アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年1月1日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日目)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月1日 御降誕の大祝日の八日目
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月1日、元旦、イエズス様の御降誕の八日目のミサをしています。今日は、日本では守るべき祝日であって、そして明日も10時30分からミサがあります。今日は、また特に初金曜日ですので、ミサの直後、聖時間をイエズス様の聖心にお捧げしたいと思います。1月は、10日・11日と御ミサがあります。また、15・16日と、金・土とミサがあります。どうぞ、皆さんのお越しをお待ちしております。
この今日は、初金で、聖時間があって、その後に、できればお正月ですので、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思ったのですけれども、病気の方がいらっしゃって、病院に入院された方がいるのですけれども、その終油の秘跡の為に行かなければならなくて、この皆さんに失礼してしまうかもしれませんが、どうぞご了承ください。
明日はイエズス様の、幼きイエズス様に礼拝の接吻をしつつ、礼拝する儀式を一緒にする事に致しましょう。
新年は、この遂にファチマの100周年の1年前となりました。そこで特に今年は、秋田と長崎に巡礼に行こうと思っています。今年は特別に長崎も付け加えました。このような機会は、将来おそらく無いと思います。そして皆さんと一緒に長崎に行くというのは、非常に貴重な、おそらく又と無いチャンスですので、是非皆さん、是非、ファチマ100周年を準備する為にも、良く参加する事ができる、良くご計画を、いらっしゃる事を、是非是非、考えて下さる事をお願い致します。
そして8月13日からは、9ヶ月におけるノベナが始まります。今年は特に、ファチマの準備をする大切な年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。
また8月には、ここで大阪で、聖母の特別のマリア黙想会、聖母の黙想会が開かれます。8月の10日から15日まで、皆さん10日に集合で、15日まで、どうぞ皆さんこれも、非常に貴重な機会ですので、ファチマのマリア様100周年の為に、是非ご参加をご考慮くださる事を、深くお願い致します。
それから、今年は復活祭が少し早く、3月30日が復活祭で、2月10日は灰の水曜日です。灰の水曜日には、私たちはここでミサをする事を予定しています。皆さん、そこでご家庭に枝があればですね、今度私が参ります時に、枝をお持ち下されば幸いです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、この御降誕八日目のこのミサは、八日間の間、イエズス様の色々な神秘を黙想して、典礼によると、或いは聖務日課によると、聖務日課の色々なAntifonaや色々な言葉は、「イエズス様が真に天主であった」という事をよく黙想するように私たちに導いています。そしてこの、「イエズス様が真に天主であった」という事をもっとはっきり言う為に、公教会の典礼によると、「マリア様が童貞であり、同時に、天主の御母である」という事が非常に強調されています。「実際に、マリア様が天主の御母である」という事は、「イエズス様が天主であった」という事の、コインの表と裏であるからです。「イエズス様が天主であった」という事を否定する人は、どうしても、「マリア様が天主の御母である」という事を否定します。
そこで、「天主の御母であるマリア様」という事は、ではマリア様は、「天主を産んだ」という事は、天主を創造したのか?「天主」というものを生み出したのか?のではなくて、もちろん、これは、「マリア様がお産みになったイエズス・キリストは、真の天主であった。」という事です。これはちょうど例えて言えば、例えば、ベートーベンを産んだお母さんは、「音楽家のお母さん」だったけれども、ベートーベンのお母さんが、音楽家そのものを生んだわけではなくて、「産んだ子供が音楽家だ」という事です。
それと似た様に、マリア様からお生まれになったイエズス様が、「真の天主」であるが為に、「マリア様は、天主の御母である」という事です。
では、今日そこから、マリア様とイエズス様の関係を黙想する事を提案します。
イエズス様は、「マリア様からお生まれになる」という事を望んだ、天主は、「マリア様からお生まれになる」事を望んだ。という事は、イエズス様は、私たちにどのような事を模範で示そうとされたのか、そして、マリア様は、私たちにとってどのような御方なのか、最後に、私たちは、この新年にどうしなければならないのか、新年をかけて、どのように、どのような目標を設定しよう、するのが良いか、何を新年の希望として立てるか、という事を黙想したいと思います。
天主様が、マリア様を選んで、マリア様からお生まれになったという事は、これは天主が全く自由に、無限の可能性の中から1つを選んで、知性を以って選んで、そしてこうする事を望んだ、という事です。これは、天主が自由意志を使って、自由選択能力を使って、本能でも、運命でも、義務でも、何でもなく、無限の可能性の中から、このマリア様からお生まれになる事を望んだ、という事です。これを望まれた、という事です。そしてこれを、そうする事が、「最高の業であって、最高の事である。」と思われたからです。何故ならば、天主の御業は全て完璧であるからです。そしてイエズス様はこうする事によって、天主はこうする事によって、私たちに模範を示しました。
聖パウロは言います、「キリストの心を心とせよ。」或いは、「古いパン種を捨てて、イエズス・キリストを着よ。」或いは、「私がそうしているように、お前たちもイエズス・キリストを学べ、その真似をしろ。私がイエズス・キリストの真似をしているように、お前たちも私の真似をして、イエズス・キリストを真似よ。」と。
イエズス様も私たちに仰います、「私は、お前たちに模範を残した。」イエズス様が、私たちにマリア様を選ばれたという事は、自由意志によって選ばれた、という事は、私たちに模範を残しているという事です。もしも私たちが、聖パウロと同じように、「私にとって生きるとはキリストである。」のであれば、イエズス・キリストの模範を真似なければなりません。そしてイエズス様は、マリア様を御自分の母として選んだ、という事を、まず私達は真似なければなりません。これが、天主御父に対する、最高の愛の表明であって、そしてマリア様に対する愛の表明として、イエズス様は御母として選ばれました。
イエズス様は、30年間、マリア様の元にいつもおられました。離れずにおられました。そしてマリア様の元を離れたのはたった3年間で、その3年間に、他の人の為に尽くされました。しかし、贖いの業の為には、十字架の最後の時には、マリア様と共に時を過ごす事を、贖いの業を成し遂げる事を望まれました。
最初の奇跡も、マリア様を通して起こす事を望まれました。贖いの業も、マリア様を通して起こす事を望まれました。
そればかりではありません。イエズス・キリストは、単なる、単にこの地上に於いて生きている間、マリア様を崇敬したばかりか、天に於いても、今でもずっと、マリア様を母として尊敬し、マリア様のいつも祈りを聞き入れ、そしてマリア様をいつも喜ばせようとされておられます。
そればかりではありません。イエズス・キリスト様の神秘体のカトリック教会も、天上の凱旋の教会も、地上の教会も、心を合わせて、マリア様を賛美しています。そして苦しむ教会は、マリア様を通して、多くの恵みを受けています。全神秘体が、キリストの神秘体が、マリア様を色々な方法で、色々な祝日で、色々なマリア様の特権を賛美する事によって、天上でも地上でも賛美しています。マリア様の為に色々な修道会が作られました。マリア様の為に色々な信心をしています。
そして、私たちも、このイエズス様の神秘体を真似なければなりません。天に於けるイエズス様、地上に於けるイエズス様、そしてイエズス様の神秘体を真似なければなりません。これが、聖パウロが私たちにしきりに勧めている、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」という事です。
では第2のポイントで、マリア様は私たちにとって、どのような御方なのでしょうか?
皆さんもご存知の通り、マリア様は私たちにとって、本当の母です。それは単にイエズス様が十字架の下で、「見よ、これが汝の母なり。」と、聖ヨハネを通じて、マリア様を私たちの母としてくださった、という事を宣言して下さったというだけではありません。何故かというと、もしかしたら誤解する人がいて、「じゃあ、ただの宣言をしただけならば、ちょうど私たちが養子に取られたように、養子に与えられたように、マリア様が法律的に名前だけ、マリア様となった、マリア様がお母様となった。でも、本当に私たちに命を与えてくれるお母さんは別にいて、名前だけはお母さんだ。」と、誤解する人がいるからです。
それだけではありません。確かにイエズス様は十字架の上で荘厳に、「これ汝の母なり。」と、宣言して、ハンコを打って、確証しましたけれども、しかしマリア様はナザレトで、「仰せの如く我になれかし。」と仰って、イエズス・キリストをご胎内に宿した時に、キリストの神秘体の頭を宿した時に、それと同時に、私たちに全てを、神秘体の成員を全て、可能性の内に全て、神秘的にお宿しになったのでした。
そして実際にカルワリオに於いて、イエズス様と共に御苦しみを受けて、贖いの業を成し遂げたその時に、産みの苦しみを以って、私たちに超自然の命を与えて下さったのです。もちろん、超自然の命を私たちが現実に受けるのは、洗礼を受けた時です。しかし既にマリア様は私たちに、十字架の下で私たちに、超自然の命を与える母となられたのです。
ですからマリア様の事を、「ちょうどマリア様は、私たちのお母様のような方だ。」などと言っては、これはマリア様にとって、本当に大きな悪口となってしまいます。何故かというと、マリア様というのは本当に、私たちに超自然の命を与えた、超自然の命の母であるからです。
第3に、私たちはでは新年に、どのような、何を、どんな良い決心を立てたら良いでしょうか?
初詣に行く人は、「交通安全」「家内繁盛」「事業の成功」とか、色々な現世的な事をお祈りするかもしれません。しかし私たちは、人生の究極の目的が、「霊魂の救いである」「天国に行く事である」という事を知っていますから、イエズス様が御誕生になったその目的も、「私たちに永遠の命を与える事である」という事を知っていますから、私たちの究極の目的が与えられるようにお祈り致しましょう。私たちが天国に真っ直ぐに行く事ができますように。それこそが、新年の最高のお祈りです、願いです。
では、その為にはどんな手段が良いのでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリスト様の、イエズス様をすっかり真似て、イエズス様の心を心として、ますますイエズス様に似通った者となる事です。そうする事によって、イエズス様が開いて下さった天国に、真っ直ぐ、まっしぐらに行く事ができるからです。私たちの心の中に、イエズス様の心が、内的なエンジンとして、動力として動いて、私たちを動かして下さいますように。イエズス様の考えが、私たちの考えとなりますように。イエズス様が仰ったように、「私はぶどうの木である。私を離れては、何の実も付ける事ができない。」イエズス様の幹から来る木の汁が、聖寵の恩寵と、そしてイエズス様の息吹と、イエズス様の考えと、イエズス様のお望みが、私たちの息吹と望みになりますように。イエズス様がなさるように、私たちも行動する事ができますように。イエズス様が頭であるのですから、その頭の思うように、望むように、私たち手足が動く事ができますように。それこそが、新年の私たちの願いであり、望みであります。
では、その為にはどうしたら良いでしょうか?私はこの新年に、ファチマの100周年を準備する為にも、イエズス様に倣って、イエズス様の心を心として、私たちの心も、霊魂も、全く、マリア様にお捧げする事を提案します。皆さんは、毎日きっとなさっています。朝起きた時に、御聖体拝領した時に、イエズス様のように、私たちの心も霊魂も、過去、現在、未来、全て、そして物体的なものも、霊的なものも、全て、自然の恵みも、超自然の恵みも、全て、マリア様にお委ねする。まさにイエズス様がなさった、その事です。
この新年にあたって、是非、この1年の全ての御恵みと、全ての行動、思い、言葉を、マリア様にお委ね致しましょう。そしてイエズス様が私たちの中にいらして、私たちを動かして下さって、イエズス様がなさったように、私たちもマリア様を愛する事ができまように、マリア様の良き子供となる事ができますように、マリア様の良き道具として、マリア様の元にいる事ができますように、お祈り致しましょう。
イエズス様がなさったように。「あぁ、こうすると何か、利益があるから、得があるから。」現世利益を求めて、ではなくて、イエズス様がマリア様をただただ愛して、マリア様にひたすら愛したように、私たちもイエズス様に倣って、マリア様をひたすらお愛しする事ができますようお祈り致しましょう。
願わくは、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができますように。そしてその為にも、どうぞ遷善の決心を立てて下さい。今年1年、変わらずに、朝起きたら、マリア様に奉献の祈りをする、御聖体拝領の時に、イエズス様に倣って、マリア様に奉献をする、そして頻繁に、「イエズス様がどれだけマリア様をお愛しされたか」という事を考えて、私たちも、「イエズス様のようにマリア様を愛したい」と思う。
最後に、マリア様は私たちのお母様ですから、マリア様がイエズス様をお愛しすると同じ愛を以って、私たちを、「私たちのようなものを愛して下さっている」という事を考えましょう。マリア様が、私たちがどれほど惨めでつまらないものであったとしても、イエズス様を愛すると同じほどの愛を以って、愛しされているという事は、どれほどの愛でしょうか。私たちの想像を絶する愛を以って、愛されている事を考えましょう。
この、イエズス様のようなマリア様への愛は、天主様からの特別の御恵みです。ですから、このような愛を私たちも頂く事ができますように、特に2016年の特別の御恵みとして、この賜物を、マリア様を通して、イエズス様に乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年1月1日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日目)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月1日 御降誕の大祝日の八日目
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月1日、元旦、イエズス様の御降誕の八日目のミサをしています。今日は、日本では守るべき祝日であって、そして明日も10時30分からミサがあります。今日は、また特に初金曜日ですので、ミサの直後、聖時間をイエズス様の聖心にお捧げしたいと思います。1月は、10日・11日と御ミサがあります。また、15・16日と、金・土とミサがあります。どうぞ、皆さんのお越しをお待ちしております。
この今日は、初金で、聖時間があって、その後に、できればお正月ですので、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思ったのですけれども、病気の方がいらっしゃって、病院に入院された方がいるのですけれども、その終油の秘跡の為に行かなければならなくて、この皆さんに失礼してしまうかもしれませんが、どうぞご了承ください。
明日はイエズス様の、幼きイエズス様に礼拝の接吻をしつつ、礼拝する儀式を一緒にする事に致しましょう。
新年は、この遂にファチマの100周年の1年前となりました。そこで特に今年は、秋田と長崎に巡礼に行こうと思っています。今年は特別に長崎も付け加えました。このような機会は、将来おそらく無いと思います。そして皆さんと一緒に長崎に行くというのは、非常に貴重な、おそらく又と無いチャンスですので、是非皆さん、是非、ファチマ100周年を準備する為にも、良く参加する事ができる、良くご計画を、いらっしゃる事を、是非是非、考えて下さる事をお願い致します。
そして8月13日からは、9ヶ月におけるノベナが始まります。今年は特に、ファチマの準備をする大切な年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。
また8月には、ここで大阪で、聖母の特別のマリア黙想会、聖母の黙想会が開かれます。8月の10日から15日まで、皆さん10日に集合で、15日まで、どうぞ皆さんこれも、非常に貴重な機会ですので、ファチマのマリア様100周年の為に、是非ご参加をご考慮くださる事を、深くお願い致します。
それから、今年は復活祭が少し早く、3月30日が復活祭で、2月10日は灰の水曜日です。灰の水曜日には、私たちはここでミサをする事を予定しています。皆さん、そこでご家庭に枝があればですね、今度私が参ります時に、枝をお持ち下されば幸いです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、この御降誕八日目のこのミサは、八日間の間、イエズス様の色々な神秘を黙想して、典礼によると、或いは聖務日課によると、聖務日課の色々なAntifonaや色々な言葉は、「イエズス様が真に天主であった」という事をよく黙想するように私たちに導いています。そしてこの、「イエズス様が真に天主であった」という事をもっとはっきり言う為に、公教会の典礼によると、「マリア様が童貞であり、同時に、天主の御母である」という事が非常に強調されています。「実際に、マリア様が天主の御母である」という事は、「イエズス様が天主であった」という事の、コインの表と裏であるからです。「イエズス様が天主であった」という事を否定する人は、どうしても、「マリア様が天主の御母である」という事を否定します。
そこで、「天主の御母であるマリア様」という事は、ではマリア様は、「天主を産んだ」という事は、天主を創造したのか?「天主」というものを生み出したのか?のではなくて、もちろん、これは、「マリア様がお産みになったイエズス・キリストは、真の天主であった。」という事です。これはちょうど例えて言えば、例えば、ベートーベンを産んだお母さんは、「音楽家のお母さん」だったけれども、ベートーベンのお母さんが、音楽家そのものを生んだわけではなくて、「産んだ子供が音楽家だ」という事です。
それと似た様に、マリア様からお生まれになったイエズス様が、「真の天主」であるが為に、「マリア様は、天主の御母である」という事です。
では、今日そこから、マリア様とイエズス様の関係を黙想する事を提案します。
イエズス様は、「マリア様からお生まれになる」という事を望んだ、天主は、「マリア様からお生まれになる」事を望んだ。という事は、イエズス様は、私たちにどのような事を模範で示そうとされたのか、そして、マリア様は、私たちにとってどのような御方なのか、最後に、私たちは、この新年にどうしなければならないのか、新年をかけて、どのように、どのような目標を設定しよう、するのが良いか、何を新年の希望として立てるか、という事を黙想したいと思います。
天主様が、マリア様を選んで、マリア様からお生まれになったという事は、これは天主が全く自由に、無限の可能性の中から1つを選んで、知性を以って選んで、そしてこうする事を望んだ、という事です。これは、天主が自由意志を使って、自由選択能力を使って、本能でも、運命でも、義務でも、何でもなく、無限の可能性の中から、このマリア様からお生まれになる事を望んだ、という事です。これを望まれた、という事です。そしてこれを、そうする事が、「最高の業であって、最高の事である。」と思われたからです。何故ならば、天主の御業は全て完璧であるからです。そしてイエズス様はこうする事によって、天主はこうする事によって、私たちに模範を示しました。
聖パウロは言います、「キリストの心を心とせよ。」或いは、「古いパン種を捨てて、イエズス・キリストを着よ。」或いは、「私がそうしているように、お前たちもイエズス・キリストを学べ、その真似をしろ。私がイエズス・キリストの真似をしているように、お前たちも私の真似をして、イエズス・キリストを真似よ。」と。
イエズス様も私たちに仰います、「私は、お前たちに模範を残した。」イエズス様が、私たちにマリア様を選ばれたという事は、自由意志によって選ばれた、という事は、私たちに模範を残しているという事です。もしも私たちが、聖パウロと同じように、「私にとって生きるとはキリストである。」のであれば、イエズス・キリストの模範を真似なければなりません。そしてイエズス様は、マリア様を御自分の母として選んだ、という事を、まず私達は真似なければなりません。これが、天主御父に対する、最高の愛の表明であって、そしてマリア様に対する愛の表明として、イエズス様は御母として選ばれました。
イエズス様は、30年間、マリア様の元にいつもおられました。離れずにおられました。そしてマリア様の元を離れたのはたった3年間で、その3年間に、他の人の為に尽くされました。しかし、贖いの業の為には、十字架の最後の時には、マリア様と共に時を過ごす事を、贖いの業を成し遂げる事を望まれました。
最初の奇跡も、マリア様を通して起こす事を望まれました。贖いの業も、マリア様を通して起こす事を望まれました。
そればかりではありません。イエズス・キリストは、単なる、単にこの地上に於いて生きている間、マリア様を崇敬したばかりか、天に於いても、今でもずっと、マリア様を母として尊敬し、マリア様のいつも祈りを聞き入れ、そしてマリア様をいつも喜ばせようとされておられます。
そればかりではありません。イエズス・キリスト様の神秘体のカトリック教会も、天上の凱旋の教会も、地上の教会も、心を合わせて、マリア様を賛美しています。そして苦しむ教会は、マリア様を通して、多くの恵みを受けています。全神秘体が、キリストの神秘体が、マリア様を色々な方法で、色々な祝日で、色々なマリア様の特権を賛美する事によって、天上でも地上でも賛美しています。マリア様の為に色々な修道会が作られました。マリア様の為に色々な信心をしています。
そして、私たちも、このイエズス様の神秘体を真似なければなりません。天に於けるイエズス様、地上に於けるイエズス様、そしてイエズス様の神秘体を真似なければなりません。これが、聖パウロが私たちにしきりに勧めている、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」という事です。
では第2のポイントで、マリア様は私たちにとって、どのような御方なのでしょうか?
皆さんもご存知の通り、マリア様は私たちにとって、本当の母です。それは単にイエズス様が十字架の下で、「見よ、これが汝の母なり。」と、聖ヨハネを通じて、マリア様を私たちの母としてくださった、という事を宣言して下さったというだけではありません。何故かというと、もしかしたら誤解する人がいて、「じゃあ、ただの宣言をしただけならば、ちょうど私たちが養子に取られたように、養子に与えられたように、マリア様が法律的に名前だけ、マリア様となった、マリア様がお母様となった。でも、本当に私たちに命を与えてくれるお母さんは別にいて、名前だけはお母さんだ。」と、誤解する人がいるからです。
それだけではありません。確かにイエズス様は十字架の上で荘厳に、「これ汝の母なり。」と、宣言して、ハンコを打って、確証しましたけれども、しかしマリア様はナザレトで、「仰せの如く我になれかし。」と仰って、イエズス・キリストをご胎内に宿した時に、キリストの神秘体の頭を宿した時に、それと同時に、私たちに全てを、神秘体の成員を全て、可能性の内に全て、神秘的にお宿しになったのでした。
そして実際にカルワリオに於いて、イエズス様と共に御苦しみを受けて、贖いの業を成し遂げたその時に、産みの苦しみを以って、私たちに超自然の命を与えて下さったのです。もちろん、超自然の命を私たちが現実に受けるのは、洗礼を受けた時です。しかし既にマリア様は私たちに、十字架の下で私たちに、超自然の命を与える母となられたのです。
ですからマリア様の事を、「ちょうどマリア様は、私たちのお母様のような方だ。」などと言っては、これはマリア様にとって、本当に大きな悪口となってしまいます。何故かというと、マリア様というのは本当に、私たちに超自然の命を与えた、超自然の命の母であるからです。
第3に、私たちはでは新年に、どのような、何を、どんな良い決心を立てたら良いでしょうか?
初詣に行く人は、「交通安全」「家内繁盛」「事業の成功」とか、色々な現世的な事をお祈りするかもしれません。しかし私たちは、人生の究極の目的が、「霊魂の救いである」「天国に行く事である」という事を知っていますから、イエズス様が御誕生になったその目的も、「私たちに永遠の命を与える事である」という事を知っていますから、私たちの究極の目的が与えられるようにお祈り致しましょう。私たちが天国に真っ直ぐに行く事ができますように。それこそが、新年の最高のお祈りです、願いです。
では、その為にはどんな手段が良いのでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリスト様の、イエズス様をすっかり真似て、イエズス様の心を心として、ますますイエズス様に似通った者となる事です。そうする事によって、イエズス様が開いて下さった天国に、真っ直ぐ、まっしぐらに行く事ができるからです。私たちの心の中に、イエズス様の心が、内的なエンジンとして、動力として動いて、私たちを動かして下さいますように。イエズス様の考えが、私たちの考えとなりますように。イエズス様が仰ったように、「私はぶどうの木である。私を離れては、何の実も付ける事ができない。」イエズス様の幹から来る木の汁が、聖寵の恩寵と、そしてイエズス様の息吹と、イエズス様の考えと、イエズス様のお望みが、私たちの息吹と望みになりますように。イエズス様がなさるように、私たちも行動する事ができますように。イエズス様が頭であるのですから、その頭の思うように、望むように、私たち手足が動く事ができますように。それこそが、新年の私たちの願いであり、望みであります。
では、その為にはどうしたら良いでしょうか?私はこの新年に、ファチマの100周年を準備する為にも、イエズス様に倣って、イエズス様の心を心として、私たちの心も、霊魂も、全く、マリア様にお捧げする事を提案します。皆さんは、毎日きっとなさっています。朝起きた時に、御聖体拝領した時に、イエズス様のように、私たちの心も霊魂も、過去、現在、未来、全て、そして物体的なものも、霊的なものも、全て、自然の恵みも、超自然の恵みも、全て、マリア様にお委ねする。まさにイエズス様がなさった、その事です。
この新年にあたって、是非、この1年の全ての御恵みと、全ての行動、思い、言葉を、マリア様にお委ね致しましょう。そしてイエズス様が私たちの中にいらして、私たちを動かして下さって、イエズス様がなさったように、私たちもマリア様を愛する事ができまように、マリア様の良き子供となる事ができますように、マリア様の良き道具として、マリア様の元にいる事ができますように、お祈り致しましょう。
イエズス様がなさったように。「あぁ、こうすると何か、利益があるから、得があるから。」現世利益を求めて、ではなくて、イエズス様がマリア様をただただ愛して、マリア様にひたすら愛したように、私たちもイエズス様に倣って、マリア様をひたすらお愛しする事ができますようお祈り致しましょう。
願わくは、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができますように。そしてその為にも、どうぞ遷善の決心を立てて下さい。今年1年、変わらずに、朝起きたら、マリア様に奉献の祈りをする、御聖体拝領の時に、イエズス様に倣って、マリア様に奉献をする、そして頻繁に、「イエズス様がどれだけマリア様をお愛しされたか」という事を考えて、私たちも、「イエズス様のようにマリア様を愛したい」と思う。
最後に、マリア様は私たちのお母様ですから、マリア様がイエズス様をお愛しすると同じ愛を以って、私たちを、「私たちのようなものを愛して下さっている」という事を考えましょう。マリア様が、私たちがどれほど惨めでつまらないものであったとしても、イエズス様を愛すると同じほどの愛を以って、愛しされているという事は、どれほどの愛でしょうか。私たちの想像を絶する愛を以って、愛されている事を考えましょう。
この、イエズス様のようなマリア様への愛は、天主様からの特別の御恵みです。ですから、このような愛を私たちも頂く事ができますように、特に2016年の特別の御恵みとして、この賜物を、マリア様を通して、イエズス様に乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。