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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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“主は私たちを救う” 『イエズス』。いと貴きその聖名について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月3日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月3日(主日) イエズスの聖名の祝日
小野田神父 説教

 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年1月3日、イエズス様のいと貴き聖名の祝日を祝っています。

 主日のお知らせをする前に、皆さんに新年のお慶びと、皆さんに新しい新年が、恵みが豊かで、天主様からの祝福が溢れて、聖なる実り豊かな1年となりますように、心からお祈り申し上げます。大晦日のミサと、元旦の三が日の3日のミサは、皆さんの意向で捧げています。今日のミサも皆さんの意向で捧げていますので、どうぞ皆さんの良い1年を祈って、一緒にミサを捧げて下さい。

 このミサの後に、1月で、ローマでは、主の御公現の頃まで、イエズス様の礼拝式をやっているので、その私たちもそのローマの伝統と習慣に従って、イエズス様の御足に接吻の儀式を、ミサの直後に、ミサの後の祈り、お告げの祈りが終わったら、皆さんと一緒にしようと思っています。

 それから今日はミサの前に、ここでいつもミサに通って公教要理を受けて、洗礼の準備をしていた、ピオ・アウグスチヌスさんが、めでたく洗礼を受けて、天主様の子供となりました。どうぞ皆さん、この受洗者の為にお祈り下さい。ピオ・アウグスチヌスさんは、本当なら家族の方が今日いらっしゃる事を期待して、この日に日程を設定したのですけれども、できれば、ご家族の方が皆、洗礼の御恵みを受けますように、どうぞお祈り下さい。
14時30分から公教要理の勉強があります。それから、16時からは晩課があります、主日の晩課があります。今日は、イエズス様の聖名の祝日の晩課です。明日は7時からミサがあります。それから2週間の後に、1月17日にも朝10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 “In nomine Jesu omne genu flectatur,”こう入祭誦で、聖パウロのフィリピ人への手紙を使って、イエズス様の祝日を公教会は祝って、こう歌っています、「イエズス様の聖名に於いて、全ての膝は、天にあるものも、地にあるものも、地獄のものも、全ての膝は、膝をかがめる。全ての口は、イエズス・キリストを、『主である。』と、告白する。」

 ですから今日は、イエズス様の聖名がどれほどすごいものか、その聖名の力の素晴らしさを見て、一体何でそんなにイエズス様の聖名には力があるのか、その理由を少し黙想して、第3に、では私たちはこの新年、ミサを捧げながら、どういう決心を取ったら良いか、黙想してみる事に致しましょう。

 救い主、私たちを救う為にこの地上に来られた真の天主、私たちの為に人となった天主の名前は、永遠の昔から、“主は私たちを救う”『イエズス』という風に決められていました。そこで天使は、その事を聖ヨゼフに、「イエズスと名付けよ。何故ならばこの子は、全ての民を救う方であるからだ。」と、言います。イエズス様は、ユダヤのしきたりに従って、生まれてから八日目に御割礼を受けて、その時に『イエズス』という名前を、つまり『救い主』という名前を受けました。イエズス様が天主様として最初の血潮を流されたその時に、『救い主』“天主は私たちを救う”『イエズス』と名前を受けたのは、全く相応しい事でありました。天主様の御摂理通りでありました。

 聖人たちは、このイエズスの聖名を黙想し、それを光として、或いはそれを糧として、これを慰めとして、これを愛の対象として、いつも祈り、考え、愛してきました。これは、使徒聖パウロ、使徒聖ペトロの時代、使徒の時代から伝わるものです。

 今日、書簡で読まれたのもそのエピソードの1つです。ある時聖ペトロが、初代教皇様が、街を歩いていた時に、乞食が、「恵んでくれ」という顔をして、手を差し出したのです。するとペトロはそれを見て、「あぁ、かわいそうな方よ、私はあなたに与える何もお金もない、金も銀も持っていない、だけれども、金よりも銀よりももっと素晴らしいものをあなたに与えよう。イエズス・キリストの聖名によって立ち上がれ。」と言うと、この人は今まで生まれた時から立った事のない方でしたが、立ちあがって、「あれ?」歩くようになったのです。

 すると、このペトロがトラブルに巻き込まれてしまいました、「一体この人をどうしたのか、お前一体何をしでかしたのか。」という事で、そこでペトロが、今日書簡にある事を読むのです、「私は、あなたたちが十字架に付けた命の与え主の聖名によって、この方を治したのです。あなたたち、家の造り主が捨てた、その隅の親石が、このイエズス・キリストです。天上、天下、私たちが救われる聖名は、この方以外にはないのです。天上、天下、私たち人間には、イエズス・キリスト以外の名前は与えられていません。」こうはっきり言うと、もうペトロを、或いはキリスト教徒を迫害していた人は、何も言う事ができませんでした。

 これが、初代教皇様が、はっきりと、ユダヤ人を通して、全人類に宣言した事です、「イエズス・キリスト様の聖名は、金よりも銀よりも、この地上の全ての宝よりも、黄金よりも、もっと価値がある、このイエズス・キリスト様の聖名によって、奇跡さえも起こる。天主はそれほどの力を与えている。この私たちが救われる為には、これ以外には他にはない、名前がない、イエズス・キリストだけが、唯一の救い主である。」と、はっきり宣言します。一体何故なのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様がこう言ったからです、亡くなる前に、「今までお前たちは私の聖名で祈った事がない。しかし、これからは私の名前によって祈れ。聖父が、もしお前たちが私の名前で祈るならば、何でもお前たちの望むものは与えるだろう。さあ、望め、求めよ、さらば与えられる。」と、仰ったからです。ですから、イエズス様の聖名には、これほどの力があるのです。

 アシジの聖フランシスコを見て下さい、イエズス様の聖名に対してどれほどの信心があったか、イエズス様の聖名を色んな所に書いて、家に飾りとして付けていました、『IHS』これは、“Iesus Hominum Salvator”という意味のラテン語の略でもありますが、それを飾っていました。

 聖イグナチオは、この自分の創った修道会のグループを、“イエズスの伴侶”『イエズス会』と付けました。「イエズスの聖名が全世界に広まるように、愛される様に。」と望んでいました。イエズス会の創立メンバーの一人、聖フランシスコ・ザヴェリオは、日本にまでやって来て、イエズス様の聖名を届けました。

 一体何故、イエズス様の聖名にはこれほどの力があるのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様は天主聖父に、死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であったからです。御自分を無とされて、天主であったにもかかわらず、人となり、私たちの為に、全く無罪であったにもかかわらず、私たちの罪を全て負って、十字架に付けられ、私たちの為に、聖父の光栄の為に、御血潮を全て流し、聖父に、「父よ、彼らを赦し給え、彼らはその為すべき所を知らざればなり。」と、言って、十字架の死に至るまで、父に、聖父に、その御旨を果たす事だけを考えていたからです。その贖いの業を果たす事だけを考えていたからです。これは、聖パウロの説明です。

 だから聖パウロによれば、「聖父は、イエズス・キリストを、イエズス様を全ての名に勝る名前を与えた。天上、天下、イエズス・キリストよりも貴い名前はない。」

 全て、天にある全ての天使たち、ケルビム、セラフィム、大天使、諸天使たち、聖人、聖女、殉教者、博士、預言者、全てはイエズスという聖名に於いて、深く、深い讃美と感謝と礼拝を捧げるのです。天上に於いて、『イエズス』と言えば、もう聖人たちが全てその前に「ははぁーっ!」と平伏す聖名なのです。

 地上に於いても、イエズスの聖名によって、私たちは救いを得ます。この地上に於いて、イエズス・キリストの名前以外に、永遠の命を受けるべき道はありません、名前はありません。イエズス様が教えた通り、聖父と、聖子と、聖霊の御名に於いて洗礼を受けなければなりません。

 地獄に於いても同じです。地獄、悪魔たちは、自分からは跪く事ができないので、膝がないと言われていますけれども、もちろん悪魔は、体が無いので、膝も体もありません。しかし、『イエズス・キリスト』という、地獄に打ち勝った、死と地獄と罪に打ち勝った者の前には、どうしても平伏す事しかできないのです。何もイエズス・キリストの前に抵抗する事ができないのです。

 ですから私たちは、イエズス・キリストの聖名が与えられている、イエズス・キリストの秘跡が与えられている、イエズス・キリスト御自身が与えられている、という事を、何と感謝しなければならないでしょうか。

 考えてもみて下さい。誰かがもしも、例えばお母さんは子供の事をいつも考えて「太郎ちゃんは、ちゃんとやっているか、花子ちゃんは、ちゃんと元気か、ご飯は食べているか。」と、いつも考えます。奥さんは、お父さんが外に出れば、「ちゃんと新幹線に乗れたか、ちゃんと児童会館には着いたか。」或いは、「ちゃんと家に帰る道は間違えないか。」などと思います。ところでイエズス・キリストほど、私たちを愛する方がいるでしょうか?

 もしも私たちがイエズス様を愛するのであれば、イエズス様の事をよく、どうしてもよく考えなければなりません。イエズス様のなさった事を黙想すればするほど、お生まれになった秣桶(まぐさおけ)になって、貧しく私たちの為に生まれて下さったイエズス・キリスト様が、私たちの為に血潮を全て流された天主イエズス・キリスト様を思うと、この全世界で、これほどまで私たちを愛している名前はありません。

 『イエズス・キリスト』この聖名を、どうぞ私たちも愛して、この名前を敬う事に致しましょう。

 では、どのような決心を今年立てたら良いでしょうか?カトリック教会は、イエズス・キリストの神秘体であって、イエズス・キリストの花嫁ですが、イエズス様の聖名の前では、例えば司祭は、ビレッタという帽子をかぶれば、それを脱帽します。或いは祭壇の上であれば、『イエズス』という名前を言うと、十字架の方を向いてお辞儀をします。聖務日課の時には、或いはミサの時も、イエズス様の名前を言う時には、司祭は頭を軽く会釈します。

 聖パウロが、「イエズスの聖名に於いて、全ての膝はかがまる。」と、言うのですから、イエズス様の聖名にこうやって敬意を表すのは、最も当然な事です。ですから私たちも、今年もイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の聖名を愛を込めて唱え、それに敬意を払うようになさって下さい。イエズス様の聖名を愛を以って唱える、というのは、これは教会がやっていたり、或いは修道士の方がやっているように、「イエズス様」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ、御身を愛し奉る。」「イエズス、我らをあわれみ給え。」「イエズス、我らを助け給え。」「イエズス、あわれみ給え」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ」と、いつも心の中で、イエズス様の聖名を呼んで、お祈りして、お願いしたり、感謝したりする事です。どうぞ実践なさって下さい。絶えざる感謝の祈りをなさって下さい。

 第2に、私の、最後に、提案したいのは、イエズス様の聖名を心から愛して、それを、それにいつも讃美をしていたのはマリア様です。ですから今日は、マリア様の御心を私たちが頂く事ができるように、お祈り致しましょう。私たちにマリア様の御心を、私たちに於いてマリア様の御心を以って、マリア様が、私たちに於いて、イエズス様を愛して下さいますように。私たちのやる事は、とても足りない所がたくさんあるので、マリア様が私たちの所に来て、マリア様の心を以って、イエズス様を愛する事ができますように、お祈り致しましょう。

 マリア様は、イエズス様の聖名に於いて、全ての日常生活を捧げてきました。イエズス様をお呼びする時の、マリア様の幸せなお顔を考えてみてください、「イエズスや、」「イエズスよ、」「さあイエズス、」また、イエズス様からの言葉を聞いて、マリア様がイエズス様にどうやってお話しなさったかも想像なさって下さい。

 イエズス様とマリア様はいつも一体でした。イエズス様はそのようなマリア様を非常にお愛しされて、30年間、マリア様の元を離れませんでした。イエズス様の聖名によって、マリア様は十字架の下まで、全ての苦しみを私たちの為に捧げられました。

 願わくは、マリア様に倣って、イエズス様をこの今年1年ますます愛して、讃美する事ができますように、従順である事ができますように、お祈り致しましょう。そうする事によって、私たち、この地上でイエズス様の名前を讃美する私たちが、イエズス様御自身を見て、お会いして、永遠に愛する事ができますように。イエズス様の名前をいつも私たちの心に刻んでいる私たちが、天国にも私たちの名前が刻まれますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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