Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

なぜ主イエズス・キリストは御変容されたのか? なぜ変容された主にモーゼとエリヤが現れたのか? なぜ天の御父の声が雲から聴こえたのか? 主の御変容は私たちに一体どのようなかかわりがあるのか?

$
0
0

2023年3月5日四旬節第二主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、四旬節第二主日を祝っています。

お知らせです。四旬節の時に教会は復活祭の義務を思い起こさせる習慣があります。
復活祭の義務というのは、私たちが年に一度少なくとも年に一度、復活祭の頃御聖体を拝領し、年に一度、告白の義務を果たすということです。ことに教会の習慣では、四旬節の間に告解の義務を果たして、復活祭の時によい聖体拝領をするという習慣があります。良い復活祭の義務を果たしますように準備いたしましょう。

【主の御変容】
先日の主日、四旬節第一主日は、私たちの主が四十日間お祈りと断食をして、主の受けられた誘惑を一緒に黙想しました。主の厳しいお姿を見て、主とともに、恵みの時に救いの時に入りました。これは私たちが主を真似て、この主の模範に従って祈りと償いをすること、また誘惑の時においても主に倣うことができるためでした。

ではいったいこの祈りと償いの生活はどこに行くのでしょうか、どこに繋がっていくのでしょうか。今日、四旬節第二主日は、その目的地を私たちに示そうとされます。主の栄光のお姿、つまり御変容を一緒に黙想しようと招いています。

タボル山の山頂で招かれた三人の使徒たち、ペトロとヤコボとヨハネ、この三人の前で、主の御姿は変わりました。御顔は太陽のように光輝いて、服は雪のように真っ白くなりました。すると突然モーゼとエリアが姿を現しました。シナイの山で十戒を受けて、私たちに律法を与えたモーゼ。また生きているうちに火の車によって天に挙げられた預言者の代表であるエリア。この二人が現れて主と共に、エルサレムで主を待っている主の御死去について話をします。すると御父は、タボルの山の山頂で光り輝く雲の中から声を響かせます。「これは私の愛する子である、彼の言うことを聞け。」 

今日、この御変容の神秘を一緒に黙想いたしましょう。主が光り輝いた!いったいなぜ? モーゼとエリヤが現れたこと、いったいなぜ? 天の御父の声が雲から聴こえたこと、いったいなぜ? 私たちに一体何のかかわりがあるのでしょう? 黙想して遷善のよい決心をまた新たに致しましょう。

今日のこの黙想は特に復活の徹夜祭で洗礼を受ける求道者の方々、そしてまた復活祭を待っている、そして遂に究極の復活を待っている私たちにとって、とても必要な黙想です。

【いったいなぜ主は光り輝いたのか?】
主は光り輝いてお姿を見せました。これは私たちに、ついには主のようになるという模範を見せて、私たちに希望を与えるためでした。聖マテオの福音をご覧になると、この御変容の直前に主は弟子たちにこう言われていたのでした。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。…人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう」

ちょうど私たちが山を登るときに「ああ、あの山頂に上るんだ」と目的地を目指して「あそこまで頑張ろう!」というように、苦しみの道を予告したのちに、主は目的地をもはっきりと示そうとして、ご自分の体を御変容させます。御復活の後に、エマウスの弟子たちに言われた通りです。「キリストは苦しみを経たのちに、栄光に入るはずではなかったか。」使徒たちも、主の御復活の後にこう言っています。使徒行録を読むとこう書いています。「私たちは多くの苦しみを経て、天主の国に入らねばならない」

ということは、祈りと償い、これは目的ではないということです。その目的は私たちの栄光であって、祈りと償いというのは、手段に過ぎないということです。つまり、私たちのこの地上の世界は、手段に過ぎなくて、到達する目的地は別なところにあるということです。

聖パウロはこう言っています。「キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受ける、…今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならない」

ですから今日は、教会は聖パウロの言葉をこの言葉を引用しています。「実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となることである。あなたたちが呼ばれたのは不潔のためではない、聖となるためである。」私たちが聖となるために、聖なる者となるためにも、主エズス・キリストは、私たちの真似るべき道であって、究極の完成図です。目的です。

イエズス・キリストの御顔の輝きは、御自分の将来の輝きを予告していました。服の輝きは、諸聖人の将来の輝き、復活後の輝きを意味していると、聖トマス・アクィナスは言います。ちょうど雪の輝きが太陽の輝きに由来するように、諸聖人の輝きもキリストの輝きに復活に由来するからです。キリストの光り輝く栄光は私たちの将来の姿として私たちに大きな希望を与えてくれます。

【なぜモーゼとエリヤが現れたのか】
モーゼとエリアが現れたことは、私たちに信仰を与えてくれます。信仰を強めてくれます。なぜかというと律法と預言というのは、キリストの予告でした。キリストの影でした。キリストの前兆でした。イエズス・キリストにおいて、すべての律法は完成します。全ての預言はイエズス・キリストにおいてまったく全てひとつ残らず成就しました。イエズス・キリストこそが来るべきお方である、まことの救い主である、と、すべてが指さしているわけです。何百何千という預言と律法が、イエズス・キリストを指し示しているわけです。ですから、モーゼとエリアが現れて、この方こそ、私たちが預言していた前兆となっていたお方であると、証言しなければなりませんでした。イエズス・キリストは命と死とに対する力を持っていました。生けるものと死せるものとを裁くお方です。ですから、すでに死んでいたモーゼが、また生きたまま天に挙がったエリヤが特に選ばれて、イエズス様の証人となることは当然でした。ちょうど枝の主日に、イエズス様の前にいた人たちも、後ろを歩く人たちも行列をして、棕櫚の葉をもって「ダヴィドの子にホザンナ」と言ったように、キリストの前に生きていたモーゼとエリアが、あるいはキリストの後に来た使徒たちも共にキリストの証人となって、キリストの栄光の証人となるべくでした。

ところで、モーゼもエリアも栄光に満ちていましたが、それはイエズス・キリストの予告だったからです。イエズス・キリストを現すイメージだったからです。イエズス・キリストを指し示すかぎりにおいてのみ、価値があったからです。イエズス・キリストの栄光を輝きだしていたからです。ですから、モーゼとエリアの栄光は、すべてキリストに由来するものでした。

モーゼが死の危険を冒してまでファラオに対立してイスラエルの民をエジプトから救い脱出させたこと、これはイエズス・キリストを指し示していたからです。前兆だったからです。モーゼが砂漠の土地を放浪していた時に空から降るマンナで民を養ったのも、御聖体を意味していたからです。エジプトを脱出するときに過越しの子羊を屠ってその祭りをしたのも、それに意味があったのも、イエズス・キリストの来るべき復活の過越しを意味していたからです。

もしもエリアがアカブ王に対立したとしたら、そして偶像崇拝を非難したとしたなら、これはイエズス・キリストを意味するためでした。使徒たちも同じです。使徒たちもイエズス・キリストとどれほど親しいかに従って、どれほどイエズス・キリストの教えに忠実だったかに従って、この地上でまた来世で栄光を受けます。私たちも同じです。

【なぜ御父の声が聴こえたのか】
ではなぜ御父の声が聴こえたのでしょうか。それは私たちの信仰を強めるためです。なぜかというと、御子イエズス・キリストを指し示して「これこそ私の愛する子であると、彼に聴け」と、これこそが真理だと、これこそがおまえたちの待っていたものだと、真理御自身が、御父が宣言するのですから、これ以上確かなことはありません。

またこの御父の声は私たちの希望をも強めるものです。なぜかというと、イエズス様が御変容になったのは、将来私たちもこうなるという予告だったからです。そして御父の声が聴こえたのも、私たちも同じことが言われるという予告だったからです。つまりイエズス様が言われたように、御父も私たちに「お前たちは私の愛する子である」と確実におっしゃるということです。

イエズス・キリストがこの声を聴いたのは二回ありました。洗礼を受けたときと御変容の時です。私たちも二回聴きます。私たちが洗礼を受けた時、私たちは信仰の声によって「天主の子となった」そのことを確実に知ります。そして私たちが復活する時、栄光の体に輝いた時に、もう一度天主御父は言います。本当に確実に私の愛する子となった。

【遷善の決心】
では、遷善の決心をたてましょう。私たちも、三人の使徒たちのように御変容に招かれています。多くの人類の中から選ばれました。聖伝のミサ、つい最近は多くの荘厳ミサ、司教様の堅振式、そのミサ、その主の栄光を垣間見ました。もちろん主の栄光をそのまま直接見るというよりは、教会の儀式を通したというベールを通して、私たちはそれをすこしだけ垣間見た思いです。御聖体を跪いて礼拝しながら受けるという栄光も受けます。主のすぐ近くに招かれています。また時には、特別のお恵みによって、主が私たちを本当に愛しているんだなあということを、いろんなすべての御摂理がそのことを私たちに教えています。なぜ私にこんなようなお恵みが与えられたのか。主の光り輝く聖性、聖徳の美しさを見て、私たちもその栄光に招かれているということをひしひしと感じています。

そればかりではありません。このミサに与りながら、旧約のすべての預言が主を指し示す前兆であって予告であって、また使徒たちの声は主の御声の反映であるということ、教会の教えをますます深めています。また私たちが秘跡を受けている時、特に洗礼を受けたとき、天主御父は私たちにお前たちこそ私の愛する子であると、おっしゃったのを信仰の耳で、聞きました。ですからこのご変容の玄義のなかに深く入りつつ遂にはこの主に似通ったものへとなるという希望と、私たちの主イエズス・キリストこそ真の救い主であるとの信仰を確固たるものといたしましょう。ですから主を見倣って、私たちを待っている栄光ある復活をいつも見定めていることができるように祈りましょう。

主と栄光を共にするためには、この地上での生活も共にしなければなりません。四旬節はその訓練です。私たちも主と共に断食を行いましょう。食べ物の断食もそうです。インターネットやテレビやコンピューターゲームやあるいはその他、目に入れてはならないものを断食する。あるいは悪い習慣を立つという断食、目や耳や口、手、足の断食を主と共に行いましょう。四十日間主は砂漠で、罪の無いお方であったにもかかわらず、厳しい生活を送ります。私たちがそれを倣っていったいなぜ不都合でしょうか。主は四十日間主の御名が尊ばれることを聖とされることを祈っていたに違いありません。私たちも主と共に主の御名が尊ばれるように黙想して、祈り、霊的読書に励みましょう。また主は厳しい生活をして償いをも果たされました。

この世を見ると、イエズス様の聖心を悲しませる多くのものが宣伝されています。スポンサーがついています。LGBT運動や家族を崩壊させるような事々、あるいは堕胎、不敬な言葉、キリスト教の聖徳に反するようなものが世の中で広がるような運動があります。無関心や冷淡もあります。私たちはこれらの罪をイエズス様と共に償う四旬節と致しましょう。

そしてマリア様に最後にお祈りいたしましょう。マリア様の御取次で私たちがよい四旬節を、そしてこの地上での生活を聖なる者として送り、そして父から「これこそ私の愛する子である」ということを確実に決定的に聴くことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles