司祭というのは何なのか? なぜキリストは大司祭として来られたというのか。キリストが大司祭であるということは、私たちにとってどのような意味があるのか。
2023年3月26日(主日)東京での11時半のミサ説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2023年3月26日、御受難の第一主日です。
教会は今日から受難節に入ります。この聖なる季節において、教会は特に主の御受難を黙想します。
キリストの御受難をよく理解するためには、キリストの司祭職について理解を深めなければなりません。御受難というのは、キリスト自身が大司祭として捧げたいけにえであったという神秘だからです。
ですから今日のミサでは、聖パウロの書簡が読まれました。こう始まります。「キリストは、将来の恵みの大司祭としてこられた」と。
ではいったい司祭というのは何なのでしょうか? なぜキリストは大司祭として来られたということができるのでしょうか。キリストが大司祭であるということの論理的な結論は、二十一世紀の私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。一緒に黙想いたしましょう。
(1)【司祭とは何か?】
司祭の役割とはいったい何でしょうか。司祭の役割とは、天主と人々との仲介者、仲立ちであることです。ラテン語で大司祭のことを ポンティフェクスPontifex と言います。ポンティというのは橋という意味で、フェクスというのは作る人という意味です。天と地との間に橋をかける人、という意味です。なぜかというと、天の聖なるものを、たとえば、聖寵のお恵み、天主の掟、あるいは天からの教えなどを、天主の秘密を、真理の知識を人々に伝えるというのが、司祭の役目であるからです。
また司祭のことをラテン語では、サッチェルドsacerdos と言います。聖トマス・アクィナスによるとこの語源は、sacra dans 聖なるものを与える人、という意味です。やはり、天上の聖なる物を人々に与える人、これが司祭です。それだけではありません。天から下に、私たち地に聖なるものを与えるのみならず、地にある聖なるものを天に挙げる、これも仲介者、仲立ちの役割です。つまり、司祭は何をするかというと、人々の祈りや罪の償いを、天主に捧げるのです。人々が直接捧げるよりは、天主により近い仲介者である司祭を通して捧げた方が、より快く天主に受け入れられるからです。ですから聖パウロはやはりヘブライ人への手紙の中で、こう言っています。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪を贖うそなえものといけにえとをささげるためである。」(ヘブレオ5:1)【神学大全3. q. 22. a. 1. c】
祈りや罪の償いを天主に捧げる、この祈りと償いのなかで、いけにえを捧げる中で、最も司祭に固有の役割は、犠牲を捧げること、いけにえを捧げるということです。
もちろん、祈りを捧げることは司祭にとってとっても大切な仕事であるし、司祭の祈りには特別の力がありますが、しかし司祭だけに限られたものではありません。皆が誰でも祈らなければならないからです。しかし、犠牲を捧げる、いけにえを屠って捧げるというのは、司祭だけにゆるされた特別な仕事です。
(2)【司祭の定義はイエズス・キリストにおいて完全に成り立つ】
では、この司祭の定義は、ヤーベによって旧約時代に与えられたまことの司祭の定義ですけれども、これはキリストにおいてどのように当てはまるでしょうか。これは、まさに完璧に、イエズス・キリストに当てはまります。なぜかというと、イエズス・キリストは、まさに天と地の仲介者・仲立ちであるからです。なぜかというと、天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性がわかちがたく合体しているので、イエズス・キリストほど、天と地の仲介者として仲立ちとして立つにふさわしい方がおられないからです。
聖パウロはこう言います。「御父は、すべてのみちみちるものを御子に宿らせ、そして、かれによって、かれにおいて、すべてのものを和睦させ、御子の十字架のおん血によって、かれによって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようとのぞまれた。」(コロサイ1:19-20)【神学大全3. q. 22. a. 1. c】
仲介者として、天と地を一つに和解させた。これがイエズス・キリストだと言います。仲介者・仲立ちのみならず、その、そうであるという存在のみならず、それの仕事もします、それの役割も果たします。イエズス・キリストは、聖なるものを天から人々に与えます。すべての天の最も尊いお恵みは、イエズス・キリストを通して、聖寵も掟も真理も与えられました。
聖ペトロはこう言っています。「キリストの天主としての力は、…命と敬虔とをたすけるすべてのものをくださり、また、それによって、私たちに尊い偉大な約束をお与えになった。」(ペトロ後1:4)
また、地から地上のものを天上へと挙げるという役割も果たします。
聖パウロはこう言っています。「ただ一度で永久にささげられたイエズス・キリストのおん体のささげものによって、私たちは聖とされた。」(ヘブレオ10:)
このイエズス・キリストの司祭職は、完璧である。この理由は、その天主の本性とその人間の本性が御言葉のペルソナにおいて完璧に一致している、というそれが根本的な理由ですが、その結果、イエズス様は旧約のすべての司祭職あるいは生贄を完成させた方であるからです。聖トマス・アクィナスによると、旧約のいけにえが意味があったのは、それはイエズス・キリストの象りであったからです。イエズス・キリストのいけにえの影であったからです。
聖パウロの言葉を聖トマス・アクィナスはこう引用しています。「律法は、実在の姿ではなく、将来のめぐみの影である」。つまり、旧約時代は本物ではなかった、ただの影にシルエットに過ぎなかった。本物の将来の来るべき恵みを待っていた。なぜかというと、聖パウロは、もっと言葉を取ります。「牡牛と牡山羊との血では、罪をとりのぞけない…」、「もしも動物の血が価値があったとしたら、イエズス・キリストの流される御血を意味していたからに過ぎなかった。」旧約の司祭職も全く価値がなかった。もちろん天主がそれを制定したものでしたけれども、それ自体としては価値がありませんでした。ただイエズス・キリストの司祭職を意味するか、影であるというがために、それは天主の御心に適うものでした。しかし、実物が 現実が到来したのちには、その影はもはや必要がありません。旧約時代、大司祭は、一年に一度だけ、至聖所と呼ばれる特別の幕屋に入ることができました。神殿の更にもっと奥に、一年に一度だけ、大祭司だけがたったひとり許される特別な聖なる場所がありました。聖にして、聖なる場所。至聖所です。そこに羊と小牛の血を携えて、その至聖所にあった祭壇にその血を振りかけます。これはただの影にすぎませんでした。
この旧約のいけにえもこの旧約の大司祭も、イエズス・キリストの到来によって、すべては完成させられました。成就しました。聖パウロの今日の書簡が、どのように完成したかを説明しています。キリストは旧約を完成させる大祭司、将来の恵みの大司祭として、復活して天国という完全な幕屋を通り、十字架上での御死去を通して流された自分の御血をもって、たった一度だけで永久に天主の至聖所にはいり、御父に御自分のいけにえを捧げ、永遠の贖いをなしとげられた。イエズス・キリストは、それですべての仕事を終わったのではなく、たえず御父の前にいて私たちのためにとりなしてくださっている、仲介者として仲立ちをしてくださっている、私たちのために祈ってくださっている、永遠の最高の完璧の大司祭であるということです。
この永久の司祭職、完成された司祭職は、御托身の瞬間から始まりました。3月25日にマリア様がお告げを受けて「われは主の使い女なり、仰せのごとくわれになれかし」とおっしゃったその瞬間、天主の御言葉がマリア様の御胎内に宿りました。そのときに、イエズス・キリストは司祭として、聖母の胎内に宿られたんです。これこそが最初の本当の新約の大司祭の叙階式でした。
旧約時代では、天主の聖霊のシンボルである聖香油を司祭に流して、叙階式が行われました。しかし、イエズス・キリストは天主本性ご自身と人間の本性が合体するので、そのような油は必要ありませんでした。天主の本性によって油をそそがれた者で、これこそが本物の油であったからです。
(3)【イエズス・キリストにおいて司祭職が完全に成就したことの結論】
これはいったい21世紀に生きる私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。それは、イエズス・キリストの司祭職、イエズス・キリストの捧げたいけにえ、これは最高のものであって、わかちがたく一致していて、そしてこれ以外に天主の御心に適う捧げ物はないということです。つまり、捧げる司祭は天主御自身、大司祭である。また捧げられたいけにえも、天主御自身のいけにえである、ということです。
旧約のいけにえはこの新約のいけにえを、この大司祭の到来をもってすべて廃止されました。もはや全く価値がなくなりました。いわんや、他のさまざまのいけにえなどは全く価値がないということです。
唯一、現代に生きる私たちにとって、天主の御心に適う罪の償いのためのいけにえ、これは十字架のいけにえ、これ以外にしかないということです。十字架の上に屠られた天主の子羊、十字架の上でいけにえを捧げる大司祭キリスト、これ以外には、わたしたちにとって捧げるべくいけにえはないということです。
この十字架のいけにえは、皆さんが今目の前で与っているカトリックの聖伝のミサにおいて、再現されています。
あたかも皆さんは十字架の足元に立つマリア様、聖ヨハネと、同じお恵みをミサに与ることによって、与えられます。カトリックの司祭は会衆の代表でもなければ、あるいは集会の司会者でもありません。そうではなくて、司祭は、叙階を受けた時にキリストの司祭職の刻印を、霊魂に刻みつけられます。これによってキリストの永遠の司祭職に与るものとなって、キリストの道具となります。ですからミサを捧げるのは、イエズス・キリスト御自身なのです。そして捧げるいけにえも、イエズス・キリスト御自身なのです。ですから皆さんはイエズス・キリストが捧げるいけにえに与っておられるのです。
全世界の宗教を見ると、今いけにえがあるのは、この聖伝の教えしかありません。
ユダヤ教では、昔いけにえが捧げられていました。しかし、それは廃止されました。特にエルサレムの神殿が崩壊されてからは何もすることができなくなりました。プロテスタントはいけにえを廃止しました。イスラム教はいけにえがありません。
しかし人類にとって最も大切なのは天主の捧げたこのいけにえを捧げ続けることです。ですから私たちにとって、十字架のこの犠牲、そしてそれの延長であるミサ聖祭は、最も大切な人類の宝です。これこそが、人類の存続を決定する最も重要な鍵となっています。そして皆さんはこのミサに、この十字架のいけにえに、今与っておられます。
どうぞ今日受難の聖なる時期に突入すると同時に、キリストの司祭職、キリストのいけにえというのがわかちがたく一致していて、一つを否定すればもう一つも否定されることになり、反対を否定すればもう一つも否定されることになることを、よく深めてください。私たちは最高のいけにえに与っているということを、ご存じになってください。
遷善の決心を立てましょう。全世界で、このミサは迫害を受けています。キリストの敵は、このミサがどれほど力があるか、ということをよく知っているので、これをなくそうと全力を尽くしています。私たちは天主の御恵みによってこのミサを守りつづけなければなりません。来たる金曜日は、七つの御悲しみのマリア様の特別の記念日です。マリア様に一緒にお祈りいたしましょう。十字架のもとに立ち止まって、決して十字架から離れることがなかったマリア様。私たちもいつも聖なる聖伝のミサ聖祭を守るお恵みを請い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。