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ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

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ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

Rome: The DDF Authorizes the Blessing of Same-Sex or Unmarried Couples

2023年12月19日

2023年12月18日(月)、教理省(DDF)は、教皇フランシスコが同日署名し、司牧的愛徳という理由から、「不規則な状況にある」カップル、言い換えれば、未婚のカップルあるいは離婚して再婚したカップルや、同性のカップルの祝福を認可する宣言を発表した。

教理省は、このかなり長い文章の中で、フランシスコの教えに依拠することによって、特に5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia、質問)に対して教皇が出した回答――奇妙なことに、この文章に2度登場している――に依拠することによって、この決定を正当化しており、「ペトロの後継者に仕える道具」の行為として、その行為を正当化している。

その点について、ビクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿(あだ名はトゥーチョ)は、自分の文章には、「革新主義的な」――これは「聖伝ではない」とも訳せる――性格を認めている。彼は祝福に新しい「司牧的」意味を与えようとさえ考えて、「典礼的観点と密接に結びついた祝福の古典的な理解を広げ、豊かにすることを可能にする」と述べているが、このことは何よりも彼の無知を示している。

つまずきを与える文章

この文章のつまずきを与える性質を指摘することが重要だ。この文章は、意味上のもがきがあるにもかかわらず、教理省が以前に行った決定に反対しているように見える。この決定は2021年2月22日付のもので、抜け穴を残さないような説明をつけて、そのような祝福の可能性を否定した。ちなみに、それは、フランシスコによって認可されている決定だった。

つまずきは、たとえ教理省が結婚との類似を避けるために慎重だったとしても、信者に、新聞に、そしてカトリック信者ではない人々に引き起こした結果が、「教会は同性カップルの祝福を認可している」という肯定的な結果だという事実にある。教理省が定めようと試みているような区別は一切ない。

しかし、教皇庁がこの結果を予期していなかったということはあり得ない。したがって、教理省は、定義によれば、堕落する機会、すなわち罪を犯す機会となるつまずきの全責任を負っている。信者の一部であろうとなかろうと、多くの人々の考えでは、この発表は、教会がこのような罪の状況を何も付け加えずに受け入れているという言い方の一つであることは絶対に明らかである。

効果のない区別

この結論に至る論拠は、典礼的祝福と典礼的でない祝福との区別だ。前者が除外された場合、後者は第39段落に列挙された以下の条件の下で受け入れられる。「この祝福は、シビルユニオンの儀式に付随して行われるべきではなく、それに関連して行われるべきでさえありません。また、結婚式にふさわしい服装、身振り、言葉を用いて行うこともできません」。

しかし、問題はその区別そのものにあるのではなく、典礼的であろうとなかろうと、悪いもの、不道徳なものであってはならない「祝福の対象そのもの」にある。中絶を希望する女性が司祭に、すべてがうまくいくように祝福してほしいと頼んだ場合、司祭は彼女に祝福を与えなければならないのだろうか。この宣言の条項によれば、その返答は「イエス」であるように思われる。しかし、良識ある人なら誰でも、この女性がこの罪を犯すのを避けるように助けるという目的以外には、祝福を与えることはできないと理解している。

たとえ同性愛者であっても、結婚せずに同居している人であっても、司祭は「すべての人」を祝福することができるというのは、その通りだ。同様に、告解室では、正当な理由で司祭が一つのケースあるいは他のケースで赦しを拒否した場合でも、司祭は、悔悛者を励まして彼に照らしや強さの恩寵を求めるために、彼を祝福することができる。

しかし、「カップル」を祝福する場合、その祝福の対象そのものは、カトリックの教理が断罪しているこの非合法な結合だ。そして、宣言の第40段落で、この祝福において「何も合法化する意向はありません」と言うのは、良く言えばむなしい願いであり、悪く言えば偽証である。なぜなら、祝福される人々の目にも、彼らの周囲の人々の目にも、それは合法化だからだ。

典礼的でない祝福という偽りの安全策

第37段落では、5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia)に対する回答が用いられている。この回答は、「ある状況においては司牧的慎重さの一部となり得る決定が、必ずしも規範となるべきでありません」という事実を強く主張している。教理省は、第38段落で次のように結んでいる。「この理由から、不規則な状況にあるカップルの祝福のための儀式を提供したり、推進したりすべきではありません」。

第37段落が説明するように、教皇にとっての危険とは、「耐え難い詭弁に至る」こと(「愛のよろこび」(Amoris laetitia)第304段落による)だ。しかし、ヨゼフ陳枢機卿は、5人の枢機卿の「ドゥビア」に対するフランシスコの回答に関する解説の中で、すでにそのように主張に反論している。

フランシスコがこれらの祝福のための正確な規則を望んでいないという事実について、この中国人枢機卿は「司牧上、納得できない」と主張している。「教会は、このような重要な問題において、人々を明確な規則もなくそのままにし、個人の識別を信頼することができるのだろうか。このようにして、霊魂にとって非常に危険な詭弁という混沌が発生するのではないだろうか」。

その件に関して、ある疑問が浮かぶ。教理省は、オランダ語圏ベルギーの司教たちやドイツの司教たちなど、そのような典礼的定式文をすでに公布している司教団や司教たちに撤回を求めるのだろうか。詭弁による混乱はすでに始まっているのだ。

結論として、「愛のよろこび」の革命的な文章をその最終的な結末へと至らせるこの宣言は、すでに予想されていたことではあるが、深い分裂の種を持ち込み、教会に計り知れない害をもたらすことになるだろう。私たちが希望できることとは、宣言に対して多くの反対の声が上がることによって、宣言の作者たちが、これを早く理解することです。

(Source : Saint-Siège – FSSPX.Actualités)


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