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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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【報告】上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物について、私たちのとった行動と祈り

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物が、9月30日から11月27日まで展示されると、私たちに悲しみと驚きをもって知らされたのは10月9日のことでした。

私たちは、この知らせを受けた直後に、御聖体降福式を償いのためにお捧げ致しました。
2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

また同日、御聖体降福式の後に、有志の信徒の方々と藝大アートプラザに駆け付けて償いのためのロザリオをお捧げ致しました。

私たちの呼びかけを受けて、驚くほど多くの方から、償いのために祈る、作者のために祈るというメッセージをいただきました。病気の方々も、御自分のつらい痛みや苦しみを償いにお捧げする、辛抱強く痛みをこらえる、とのメッセージを送ってくださいました。

10月15日には、ドモルネ神父はお説教で、冒涜の罪とつまずきの罪について話しました。

またその後、何回か、有志の信徒の方々や、ドモルネ神父や小野田神父は、藝大アートプラザでなされた公けの冒涜に対して、公けの償いを行うことを試みました。それらについての詳細はここでは省略いたします。

私たちは、冒涜物を制作した 許允(ホ・ユン)さんに直接面会して、私たちの深い悲しみ、胸が張り裂けるような悲痛を感じているのか、私たちの理由を伝えたいと思いました。何故なら、お手紙を書くよりも、メールで説明するよりも、直接にお会いして目と目を合わせて真剣に訴えるならば、耳を傾けてくれるのではないかと、考えたからです。

特に、作者が来年は同じことを韓国で行うと意思表示しているので、日本に災いが起こらないためのみならず、韓国にとっても不幸なことが起こらないように、彼女が考えを改めて、このような冒涜物は自ら進んで撤去してくれることを願ったからです。そこで、藝大アートプラザの責任者の方を通して制作者との面会をお願いしました。

10月26日(木曜日)午後5時から午後6時45分まで、私たちは上野の藝大アートプラザのすぐ近くの喫茶店で、制作者の方と展示責任者の方と直接に会って話をしました。小野田神父が代表となって、私たちの悲しみを伝えようとし、二人の信徒の方々も神父と同席しました。

最初に制作者が自分の制作物についての説明をしたいと言ったので、私たちはまずその長い話を聞くことにしました。彼女の長いモノローグの中には、なぜキリストがなぜ殴られなければならないかについては一切説明がありませんでした。

次に私たちは次の8つの点を制作者に伝えました。私たちは紙に書いた原稿を読み上げたのではありません。心からの訴えを相手に伝えようとしました。ですから以下の8つのポイントは、私たちが発音したものではなく、私たちが心に響かせようとした内容です。

私たちが伝えようとした第一の点は、たんなる導入で、もしも誰かを愛することがあった人なら、誰でも分かると思った論点です。しかし最も重要な論点は第二の点です。第二の点があったからこそ、私たちは行動を起こしました。

私たちは祈りをもってこれを行いました。何故なら、私たちが求めたのは、制作者とアートプラザの責任者、また東京藝大の方々の本当の善だからです。私たちが直接会って話をしたのは、私たちの心が伝わり、制作者が考えを改めてくれることを願ったからです。ただし、心を変えることができるのは、天主の恩寵であり、聖霊の導きであると確信しています。ですから、祈りつつ、祈りに信頼して行いました。

私たちの論点の基礎にあるのは、人間の文化・文明と美術・芸術を成り立たせている前提です。つまり、何かが別のものを象徴し、意味するという、私たちが常識的に受け入れている事実です。ウ・マという二つの音節自体は馬ではありませんが、動物の馬を意味し、それを私たちは受け入れて人間としての生活や文化や芸術として成立させています。シ・カならば、たとえば動物の鹿です。声の音節の組み合わせで、人は馬鹿にされたり、あるいは、称賛されたりします。
白い背景の長方形に赤い丸があれば日の丸となり、日本の象徴になります。金メダルを受けた選手が日の丸の旗を高くそびえさせれば、誇らしくなります。
私たちの手のしぐさや体のジェスチャーも、軽蔑や威嚇を表現したり、愛情を表現したりすることができます。

最後に、私たちが今、ここで、こうやって、今回の出来事を、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介するのは、今必要とされている祈り、冒涜の償いの祈り、制作者が考えを改めるように促す祈りへとお招きするためです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ーーーーーーーー

論点

【1:導入:私たちの愛の対象】
イエズス・キリストは私たちの愛と尊敬の対象だ。私たちの天主・救い主・贖い主・王である。
私たちの愛の対象が、作者によって「グローブを着用しキリストサンドバッグを殴ってください」とされている。「殴ることによって崩れて壊れて」しまうこと、つまりキリストをノックアウトすることと破壊が想定されている。
これの意味することは、十字架像が象徴することに対する暴力と攻撃である。イエズス・キリストその人と、そのおっしゃった教え、主がなさったこと、全てに対する暴力であり、憎悪と侮辱の現れである
愛の対象を侮辱された人が、どれほど悲しむかは、良識のある人間であれば理解できる。
私たちカトリック信者は、愛するイエズス・キリストが暴行され侮辱されて、胸が張り裂ける程に悲痛を覚え、傷ついている。
韓国の方々は、国を代表する・国民の敬愛の対象が侮辱されたならば、どれほど悲しむことだろうか。
韓国には侮辱することが決して許されない対象があるのではないだろうか?
制作者ご自身は、自分の愛する人々が侮辱されるならば、作者はどう思うのか?
私たちは、この展示物によって非常に傷ついた。

【2:冒涜】
イエズス・キリストはこの世の創造主・天主であり贖い主であり救い主だ。
十字架のキリスト像を使うことは、宗教を取り扱っていることだ。作者は、宗教をテーマにして、キリスト像を冒涜している。

冒涜とは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことだ。天主の御稜威にふさわしくないことを述べたり行ったりすること、それが冒涜だ。つまり天主を軽蔑したり侮辱したりすることだ。
とりわけ十字架は天主が私たちのためになさった愛の業だった。主の憐れみ深い愛の極みの業である十字架が殴られて、冒涜されている。憐れみが冒辱されている。

冒涜の対象は、それが聖であればあるほど、その罪は重大になる。
冒涜を見てそれを止めないならば、それは冒涜の幇助罪にあたる。冒涜をするものと同等の責任をもつ。冒涜には、最も恐ろしい罪だ。厳しい罰が、現世と来世に待っている。

十字架像を殴る(しかも破壊するまで殴りつける)のは、誰が見ても(カトリック信者でなくとも)、神聖なものに対する冒涜だ。聖なるものに対する暴力であり、侮辱だ。良識がある人ならそれが理解できるはずだ。

冒涜の結果、町全体が滅んでしまったという例は歴史上存在してる。最近の例でいえば例えばマルティニーク島のサンピエールという町がそうだ。
1902年3月28日(聖金曜日)西インド諸島のフランス領マルティニーク島のサンピエール市では、一部の人々によってキリストの十字架像が嘲笑された。彼らは町をでてプレ山へと向かった。道すがら十四回留まって、冒涜を繰り返した。ついには、私たち人間の霊魂を贖うために十字架上で亡くなったキリストの十字架像をプレ火山の噴火口に投げ捨てた。しかし、これについて抗議する人はいなかった。1902年5月8日(キリストの昇天の祝日)、マルティニーク島にあるプレー火山が噴火して、山麓のサンピエール市は壊滅し、約4万人が死亡した。

【3:キリスト教信者たちに対する暴力】
十字架像(キリストの磔刑像)は、カトリック教会の信仰の中心でありシンボルだ。
これに対する暴力は、キリストの十字架による贖いの業を信ずる全てのキリスト者に対する攻撃だ。十字架像の後ろにいる私たちに対する暴力であり脅迫だ。私たちはキリストの神秘体の一員で、キリストは神秘体の頭だ。だから十字架像は、私たちキリスト信者をも象徴している。
特にキリスト教徒の少ない日本では、キリスト者として肩身の狭い思いをしている人々も多い。
磔刑像に対して破壊しつくすまで殴ろうとすることは、キリスト者たちに対する憎悪とヘイトと暴力を助長させている。

【4:日本カトリック信者の祖先に対する侮辱】
私たちカトリック信者たちは、日本において、250年以上にわたる迫害と差別と涙と苦しみの歴史を持っている。
私たちの祖先は、踏み絵を踏むことを強制させられ、数十万人ものカトリック信者たちがそれを拒否して殉教していった。つまり、イエズス・キリストと聖母を御姿を足で踏んで侮辱することを拒んで拷問を受け、血を流し、命を落としていった。
制作者は、差別され迫害されてきた私たちの祖先が命がけに守ろうとしてきたものを馬鹿にし、侮辱している。

【5:残酷であり非人間的】
イエズス・キリストは、実在した歴史上の人物である。ローマ総督ポンシオ・ピラトはキリストについて何度も無罪を宣告した。キリストは、冤罪により十字架の死刑を受けた。
無抵抗で傷ついている人間を殴るのは、普通の人にはできない。動物に対してさえもできない。ましてや人間に対してはいう必要もない。
人間としての普通の反応は、そのような人を憐れみ、助けの手を差し伸べることだ。野生の動物たちでさえも助け合うことが観察されている。
しかし、制作者は、観客に異常なことを求めている。観客に残酷でかつ非人間的な態度をとることを求めているからだ。

【6:美術】
美術とは、美を表現しようとする芸術である。
美とは何か。私たちは何を美しいと思い感動するだろうか?
天主の造った雄大な山や野の花々、星々、動物など、大自然は美しいと感じる。何故なら自然は、天主の偉大さや崇高さを反映しているからだ。芸術家は、大自然をテーマに美術品を作ろうとしてきた。
大自然よりもさらに崇高なのは、人間だ。何故なら、人間は天主の肖像と似姿に寄せて創られているからだ。自分を忘れる程に英雄的な犠牲心と愛と善にあふれ、尊厳がある人物に出会う時、私たちは感動を覚える。
それに引き換え、残酷で心が醜い人、裏切りや自惚れの人を見る時、私たちは軽蔑を覚え、みにくいと感じる。悪魔に心を渡してしまったような邪悪さを見るからだ。

イエズス・キリストの生涯は、天主御父と私たちとの愛に、英雄的な程、満ちていたがゆえに、キリストの尊厳や愛や崇高さが私たちに伝えられる時、それは私たちに礼拝と賛美と感謝と祈りを引き起こす。
イエズス・キリストは、古代カタコンベのイコンから始まって、2000年にわたって、多くの芸術家たちや修道者たちに、偉大な息吹(インスピレーション)を与えてきた。キリスト教美術である。
芸術、音楽、文学、演劇、建築のみならず、家庭生活、経済活動、法律、裁判、行政など、社会全体に美しい影響を与えてキリスト教世界を作り上げてきた。

しかし、この展示物は、過去の偉大な芸術家たちの表そうとしてきた大切なものを攻撃することを求めている。鑑賞者に暴力と憎しみを持つことを求めている。

【7:表現の自由】
この展示物は、反キリストの装置、反キリスト教を助長する憎しみの装置だ。殴る要請と命令だけがある。
自由とは真理と善とのためにある。冒涜の自由はない。罪や犯罪を犯す自由などは存在しない。

【8:公けの展示】
制作物は、誰にでも見て殴ることができるように、公けに展示されている。言い換えると、制作者が自分の家で自分のためだけに作ったプライベートなものではない。
教皇ピオ十二世が訴えたカトリック教会のおしえによれば、公然の行為については、客観的な真理とに従って、それがもっている悪を権威当局が制限することができるし、そうしなければならない。権威当局は、客観的な共通善(皆のための善)を配慮しておこなわなければならない。

【結論】
ただちに、このような冒涜の展示を中止すべきだ。冒涜は、それを行う人と、それを許容する人に、現世であるいは来世で災いを引き起こすものからだ。とても危険なことだ。

制作者の 許允(ホ・ユン)さん、私たちはあなたのために祈っている。冒涜物ではなく、後世にわたって多くの人々を感動させるような歴史に残る美しい作品を作っていただきたい。そのために応援している。あなたのために祈っている。


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