奇跡的な漁と福音宣教の活動についての説教
ドモルネ神父 2023年6月25日
はじめに
福音で、教会は私たちに奇跡的な漁の話をします。この話は、私たちの主イエズス・キリストの神性を証明する歴史的な事実であるだけでなく、カトリック教会と福音宣教の活動に関連するいくつかの教えを含んでいます。
1.ペトロの舟
私たちの主イエズスは、天主について、また天主の私たちに対する優しさについて、そして、私たちがそれに応えて心を尽くして天主を愛し、それによって永遠の幸福を得ることの必要性について、人々に教えておられました。人々がイエズスに引き寄せられたのは、イエズスの優しさ、奇跡、生き方の聖性、そして話の力によるものでした。その日、イエズスは、ご自分の前に人々を集め、ご自分の声をもっとよく聞かせるために、ペトロの舟に乗り込まれて、そこから説教されました。
イエズスが聖ペトロの舟を選ばれたのは、偶然ではありません。それには意味があります。聖グレゴリウスは、イエズスが人々に教えられたこのペトロの舟は、イエズスによって創立され、聖ペトロとその後継者たち、すなわち教皇たちに託されたカトリック教会を意味する、と述べています。イエズスが人類に天主の教えを授けられるのは、この教会を通してのみです。舟の外には、波の荒い水しかなく、私たちは溺れてしまうように、カトリック教会の外には、一貫性のない教えしかなく、人は生きている間に無駄に疲れ果ててしまい、死ぬときには絶望以外に何も残らないのです。
2.聖ペトロの使命
群衆に説教なさった後、私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロにこう命じられます。「沖に乗り出して、網を下ろして漁をせよ」。イエズスは実際、夕食用の魚を捕ることを気にしておられたのでしょうか。もちろんそうではありません。この命令にも、霊的な意味があります。イエズスは、使徒たち、特に聖ペトロに、たとえ地の果てに住んでいる人々であっても、たとえ誤謬と不道徳の淵に沈んでいる人々であっても、すべての人を聖性の高みへと引き寄せるために、行って探し求めるという使命をお与えになりました。カトリック教会には、天主とイエズス・キリストの栄光のために働くこと、すなわち、天主とイエズス・キリストをすべての人に知らせ、愛されるようにし、そうすることで、人が自らの幸福を得るようにさせること以外の目的はありません。実際、人が自らの真の幸福を得ることは、天主にのみ完全に存在し、イエズス・キリストを通じてのみ私たちに与えられる真理を知り、美を賞賛し、善を愛することにおいてのみ可能となるのです。
ご昇天後、聖ペトロと彼の後継者たちは、自分たちが受けた使命を果たしました。彼らは、世界中に、北極圏やヒマラヤ山脈、アフリカや南米の赤道直下の森林地帯など、最も過酷な地域にも宣教師を派遣しました。彼らは、諸民族の残酷な敵意にもかかわらず、危険や病気にもかかわらず、多くの死にもかかわらず、たゆまず宣教師を送りました。人類の歴史全体の中で、今日までこのような活動を行ってきたのはカトリック教会だけです。それはなぜでしょうか。そのような活動をするためには、その創立者であるイエズス・キリストからカトリック教会のみが得ている天主の御力を必要とするからです。
3.夜に漁をすること
イエズスの命令を受けて、聖ペトロはこう答えました。「先生、私たちは夜じゅう働いて何一つとれなかったのです。けれども、お言葉ですから網を下ろしてみましょう」。聖ペトロは、夜が漁に最も適した時間であり、もし夜の間に何も捕れなければ、おそらく昼も何も捕れないだろうと述べました。しかし、聖ペトロとその仲間たちは、イエズスの御言葉を信じて、網を投げると、「大量の魚がかかって、網は破れそうになった」(ルカ5章5-6節)のです。この福音史家は、ただこの漁の奇跡的な面を強調するためだけの目的で、昼や夜の漁についての聖ペトロの言葉を伝えたのではありません。ここには、重要な霊的な意味もあるのです。
イエズスはこう言われました。「私は世の光である。私に従う人は、闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。昼の間に漁をするということは、イエズス・キリストを通して、人が真、美、善を手に入れることができるように、導くことを意味します。夜の間に漁をするということは、イエズス・キリストから離れて、人がそれらのものを手に入れられるように、導くことを意味します。しかし、これを行おうとした人々は失敗しました。人類の歴史を振り返り、私たちが賢人、哲学者、霊的指導者と呼ぶ人々、例えばブッダ、孔子、老子、ムハンマド、ダライ・ラマなどを見てください。彼らは、人が真理、平和、聖性、幸福を手に入れられるように導くと主張してきました。しかしすべては無駄でした。人類の歴史の中で、諸民族を、残虐や暴力から秩序や平和へ、無知から最高の知的科学の発展へ、不道徳から美徳の実践へと導くよう、変容させることができた、ただ一つの存在は、何者でしょうか。それはカトリック教会です。カトリック教会は、どのようにして、このようなことができたのでしょうか。それは、人々にイエズス・キリストを知らせ、愛させ、そして人々が主の愛の法を実行するのを助けることによってです。欧州文明が地上の他のすべての文明をはるかに凌駕してきたのは、カトリック教会が、何世紀にもわたって、この文明を他のどの文明よりも鍛え上げてきたからにすぎません。
日本の歴史における最大の不幸は、17世紀の日本の政治指導者たちが、イエズス・キリストを排斥し、カトリック教会が日本にその慈善的な影響を広めることを禁じるという選択をしたことです。聖フランシスコ・ザビエルが日本に来たとき、教会の慈善活動が始まり、聖性の最初の実りが現れました。天主の原動力によって、論理的に言えば、教会が、欧州で欧州文明に対してなしたように、日本文明を独自の精神の頂点へと導くはずでした。しかし、残念ながら、それは起こりませんでした。なぜでしょうか。日本の政治指導者たちが、高慢という選択を、つまり、自らのうちに、自らによって、理想を見いだすという選択をしたからです。その結果、彼らは自らと国民のほとんどを、人間の心の無知の中に、人間の意志の悪意と弱さの中に、閉じ込めてしまったのです。聖母はマグニフィカトの中でこう言われました。「天主は驕る思いの人々を散らし、権力者をその座から下ろし、低い人々を高め、飢えた人を良いもので満たし、富む人を空手で返されます」(ルカ1章51-53節)。
結論
親愛なる信者の皆さん、私たちは、日本や他の国々の歴史をやり直すことはできません。しかし、どこにいても、聖ペトロのまねをすることはできます。「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」。網を下ろすとは、霊魂の救いのために働くことを意味します。イエズスのお言葉によってそうするということは、私たちの主の御旨に従って、また主と一致して、いつでもどこでも働くということです。私たちがイエズスの御旨に従って働くのは、イエズスが私たちの人生の中で出会わせてくださる人々に、私たちが、イエズスを知らせ、その人々がイエズスを愛するように、私たちが努めるときです。私たちがイエズスと一致して働くのは、私たちが、ただ天主の栄光と霊魂の救いだけを求め、また、霊魂の回心のために、私たちが自分の技術よりもイエズスの恩寵を頼りにするときです。実際、人々の心を天主の真理の光へと開き、彼らの心を天主の愛へと動かすことは、人間の仕事ではなく、天主の仕事なのです。
使徒の聖母が、天主の栄光と霊魂の救いのために働くたゆまぬ熱意を、私たちに与えてくださいますように。