聖歌「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」で聖霊につけられた名前についての説教
ドモルネ神父 2023年5月28日 聖霊降臨の主日
はじめに
今日は、聖霊降臨、つまり使徒たちへの聖霊の降臨をお祝いしています。ですから、聖霊降臨は、聖霊の祝日なのです。この日、教会は晩課の祈りの中で、よく知られた聖歌「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」で聖霊をたたえます。そして、この聖歌の中で教会は、聖霊に、次のような名前で呼びかけます。それは、「パラクリトゥス、いと高き天主の賜物、生ける泉、火、愛、霊的注油」です。今日は、なぜ私たちが聖霊にこれらの名前で呼びかけるのかについてお話しします。
1)パラクリトゥスなる聖霊
聖霊は、「パラクリトゥス」と呼ばれます。この名前は、私たちの主ご自身がつけられたものです。最後の晩餐で話されたとき、イエズスはこう言われました。「そして私は父に願おう。そうすれば、父はほかのパラクリトゥスをあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる」(ヨハネ14章16節)。「パラクリトゥス」という言葉には、「弁護する者」と「慰める者」という二つの意味があります。聖霊は、私たちにとって弁護者であり、慰める者なのです。
弁護者とは、私たちを弁護するために私たちに代わって話してくれる者、私たちに代わって取りなしてくれる者のことです。私たちの主は、天における私たちの弁護者です。聖ヨハネはこう言っています。「罪を犯す人があるなら、私たちは御父の御前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである」(ヨハネ第一書2章1節)。聖霊は、私たち自身の内におられる弁護者です。聖霊は、私たちが天主のことを思い、また天主に祈るようにさせてくださいます。聖パウロはこう言っています。「霊も私たちを弱さから助ける。私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが、霊は、筆舌に尽くしがたいうめきをもって、私たちのために取り次いでくださる」(ローマ8章26節)。
慰める者とは、私たちに希望と勇気を与えてくれる人のことです。私たちの主は、私たちを、私たちの罪とその結果から解放してくださいますから、私たちを慰める者です。しかし、聖霊は、私たちにとっての、もう一人の慰める者です。聖グレゴリウスはこう言っています。「聖霊は、私たちの心を満たすやいなや、私たちの心に、目に見えない物への熱烈な望みを起こさせる」。聖霊は、私たちに、超自然の物への愛と、それを私たちの主イエズスを通して手に入れたいという希望を与えることによって、私たちを慰めてくださるのです。この希望が、私たちに、この世のあらゆる試練に耐える強さと忍耐力を与えてくれるのです。
2)いと高き天主の賜物なる聖霊
聖霊は「いと高き天主の賜物」とも呼ばれます。聖霊は、父なる天主と子なる天主の両方から私たちに送られるのですから、天主の賜物です。イエズスは、最後の晩餐のとき、こう言われました。「パラクリトゥス、すなわち父が私の名によって送り給う聖霊」(ヨハネ14章26節)。しかし、私たちにはもっと言うべきことがあります。「天主の賜物」という名前は、本当に聖霊にふさわしい名前なのです。なぜそうなのでしょうか? 賜物とは、愛のゆえに、自由に与えられるものです。ですから、皆さんが人に贈る最初の贈り物は、皆さんの愛であり、次に、その愛のゆえに、皆さんは、どんな贈り物でも贈ります。天主もそうなのです。天主の愛が、私たちに対する、天主からの最初の賜物です。天主の愛は、天主が私たちに与えられるすべてのものに先立つものであり、またその理由です。ところで、天主の愛は、聖霊です。ですから、聖霊は「天主の賜物」と呼ばれるのがふさわしいのです。つまり、聖霊は、天主からの最初の賜物であり、天主が他のすべてのものを与えてくださる理由なのです。
3)生ける水の源なる聖霊
聖霊は「生ける泉」とも呼ばれます。この名前は、私たちの主がサマリア人の女に言われた言葉から来ています。私たちの主が井戸のそばで休んでおられると、一人の女が水を汲みに来ました。私たちの主は、その女にこう言われました。「この水を飲んでもまた渇きを覚えるが、私の与える水を飲む者はいつまでも渇きを知らないだろう。私の与える水は、その人の中で、永遠の命に湧き出る水の泉となる」(ヨハネ4章13-14節)。聖アウグスティヌスは、この言葉をこう説明しています。「救い主がこの女に約束されたものは、女の霊魂を満たす聖霊のあふれかえるほとばしりである」。主は、この世のすべての財物を水にたとえ、聖霊を、自分自身の内にある生ける泉にたとえておられます。水を飲んで渇きを癒やせるのが短時間にとどまるように、この世の財物は、人の幸福への渇きを不完全にしか癒やせません。一方、自分自身の内に生ける水の源を持つ者が、もはや渇きに苦しむことなく、常に完全に潤わされるように、自らの内に聖霊が住まわれる者は、真の幸福を見いだすのです。この幸福は、この世で生きている間は、ある程度私たちの内に隠されていますが、死んだ後に、その完全な姿を現すのです。
4)火なる聖霊
聖霊は「火」とも呼ばれます。この名前は、聖霊降臨の日に、聖霊が火の舌として現れられたことから来ています。火の主な性質は、照らすことと、温めることです。火は聖霊の象徴です。なぜなら、聖霊は、私たちに真理を知らせることによって私たちの心を照らし、私たちに真理を愛させることによって私たちの心を温めてくださるからです。私たちの主はこう言われました。「かれ、つまり真理の霊が来るとき、かれはあなたたちをあらゆる真理に導くであろう」(ヨハネ16章13節)。しかし、真理とは何でしょうか? それは、現実をありのままに知ることです。ところで、天主の現実は、私たちの主イエズス・キリストによって私たちに啓示され、イエズス・キリストによって私たちに伝えられました。したがって、真理の霊は、必然的に、私たちがイエズス・キリストを知って愛するように導かれ、イエズスが私たちに与えられた掟を私たちに守らせ、イエズスが私たちに教えられたように、私たちに天主を礼拝させられるのです。
したがって、第二バチカン公会議が、「エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)」で、あえて次のように教えるのは、奇怪なことであり、ほとんど冒涜のようなものなのです。「キリストの霊は、これらの[カトリック教会から離れた共同体]を救いの手段として使うことを拒否しない」(3番)。聖霊は、偽りの宗教を永遠の救いの手段として使うどころか、光が闇を追い払うように、これらの悪の宗教を追い払われるのです。そして、燃え盛る火が火花を遠くまで広く散らすように、聖霊は、イエズス・キリストとその真の教えを知らせるために、世界中に宣教師を送られるのです。
5)愛なる聖霊
聖霊は、「愛」とも呼ばれます。三位一体の内において、聖霊は、御父と御子を結びつける愛です。この愛はまったく完全なものですから、それは単なる感情ではなく、それ自体がペルソナなのです。「愛」という言葉は、天主の愛を意味します。ですから、愛は、聖霊を意味します。私たちの主の霊は聖霊であり、愛の霊です。ですから、私たちの主イエズスの教えはすべて愛の掟ということになりますから、愛の実践は聖霊の御働きの確かなしるしとなります。「『あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ』。これが第一の、最大の掟である。第二のも、これに似ている。『隣人を自分と同じように愛せよ』」(マテオ22章37-39節)。「私は新しい掟を与える。あなたたちは、互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも、互いに愛し合え。互いに愛し合うなら、それによって、人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13章34-35節)。
6)霊的注油なる聖霊
最後に、聖霊は、「霊的注油」と呼ばれます。注油とは何でしょうか? 注油とは、与えられる尊厳や使命のしるしのことです。例えば、キリストの御体を持つという司祭の両手の神聖さのしるしとして、司祭の両手は、注油されます。王は、民を治めるという使命と権威のしるしとして、注油されます。
聖霊は、「霊的注油」と呼ばれます。なぜなら、私たちの主が私たちを天主の子とされるのは、聖霊を通してだからです。聖パウロはローマ人にこう書いています。「あなたたちは、再び恐れに陥るために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ。霊御自ら、私たちの霊とともに、私たちが天主の子であることを証明してくださる」(ローマ8章15-16節)。聖霊は、洗礼の霊印によって、私たちの霊魂に天主の子としてのしるしを付けられます。聖霊は、さらに、堅振の秘跡の霊印によって、私たちの霊魂にイエズス・キリストの兵士としてのしるしを付けられるのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、聖霊は御父と御子と同じように、天主です。ですから、私たちは、御父と御子と同じように、聖霊を礼拝し、聖霊に祈らなければなりません。もし聖霊のことを考えたり、聖霊に祈ったりすることが難しいと感じるなら、教会が聖霊につけている次の名前を思い出してください。パラクリトゥス、いと高き天主の賜物、生ける泉、火、愛、霊的注油。これらの名前の意味を黙想することによって、皆さんは、祈りを、恩寵によって皆さんの霊魂に住まわれる聖霊に、より簡単に向けられるようになるでしょう。