表に関する情報を知ります。(…)『トラディティオーニス・クストーデス』は、(…)明確な方向転換をもたらすものです。
それは、14年前に始まった和解の探求を危険にさらすものですから、間違い(ミステイク)です。小教区の教会で聖伝の典礼によるミサの挙行を禁じたのは誤りでした。なぜなら、信者の一団を追い詰めて、自分たちが迫害されていると認識させ、いかなる代価を払っても自分たちのアイデンティティーを『敵』から守らなければならないと感じさせることは、常に危険なことだからです」(自由訳)。もちろん、和解についてだけではありませんが、このことを指摘することは重要なことです。
10.大いなる傷
また、この録画の題名は、教皇ベネディクト十六世に関するモンシニョール・ゲンスヴァインの情報から取りました。これは、先日の使徒的勧告「スンモールム・ポンティフィクム」に関する、最近亡くなった教皇(Summus Pontifex)の発言に関連しています。当時の彼(ベネディクト十六世)にとって、徐々に生じてきた大いなる傷(意図的であろうとなかろうと)を癒やすことは重要だったことでしょう。さらに読み進めます。「彼の著作から明らかなように、(…)神学者ラッツィンガーは、最初は典礼改革に共感していました。(…)しかし、その後の発展を見るにつれて、彼は、公会議が望んだことと執行委員会によって典礼になされたこととの間の違いに気づきました。特にラテン語の典礼の挙行が、守るべき防波堤、あるいは、壊されるべき要塞になったとき、その違いは対立する前線(陣営)の戦場となったのです(…)」(自由訳)。
聖ピオ十世会との対話は、大いなる傷を癒やすこと、いやそれ以上に、大いなる傷を癒やすのを助けることも目的としています。なぜなら、この傷はまだ出血しており、最近も出血が続いているからです。教会は、この傷によって、かつてないほど苦しんでいます。この傷は大きくなっています。この傷は毒のある腫れ物となって、全身を熱のある悪い状態にしています。この意味で、「デシデリオ・デシデラーヴィ」が典礼について、また教会の一致との関係について言及したこと(61番)は、真剣に受け止めるべきでしょう。
「このような理由から、私は『トラディティオーニス・クストーデス』を書きました。非常に多くの多様な言語のある中で、教会が教会の一致を表現することのできる一つの同じ祈りを掲げることができるようにするためです。すでに書いたように、私は、この一致が、ローマ典礼の教会全体で再確立されるように意図しています」。
しかし、この方法で一致が回復できるのかという疑問が生じます。真正な典礼を廃止することによってでしょうか。これは単に違法なことです。なぜなら、この典礼は聖伝によって教会の信仰の宝に属しており、そのため天主の法に関わるものだからです。
11.教会内部での迫害
教皇ベネディクト十六世は、その発言によって、残念ながら今日の教会全体に影響を及ぼし、現代の教会の状況を説明するのに属する事実、すなわち教会内の迫害を取り上げました。アリウス派の時代に大聖バジリウス(379年帰天)が次のように不満を述べたように、私たちも今日、そう認めざるを得ません。
「正しく敬うべき兄弟たちよ、迫害は私たちに降りかかっている。最も厳しい形での迫害が。牧者が迫害され、群れは散らされる。そして、最悪なのは、不当な扱いを受けている人々が、自らの苦しみを自らの証しの証拠として受け入れることができず、人々は大勢の殉教者のように競技者たちを尊敬することもできないことである。なぜなら、キリスト教徒という名前が迫害者に適用されるからである。現在、確実に厳しい罰を受けることになる一つの罪は、教父たちの聖伝を注意深く守ることだ。このために敬虔な人々は家から追放され、遠い地方に住まわされることになる。悪の判事たちは、白髪交じりの頭、実践的な敬虔さ、少年期から老年期まで福音に従って生きる生活に対して、敬意を示さない。(…)私たちは、これらのことを知っている人たちに向けて書いている。なぜなら、われわれの災難を知らない地方は、この世にないからである」。
聖バジリウスはそう言っています。そうです、教会博士であるこの聖なる教父のこの記述は、現代の教会の状況にほぼ一対一で当てはめることができます。最近、「トラディティオーニス・クストーデス」、「デジデリオ・デジデラーヴィ」と、それに付随する文書で始まった聖伝の典礼に対する措置は、この典礼に、ローマ教会の真にして本来の礼拝があると認める理由を持っているそれらの信者に対する狩りにほかなりません。彼らには何世紀にもわたって受け継がれてきた形式で秘跡を受ける権利があることを、臆面もなく無視しているのです。それは、公会議後で勝利を得て、当時多くの苦しみを引き起こしたのと同じ大胆さなのです。
12.教皇フランシスコへの質問
私は教皇様にお聞きしてみたいと思います…そうです、教皇様が私を迎えてくだされば、私は何を聞いてみたいでしょうか。教皇様にお聞きしたいのは、こうです。
「なぜ子どもたちからパンを取り上げるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを餓えさせるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを消滅させようとするのですか」。
なぜなら、彼らにはこの糧を得る権利があるからです。私は強調します、この糧を得る権利がある、と。それは、彼らの父親が食し、彼らに受け継がれた糧なのです。彼らのレシピではありません。彼らが、言ってみれば勝手に、自分たちで作ったものではありません。彼らは、忠実に受け継いできた人たちから受けたのです。
なぜ教皇様はそれを彼らから取り上げて、彼らを飢えさせようとするのですか。なぜ教皇様は、彼らにとって異質なものを彼らに押し付けようとするのですか。
私たちの主はこう言われました。「人間の父親でさえ、自分の子がパンを求めるのに、石を、魚を求めるのに蛇を、卵を求めるのにさそりを与える者があろうか」【マテオ7章9-10節、ルカ11章11-12節】。
ここでポイントは、教皇様が何かを与えるということではなく、教皇様が子どもたちから何かを、つまり、教父たちの聖なる犠牲という重要なものを取り上げる、ということなのです。
ルフェーブル大司教は、1976年に教皇パウロ六世に謁見した際、次のような要望をしました。
「公会議以前のように、いろいろな教会の中で、一つのチャペルを認可することはできないでしょうか。今日、すべての人にすべてが許されています。なぜ私たちは、何かが許されないのでしょうか」。
当時、それは奇妙な要求に関するものではありませんでした。今日でも、それは奇妙な願いに関するものではありません。それは、信仰についてのものです。私たちの信仰の至高の善についてのものなのです。それは本当に、生きていくための糧、パンについてのものです。そこで再び疑問です。なぜ教皇は子どもたちからパンを取り上げるのでしょうか。何が教皇をして、子どもたちを飢えさせ、消滅させるのでしょうか。
13.正義と感謝
私は、2015年1月9日に聖ピオ十世会の代表者たちとの協議開始を命じたローマの書簡に立ち戻ります。不利な状況にもかかわらず、私はその任務を果たしました。そして今も果たしているところです。ですから締めくくりに、教会当局へのお願いを述べたいと思います。
私は、聖ピオ十世会に対する正義を求めます。彼らの事案の研究により、この請願を求めているのです。他のケースと同様に、教会がこの会に関連して謝罪をすることがふさわしいでしょう。これは、幻の墓のケースでも行われたことです。これは、幻の墓に関することではなく、生きている人々に関することであり、公会議以前に教会によって与えられた司牧の世話を受ける権利を持ち、その後も永久の請求権として存在し続けている霊魂たちに関することです。これは特権や恩典に関することではなく、権利に関することです。教会の権威が、この謝罪とともに、聖ピオ十世会の活動に対する感謝の気持ちを表明し、この深くカトリック的な活動に対して、「もしも」や「しかし」のない【一切の留保のない】評価を表明すれば、うまくいくでしょう。