聖なるミサのいくつかの儀式の意味についての説教
ドモルネ神父 2023年12月3日
はじめに
前回と前々回の主日、私は、聖なるミサで使用する典礼用具の象徴的な意味についてお話ししました。祭壇、殉教者の聖遺物、光、花、香といったものです。今日は、信者の皆さんから一番よく質問のある、ミサのいくつかの儀式の意味について説明したいと思います。
2回の告白の祈り
ミサの第一部は、開祭から信経までです。祈りと朗読を通して、司祭と信者は、ミサのいけにえを捧げる準備をします。この第一部に関して、二つのことについてお話しします。それは、2回の告白の祈りと、ミサ典書の祭壇の右側から左側への移動です。
祭壇は通常、カルワリオの丘を思い起こさせるように、床から一段上あるいは三段上に上げられています。司祭は、祭壇に上がる前に、告白の祈りを唱えることで、へりくだって、自らを清めます。詩篇31篇で、義人はこう言っています。「私は言った、『主に私の不正を告白しよう』。あなたは私の罪とがを赦された」(詩篇31篇5節)。これが、司祭が告白の祈りを唱えるときにすることです。司祭は自分が罪人であることを認め、他の人々のために祈る前に、自分のために祈ります。司祭は自分の罪を童貞聖マリアに告白しますが、それは、聖母が罪のせいで多くの苦しみを受けられたからです。司祭は大天使聖ミカエルにも告白しますが、それは、聖ミカエルが、私たちを死後の審判に導く方だからです。司祭は洗者聖ヨハネにも告白しますが、それは、聖ヨハネが、人が罪の償いをし、天主と和解するよう助けるからです。司祭は聖ペトロと聖パウロにも告白しますが、それは、彼らが、イエズスが罪を赦す力を与えられた教会のかしらたちであるからです。司祭はすべての聖人たちにも告白しますが、それは、彼らが私たちのために効果的に執り成しをすることができるからです。司祭は参列するすべての信者にも告白しますが、それは、聖ヤコボがこう言っているからです。「互いに罪を告白し、治されるために互いに祈れ。義人の熱心な祈りがあれば、効果がある」(ヤコボ5章16節)。次に、同じ理由から、信者が告白の祈りを唱えます。
ここで次の疑問が生じます。なぜ、司祭と信者が告白の祈りを一度だけ全員一緒に唱えるのではなく、別々に唱えるのでしょうか。それは、司祭と信者の違いを強調するためです。司祭はイエズス・キリストの、奉献された役務者であり、司祭のみが天主にいけにえを捧げます。信者が天主にいけにえを捧げるのは、司祭を通してだけです。ですから、まず司祭が自分を罪から清め、次に司祭とともにいる信者が自らを罪から清めるということが論理的なのです。
ミサの間のミサ典書の移動
さて今度は、ミサの間のミサ典書の移動についてお話ししましょう。司祭は、書簡の朗読では祭壇の右側にいて、福音の朗読では左側にいます。このように司祭の向きが変わるのはなぜでしょうか。これを理解するためには、まず、教会は東、つまり昇る太陽の方角を向くとされていることを思い出す必要があります。昇る太陽は、私たちの主イエズス・キリストを象徴しています。それはちょうど、ザカリヤがその賛歌の中で、「朝日は上からわれらに臨み、闇と死の陰に座る人々を照らし、われらの足を平和の道に導き入れる」(ルカ1章78-79節)と言っているようにです。ですから、正しく建てられた教会では、司祭は東を向いてミサを捧げます。司祭が書簡を朗読するときは南側にいて、東を向きます。司祭が福音を朗読するときは、北を向きます。これらのことは何を意味するのでしょうか。北は、サタンの王国とすべての罪人を象徴しています。実際、預言者イザヤによれば、ルチフェルは、こう言って天主に反逆しました。「私は天に昇り、天主の星たちより上に、私の座を立てよう、北の果ての極みの契約の山に住もう。高き雲の上に昇り、いと高き者に似た者となろう」(イザヤ14章13-14節)。福音は北を向いて朗読されます。イエズスの言葉はサタンに対して語られ、イエズスの言葉はすべての罪人を天主に回心させるために語られます。「義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た」(ルカ5章32節)。
北がサタンの王国とすべての罪人を象徴するように、南はキリストの御国とすべての信者を表します。司祭は南側で書簡を朗読しますが、それは書簡が、主に信者のためのものであるからです。司祭は昇る太陽に向かって書簡を朗読しますが、それは書簡が、私たちの主イエズス・キリストを信者によりよく知らせるために、主について朗読されるものであるからです。
福音の後、ミサ典書が南側に戻されないのはなぜかと、不思議に思われるかもしれません。それは、祭壇の南側は、ぶどう酒と水を持ってくるためにあけておかなければならないからです。ですから、ミサ典書は、司祭の左側に置いたままにされます。しかし、聖体拝領後の清めが終わるとすぐに、つまり、祭壇の南側が再び何もない状態になるとすぐに、ミサ典書は南側に戻されます。ミサ典書は教会と信者の祈祷書であるため、最もふさわしい置き場所は南側なのです。
ぶどう酒に混ぜられる一滴の水
ミサの第二部は奉献であり、これは信経から序誦までです。司祭は、イエズス・キリストの御体と御血となるパンとぶどう酒を準備し、また、いけにえが捧げられるなだめの意向を表明します。この第二部のうち、二つのことについて述べます。それは、ぶどう酒に混ぜる一滴の水と、パンとぶどう酒への撒香です。
司祭はカリスの中にぶどう酒を少し注ぎ、水を一滴垂らします。ぶどう酒は秘跡の質料であり、イエズス・キリストの御血となります。しかし、水を一滴加えるのはなぜでしょうか。まず、歴史的な理由があります。聖伝が伝えるところによれば、イエズスは、最後の晩餐のとき、ユダヤ人の習慣に従って、ご自分が聖別されるぶどう酒に水を少し混ぜられました。この歴史的理由に加えて、教父たちは、ぶどう酒に一滴の水を加える二つの理由を示しています。第一の理由は、信者と私たちの主イエズスとの一致を表すためです。以下は、聖チプリアヌスが述べたことです(チェチリウスへの書簡)。「カリスに注がれる水はキリストの民を表し、ぶどう酒はイエズス・キリストの血を表す。カリスの中で水とぶどう酒が混ぜられるとき、それはイエズス・キリストと一致した贖われた民を意味する。カリスの中で、水とぶどう酒は、互いに分離できないように混ぜられる。同じように、信者が信仰を堅持する限り、イエズス・キリストから教会、すなわち信者を切り離すことはできない」。司祭がぶどう酒に一滴の水を加える第二の理由は、私たちの主イエズスの刺し貫かれた心臓から流れ出た水と血を表すためです(ヨハネ19:34参照)。
司祭は、葬儀ミサの場合を除いて、この一滴の水をカリスに注ぐ前に、その水を祝別します。このような違いがあるのはなぜでしょうか。一滴の水はキリストの民を表し、司祭はキリストの民を私たちの主と一致させる前に祝福します。しかし、葬儀ミサでは、一滴の水は、主にミサが捧げられる意向の煉獄の霊魂を表します。司祭が煉獄の霊魂を祝福しないのは、彼らには、もはや司祭の祝福を受ける意義がないためです。
奉献でパンとぶどう酒に香を撒くこと
歌ミサでは、司祭は奉献の間に、私たちの主の御体と御血となるべきパンとぶどう酒に香を撒きます。司祭はこの撒香を、興味深い方法で行います。煙の出ている香炉を使って、司祭はまず、カリスとホスチアに、十字架の形に3回香を撒きます。これは何を意味するのでしょうか。十字架の形での撒香は、イエズスがパンとぶどう酒の外観の下に更新される十字架のいけにえを表しており、立ち上る香の香りは、このいけにえが天主を最もお喜ばせするものであることを表し、撒香は、このいけにえの完全性を表すために、3回行われます。
次に司祭は、パンとぶどう酒の上に、さらに3回、円を描くように撒香します。2回の円は反時計回り、1回は時計回りです。これは何を意味するのでしょうか。円は始まりも終わりもないため、永遠の象徴です。天主のみが永遠ですから、この円は天主を象徴しています。3回の円は、いけにえが捧げられる対象である、天主の三つのペルソナを表しています。2回の反時計回りの円は、いけにえを天主に捧げることを表し、時計回りの円は、捧げられたいけにえに応えて、天主の御あわれみが私たちの上に下ることを示しています。
結論
親愛なる信者の皆さん、これらの説明が、皆さんがローマ典礼の聖伝のミサの典礼をもう少しよく理解し、ミサをもっと祈りやすくする助けとなりますように。聖伝のカトリック典礼は、非常に豊かな意味を持っており、信者の信仰と信心を効果的に養うに適したものです。一方、新しいミサ典礼はどうしようもなく退屈なもので、人々の信仰と信心を生ぬるくし、ミサの至聖なるいけにえを軽んじさせてしまうだけのものに過ぎないのです。